団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ご苦労さま 目上 目下論争

2015年12月04日 | Weblog

  11月22日夜、大阪の知事と市長のダブル選挙投票所を訪れた男(47歳)が投票管理をしていた男性(70歳)の「ご苦労さん」に激怒して「『ご苦労さん』は目上の者に使う言葉ではない」と言って、投票所の机をひっくり返した。その上投票管理者の頭を平手打ちして「机の角を脳天に突き刺すぞ」と脅した。大阪府警は公職選挙法違反容疑でその男を逮捕した。

   朝のテレビに『毎日百歳』という企画があり私は興味深く観る。ある朝百歳を超えている男性が言った。「人に言った方がいいと思ったことは言ってあげる」 薀蓄のある言葉である。日本人の多くは他人とのトラブルを避けようとする。私も言いたくても口に出さないほうである。

  カナダの学校生活で戸惑ったのは、誰もが自分の考えを主張しあうのが当たり前という環境だった。授業中でも日本なら教師に「そんなこと訊くな」「黙っていろ」と言われそうな場面でも教師と生徒が真剣に言葉の応酬があり、周りも容認していた。学校だけでなく、どこでも皆、言いたいことを言わなければ生活できないと感じた。

  日本人の事なかれ主義、長い物には巻かれろ主義、権威主義、年功序列などの慣習は、まず日本の学校で形成される。私は小中学校高校の教室の構造にも問題があると思っている。平面な教室に一段高い教壇がある。教師は生徒を見下ろす。目上、目下の違いを徹底するのに大いに役立つ。初めてカナダの階段式講義室に座った時、私は「これだ」と思った。学生が教授を見下ろす。教授は学生からの“目下”の位置に立つ。学生は一斉に教授を見下ろす。スキあらば教授にギャフンと言わせようとする。教授は孤軍奮闘、学生に学識と知性で立ち向かう。

  日本人の意識改革にはまだまだ時間がかかる。大阪の47歳の「ご苦労さん」事件は、論点そのものに問題はない。悲しいことに相手を説得させる話し方が未熟稚拙である。『毎日百歳』のおじいさんの「人に言った方がいいと思ったことは言ってあげる」の気持が抜けている。それではチンピラのイチャモンと同じである。

  私の妻は私に「あなたは私にあなたの言いたいことをどんなことでもストレートに言うのに、どうして自分の子どもにも孫にも他人にも私と同じようには言わないの」と指摘する。確かに反省すべき点である。負け惜しみではないが、妻には心を許している状態なのである。しかし妻以外の関係には、いまだに日本人としての身に沁みついた古い呪縛に捕われている。

  国語辞典編纂者で日本語研究者の飯間浩明さんは「『ご苦労さま』も『お疲れさま』も、目上に使えないということはありません。かつては主君に対する臣下のあいさつとして、警察や自衛隊の改まったあいさつとして『ご苦労』がつかわれていた」と見解を述べている。そう言われても拭い難い“しこり”は残る。

  私は「ご苦労さま」と、宅急便の若者、郵便局員、道路掃除をするボランティアの人々、集合住宅の管理人につい不用意に言葉にしてしまう。そして言った後、必ず不快感を持つ。気持ちは感謝でいっぱいなのに、へたな知識や経験が邪魔する。そうだ、私の辞書から「ご苦労さま」も「お疲れさま」も外そう。これからは「ありがとう」と「かたじけない」でいこうと思う。

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