散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

六本木から歩く

2015-06-28 | Weblog
知ってる街を歩いてみたい〜どこか近くへ行きたい〜♪ 朝早く起きて、なでしこが
サッカーやってるの見ないで、梅雨なのにほの明るい空を見てどこか近くへ行きたく
なったので六本木にきてみた。いつものことながら、朝まで飲んでた人たちフラフラ、
ヨロヨロ、どこか沈痛な面持ちでさまよってる。


志賀直哉の家へ

六本木交差点から東京ミッドタウンの手前の路地に入ると、小説の神様と呼ばれた
志賀直哉が29歳まで住んでいた実家の屋敷跡があるはず……六本木4丁目3-13
……広大な屋敷と聞いたけど、現在ブリヂストンの社宅になってる。


父親との反目をテーマにした「和解」の舞台もここ

飯倉の向こう側には島崎藤村が大正7年から昭和11年まで暮らしていたというから、
六本木交差点をまた渡って外苑東通りを歩いていく。


もう朝なのに夜っぽい外苑東通り

島崎藤村が最後の長編小説「夜明け前」を書いた住居は、飯倉交差点を越えて右の
麻布台3丁目4-7……急な坂を下りたところ。


こういう坂を下りてゆくと、旧居跡の石碑がある

47歳から65歳まで暮らした場所がいまどうなってるか見ると、やっぱりマンションに
なっている。石碑があるだけ、わかりやすい。


これが旧居跡に建つマンション

このマンションの向かいに木造の住居があって、もしかしたら藤村が住んでいた家も
似たような感じだったかもしれない。


たぶんちがうだろうけど……

白樺派の作家の家も、自然主義の作家の家もマンションになっていた。高踏な作風の
作家の家は……高層ビルになっている。


あのビルのあたり

永井荷風が大正9年から25年間住んだ木造二階建の「偏奇館」は、泉ガーデンタワー
になっている。そこまで歩いて見にいく。


行合坂を上り下り

車道は平らなのに、歩行者は急な坂を下って上らないと通れない。もともと谷だった
ところを、車道だけ上り下りなしで通れるように造成して、歩道が谷のまま残されたと
いうわけだろう。ブラタモリか。


泉ガーデンタワーの下に石碑が

永井荷風が生活した「偏奇館」は、ペンキ塗りの洋館に偏奇な人が住んでいるという
意味合いなんだろうけど、そこにいまはガラス張りのタワーがそびえたつ。


大空襲で焼失した

「軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁をみいだす
当時の荷風の心境・作風とよく合致した」建物だったと碑文にあり、めぐりあわせが
なんとも皮肉な感じ。


カラスも早起き

人が起きてくる前に、なにか咥えて得意そう。東京タワーのほうをまわって、赤羽橋
から札の辻のほうへ歩く。ひまわりが咲いてるのを見た。


気温が上がりそう

あまり雨降らないけど、これで梅雨なんだろうか。第一京浜を歩いて、三田3丁目7
住友不動産三田ツインビル西館へ。


やはりそびえたつ高層ビル、向こうに江戸の遺跡

小高い丘の上に、徳川家光が50人のキリシタンを処刑した刑場の跡がある。元和9年
(1623)のことで、同じ場所で寛永15年(1638)にもキリシタンらが処刑されたとか。


こちらが元和キリシタン遺跡

処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水
ら50人で、京都に通じる東海道の入口の丘が選ばれたと当時の記録にある由が、石碑
に刻まれている。


江戸の外れだから

もう少し第一京浜をゆくと、江戸の南の出入口、高輪大木戸門がある。その先の泉岳寺
には赤穂浪士の墓があり、切腹の場所も近い。江戸の外れということで、当時は処刑に
適した地とされたんだろう。


この石垣が大木戸の名残り

道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側の石垣に、大木戸が備えられ、夜は通行止めに
して治安の維持と交通規制の役割を果たしていたとか。


事故車が乗り捨てられていた

四十七士も元和キリシタン50人も高輪のあたりで刑死してキリシタンのほうが人数多い
のに義士の墓よりキリシタン遺跡を訪れる人が少ないのは日本人がそれだけ赤穂浪士
っぽいってことかも?

関連記事:  高輪 (四十七士の刑場と墓所など)  
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