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歩くことが唯一の趣味ですから。

岐阜

2012-11-04 | Weblog
岐阜って地味なイメージ(のっけから失礼)あるけど、織田信長がこのへんでブイブイいわしてたころは
天下にさきがけ楽市楽座はあるわ、南蛮渡来の鉄砲はぎょうさんあるわ、当時まだ城下町が珍しくって、
ど派手なイメージだったはず。地名だって「岐阜」って名づけたの信長だもん。ナウいじゃん?


駅前の銅像、金ぴか!

岐阜になるまでなんて呼ばれてたかというと、井ノ口ですからね。スケール感ぜんぜんちがいますよ。
さすが「天下布武」めざす人はネーミングセンスが卓抜ですな! (おだててもしょうがない)


そしてあれが岐阜城

美濃のまむしと呼ばれた斉藤道三とその子たちの時代まで「稲葉山城」と呼ばれていたのを、これも
信長が「岐阜城」にしちゃった。きょうはあそこに行こうと思います。


写真を撮ってる人がいて、ズームしないとこんな感じ…

歩いて登るの大変そうだから、やっぱりやめようかな。どうせ城なんて近くで見るより遠くで見る方が
いいにきまってるもん! と心が折れそうになったとき、ロープウェーがあることに気づいたら元気が
出てきました。やっぱり行こうかな。


織田家の家臣はロープウェーなしで大変だったね…

これで上まで行けばすぐ城があるかというと、そうは問屋が卸さない。結局また自分の足で坂を上る
必要があります。観光地と上り坂は切っても切れない関係にあるのです。


やっぱりやめておけばよかったかな…

ぶつくさいいながら上ります。鎌倉時代に二階堂さんが幕府の軍事目的のために築城したのが始まりで、
そのうち二階堂さんが稲葉さんと改姓したので、ここは稲葉山と…城は稲葉山城と呼ばれるようになった
そうです。そこの立札に年表が出てるのを横目で見ました。


 ・・・・・・近っ!

斉藤さんが守護代になって引き継いだ城を、どこの馬の骨ともわからない「まむし」が奪い取って、それを
また織田信長が奪い取ったわけです。ちなみに関ヶ原の戦いのあと、廃城になりました。


なかなか眺めは悪くない……武具馬具のたぐいが中に陳列されています

これから天下をとろうという人がずっと居城にするには、ちょっと狭いかも。そこで安土城を作ったわけ
なんですね……すぐ本能寺の変で亡くなって、安土城あとかたもないけども。


山のふもとにも信長の居館があったみたい

いつも山の上だと不便ですからね。それに、あの山城ちょっと狭くて、鉄砲で攻められると守りにくそう。
それぐらいなら下に広い屋敷を作って、堀で守ろうというのが後世の城の発想だとか。


板垣死すとも、自由は…

どうして板垣退助の銅像が織田信長の居館跡にあるのかと思ったら、明治15年(1882)ここで暴漢に
胸を刺されて、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残したそうです。当然、死んだのか
と思うでしょ? 自由じゃなくて板垣のほうが……だけど、生没年を調べてみると大正8年(1919)まで
生きてるんですよ。ずいぶん長生きしたんですね。なんとなく釈然としない岐阜の巻でした。

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