散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

稚内

2017-05-12 | Weblog
南の果てとか西の果てとか東の果ての駅には行ったことがあるので、これで東西南北コンプリートした。
そんなつもりで来たわけじゃなくて、ただの偶然。うっかりコンプリートだった。


稚内の六本木ヒルズ森タワー

駅前にそびえるのは、ヒルズ森タワーそっくりのANA系列ホテル。その反対側をみると日本でいちばん
北にある市場だという、北市場。2階には夢広場がある。


夢広場は海の幸のレストラン

1970年代の半ば頃まで、つまり200カイリ問題が生じるまで、このあたりはもう漁船で大賑わいだった。
漁船の半数を所有していた瀬戸家の屋敷跡でこんな写真を見た。


右端のほうに現在は夢広場が

当時はこんな漁船が60隻ぐらい港にいて、1隻で水揚げが3億円ぐらいになった。いまの物価に直すと、
だいたい10億円ぐらいらしい。そんなのが60隻もいたら笑いが止まりませんな。半分として300億の金が
1回の水揚げで瀬戸家に入るわけだから。年収いくらやねん。


夢広場でお昼カニカレー食べる

ちなみに現在は数隻しかいなくて、水揚げが数百万円とか。昭和30年代、40年代はよかった。稚内の町
も活気が全然いまと違った。ちなみにカニカレーはカニの脚フライが乗ったカレーで、あんまりカニの意味
なかった。薄々そうじゃないかと思った。


夢広場にマトリョーシカがズラリ

さすがロシアが近いだけあって、マトリョーシカだらけ。昼ごはんを済ませて稚内をぶらぶら歩いてみると、
もっと間近にロシアを感じることになった。


道路標示にいちいちロシア語!


これにもロシアの文字!

札幌や旭川でこんなことがあるだろうか? 旭川は250kmも離れているし、札幌はもっとだからロシア語は
こんなに優遇されてなかった気がするけど、どうだろう。


商店街を歩いてみてビックリ!


くるみってロシア語でも出てる


電気屋さんにもロシア語の文字


コスメの店にもロシア語で何か


日本語よりも目立ってるじゃん


わっかないしんきん? (¥-$・$-¥) 

うっすら読めるようになってきたかも。どこかそのへんにムネオハウスがありそうなほどロシアの文字が
そこらじゅうに!


これは日本語だけか…


これも日本語だけ……

なんだろう、ロシア語に訳さない看板には法則性がありそうな気がする。おまん、ます助、おまん、ます助、
ああ! わかりそうでわからない。


派手な神社が山の上にあった


派手な神社から稚内を見下ろす

ここで仕事の電話を1本受けて、稚内にいることはおくびにも出さずに打ち合わせを終えて絵馬を見た。
ふしぎとロシア語の絵馬は見かけなかった。


散歩を終えてビールを1杯

ロシアのビールが町のいたるところに置いてあるわけでもなかった。ロシアの人をたくさん見るわけでも
なかった。最北端の町なのに中国の人、韓国の人は観光にきていた。ミサイルが飛んでくるかもしれない
と思ってるのは日本の人だけなのか?


夕飯はカニしゃぶ、タコしゃぶ

意味のないカニカレーから教訓を学びとって、メシも2度目なら少しは上手に海のメッセージ食したい。
いつもはこのへんで終わりが近いのだけれど、稚内は遠すぎて名所ろくに見てないので翌日も滞在して
ほっつきあるく。


宗谷岬にやってきました

流氷とけて、春風ふいて何とやら。これ以上書いたら、JASRACこと日本音楽著作権協会(だったかな)が
黙ってないかもしれないので控えますが、あの曲でもおなじみ宗谷岬です。日本最北端。


こういった位置関係……

肉眼だと海の向こうに樺太が見える。本当はあれも北緯50度まで日本のはずだけど、一応ここが最北端。
利尻島も礼文島も緯度は宗谷岬より低い。


間宮林蔵が島と証明

巨大すぎて何だかわからなかった樺太を実際に歩いて回り、島だということを見つけて地図を作製した。
だから樺太は日本だというのが日本の立場だったけど、ロシアが実効支配中。


明治35年に日本軍が作った望楼

軍艦のブリッジのような形のこの建物は、宗谷岬の高台に日本軍がロシアの艦隊を見張るために作った。
その2年後から日露戦争だから完全に本気だ。


ちなみに裏側はこうなってる

ここまでくるには稚内から路線バスで40分だか50分だか、1日に4~5本しか便がないので帰りの時間を
ちょっとは気にしておかないと危なっかしい。


また稚内の港まで戻ってきた

あのフェリーに乗ると利尻島とか礼文島まで行けるらしい。30分ぐらいで着くのかと思ったら、1時間40分
とか2時間とか片道かかる。なんか面倒だからやめようかな……。


へんてこりんな建造物があるぞ

もしかして日本軍が明治35年ごろ敵襲に備えて構築した、稚内の長城みたなもの? それとも砲台かな。
近づいてみたら、北防波堤ドームと記してあった。


おかしなカタチの防波堤だな…


この石の板に何やら刻んである

稚内港北防波堤ドームの由来: この防波堤は、戦前、稚内~樺太との定期連絡船発着所として築設された
もので、アーチ型構造物として立案され、昭和6年に着工し昭和11年に完成されたものであるが、激波のため
老朽が進み、昭和53年より改良施行し、完成は昭和55年である。


激波? 老朽? 防波堤が?

(つづき) この構造物の名称は、古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から通称「ドーム」と呼ばれ
世界で唯一のものである。


古代ローマっぽいが世界で唯一

石板に刻んであることを読んでも、いまひとつよくわからない。防波堤ドームの裏側に回ると、ちゃんと
防波堤があるし。


ドームである必要があるのか?

200カイリで漁業が下向いて観光が注目されるようになったとき、放置されていた定期連絡船の発着所を
整備しようと誰かが考えたけど、防波堤って名目にしないと賛成が得られなかったのかな?


こんな感じの発着所だったらしい


昔は稚内駅より先まで線路が…


この船着き場まで続いていた

いちばん手前の建物が駅だ。昭和11年に完成した稚内~樺太の連絡船発着所、わずか数年しか使われず
に放置されたというから、それで老朽したんだろう。世界大戦もあったし。


ハイカラな発着所は短命だった

これらの資料は底曳漁で巨万の富を得た瀬戸家が昭和27年に建てた邸宅跡にあって、稚内のことが詳しく
わかる。入場無料で、瀬戸家はどこにいるのかなと思ったら近くに住んでいるみたい。漁業で蓄えた資本を
生かして、邸宅跡のすぐそばでガソリンスタンドを営んでいた。


こちらが昭和27年築の旧瀬戸邸


底曳漁って大きな網を使うんだな

漁業も規模縮小して営んでいるようだった。小樽にある鰊御殿みたいなものかと思ったけど、底曳御殿と
いうべきものだった。秋田の大工が建てたから北海道の家とは構造が違うらしい。


いちばん見応えがあったかも…


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1 Comments

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羨ましいです。 (モーニング)
2017-05-14 14:56:07
稚内はまだ行ったことがないので羨ましいです。

1月から東京に住んでます。グルメ情報等、参考にさせていただきます!

よろしくお願いします。
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