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歩くことが唯一の趣味ですから。

宇都宮炎上

2020-08-15 | Weblog
75年前の空襲でアメリカが日本の非戦闘員を大量に殺戮したことは記憶に新しい。ここ、宇都宮にも繰り返し
空襲が行われて、たくさん人が燃え上がり、街が破壊された。



非戦闘員を大量殺戮することは戦争中であっても許されることではないが、戦勝国がそれで咎められることは
なかった。宇都宮市今泉1丁目4の33にある篠原さんのお宅も、母屋と3つの蔵を残して焼けた。



篠原さんは幕末から、奥州街道口の現在の場所で醤油作りと肥料作りを商いにして暮らしていた。現在の建物
は明治28年に建てられたもので、第二次世界大戦の戦火でほとんど焼けてしまった。



残った母屋と3つの蔵は平成8年、宇都宮市に寄贈された。入館料100円で一般公開されている。宇都宮駅の
西口から徒歩3分……猛暑で運動を差し控えていても、3分ぐらい何とか歩けなくもない。



全国各地に残る石造りの蔵は、ほとんどが明治・大正・昭和の初めに力をつけた商家が、江戸の情緖に憧れて
建てた新しいもので、篠原さんのお宅も明治28年だから当時の流行そのまま。



狭い階段で2階に上り下りする。醤油と肥料の儲けで建てた住居も、100年で市に寄贈せざるを得なくなる。
日本の税制は本当に吸血鬼、または寄生虫。



篠原さんの蔵には近くで採れる大谷石が張られている。大谷石の採石場には以前、涼みに行ったことがある。
その石を使った建物がどんなのか見たくて、わざわざ駅から3分も炎天下を歩いてきた。



これがその大谷石を使った蔵か。木造で、壁に石材が張ってある。石蔵といったってヨーロッパじゃないから
石を積み上げて建てるわけじゃなく、木を組んだ建物の壁に石を切り出して並べる。



中をのぞいて見よう。こういう扉、うちの土蔵にもあった。母屋の中に重い扉があり、その中に子供が入っては
いけないことになっていた。いま思えばあれが蔵だった。



それでも入りこむと、中はこんなふうに木造で、いろいろな生活用品が置かれていた。酒やジュースなどもあり、
たしかプラッシーがケースで置かれていた。



土蔵の2階はこのように板張りで、古い書類や漫画、雑誌などがあった。子供の頃、そういう古いものを広げて
読むのが好きだった。うちの蔵もきっと明治・大正・昭和の初めの建物だったはず。



知らない土地の、知らない人の旧宅を100円払って見物し、なつかしいものを見てしまった。旧篠原家旧宅、
いまでは国指定重要文化財・建造物に指定されているようだ。住み続けるのがいちばんだとは思うけれど、
そうできない事情がきっとあったんだろう。

関連記事:   地下採石場




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