団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

子供は両親が家で話すことを町で話す

2015年07月01日 | Weblog

 アメリカのサウスカロライナ州チャールストンの黒人教会で6月17日、銃撃事件が発生、黒人教会関係者9人が死亡した。21歳のディラン・ルーフ容疑者が逮捕された。

 彼は犯行の目的をネットに載せて公にした。そこで彼は黒人やユダヤ教徒、中南米系を侮辱した。北東アジア人には連帯感を示した。理解に苦しむ内容である。特に日本人にとっては有難迷惑な気がする。容疑者は高校を中退して定職を持っていなかった。犯行に使った銃は誕生日のプレゼントとして父親から贈られたという。

 この事件を知ってユダヤの聖典にある『子供は両親が家で話すことを町で話す』を思い出した。ディラン・ルーフ容疑者の家庭では、白人以外の人種への罵詈雑言が当たり前のように飛び交っていたのではと私は想像する。その環境が21年かけてディラン・ルーフ青年の犯行に至らせた。

 私の離婚後、私の長女は私のカナダ留学時代に知り合った日系人先輩がシアトルに住んでいてその先輩の家族に預かってもらった。長女が通った小学校のクラス担任から日本の私に手紙が届いた。下記のような内容だった。“クラスの生徒のひとりが、長女に「うちの両親は日本人が大嫌いだって」と言った。長女はその夜、その子の親に直接電話をかけ「あなたの娘さんから、ご両親は日本人が大嫌い、とお聞きしました。私は、私の気持ちをお伝えしたくて電話しました。私はアメリカが大好きです。アメリカ人が大好きです。おやすみなさい」翌日、その両親がそろって学校に来た。そしてクラスで話がしたいと担任教師に告げた。両親は、クラス全員の前で長女に謝罪した。そして最後に、二人は交互に長女を抱きしめたという。クラス全員が立ち上がって、拍手した。”

  アメリカの長女の同級生である白人少女が両親の日頃言っていたことを長女に伝えたのは、ユダヤの『子供は両親が家で話すことを町で話す』の教えの一つの例であろう。たまたま長女に謝罪した親は、それなりの良心を持ち合わせていた。わざわざ学校に夫婦で出向いて直接謝罪するには勇気がいる。その家族に大きな教訓になりえた。私は長女が両親に電話をかけて自分の考え気持ちを伝えたことに長女の成長を感じた。嬉しかった。親の離婚、環境も言語もまったく違うアメリカの家族に預けられ、思ってもみなかった人種差別さえ受けなければならなかった。自らが選んだ道でなかったにも関わらず、逆境と戦っていた。

  私たちは学校を選ぶことができ、嫌なら退学することもできる。しかし誰も生まれてくる家庭を選ぶことができない。親も選べない。生まれて死ぬまで家族という血縁は断ち切ることができない。ほとんどの人の家庭で過ごす時間は、家庭外で過ごす時間よりはるかに長い。家庭という環境で人間形成が進む。悲しいことに得てして多くの親は自分の影響力を自覚できていない。自分たちの日常が、何気ない会話が、どれほど子供に影響を与えているか知る由もない。

 差別はどこにでもある。私の心の中にもある。それを黙らせるのは教養である。教養のある人とは鎌倉の円覚寺に掲げてある『気配り目配り手配り』のできる人だ。銃は人を殺す。教養は人を生かす。

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