団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

築地

2010年04月15日 | Weblog
 カナダのマニトバ州ウニペグ市の白熊ツアーは、有名である。このツアーに参加すると北極圏の白熊の生息地に行って真じかに白熊を観ることができる。動物園ではない。白熊は、檻の中にでなく、観に来た人間が檻のお中にいる。ヘリコプターで檻を釣り上げ、人間の入った檻を白熊のいるところに置いてくれる。白熊は人気がある。私はそこまでして白熊を観たいと思わない。これといった観光資源のない小麦畑がどこまでも広がるマニトバ州でこの白熊ツアーは世界中から観光客を集めている。

 築地市場は、日本の大切な観光資源である。外国人観光客をマグロの競り場から締め出すなどもっての外だ。観光ほどおいしい産業はない。ましてや観光立国を目指すのなら、この築地という貴重な観光資源をなおざりにしてはならない。いかにしてこの貴重な観光資源を有効活用するかを考えることが先決である。外国人観光客を追い出すことは、日本独特の逃げである。

 やれ外国人に日本人のような行儀良さがない、日本文化を理解できるのは、日本人だけである、神聖な職域に異人を入れるなとなる。どこかで聞いたことばかりだ。朝青龍問題、酒の杜氏、相撲の土俵作り、青函トンネルの工事現場。やれ男だ女だ家柄だと騒ぐ。

 2010年度東京大学の入学式の式辞で学長が「国境なき東大生になれ」と述べた。最高学府の学長が最難関大学の合格者にこのような訓示をしなければならないほど、日本の国境は依然として堅固に立ちはだかっているのだろう。最近の日本の世相は、「面倒くさい」に支配されている。国境を取り除くことは実に面倒くさい仕事である。国境なきを標榜するならば、面倒くさい作業をひとつひとつ解決していかなければならない。築地市場の市場関係の一部の者のように、外国人観光客を小突いて「邪魔だ、どけ!おら」では何も始まらない。

 そこで提案したい。日本産業界得意の技術力をいかして、連結した檻の中に観光客を閉じ込め、築地のマグロの競り場内を客を乗せた車両を連結し電気自動車で牽引して案内する。檻といったのは、マニトバの白熊ツアーを連想したからである。語弊があるなら観覧車と呼んでもいい。

 国境をなくすれば、ありとあらゆる文化思想哲学を持つ人々と接触せざるを得ない。そこをユーモアのセンスを持って洒落たオモテナシを展開すればよい。触るな、入るな、立つな、乗るな、と言えば、多くの人間は、自動的に反対行動をとると思えばいい。それらすべてを封じ込めるには、檻が効果的である。清潔で無公害で機能的なスマートで面白い檻を日本なら作れる。築地市場は東京都の管轄だ。ある意味民間会社より役所のほうが規約規則を作り施行するのが早くてうまい。ぜひ東京都が率先して観光立国へのリーダーシップをとって欲しい。

 多くの外国人観光客が築地市場を観光し、まわりの寿司屋で美味しい寿司を食べ好印象を持ってくれれば、クジラ、マグロ問題にもまた違った意見を持つ外国人が増えるだろう。それこそ国境なき日本のオモテナシである。旅行は偏見も産むが、理解や味方も産む。

  拙著『ニッポン人?!』青林堂 114ページから118ページ「築地」で築地のことを書いた。ここに抜粋する。

『ボッドスキーさんは、ボーイング社の航空機メインテナンス日本駐在技術主任だった。渋谷の松涛に住んでいた。 ボッドスキーさんの楽しみは、毎週土曜日の早朝、築地へ買出しに行くことだった。シアトル出身で海産物が好きだった。 私は、週末に上田から、泊まりで遊びに来ていた。一緒に築地に行こう、と誘われた。朝四時に起きた。ボッドスキー夫妻はまるで日本の魚屋のようにゴム長靴を履き、竹製の籠を肩にかけていた。まだ乗客もまばらな山手線で新橋へ行った。駅前から築地市場行きのバスに乗った。 築地に着くとまず食堂へ直行。味噌汁、納豆、生卵、焼き海苔付きのイサキの焼き魚定食を食べた。夫妻はとにかく日本が大好き。日本人がすることは何でもする。納豆をかき混ぜ、卵を割り入れ、醤油を少しかけて、暖かいご飯にのせる。箸を上手に使って美味しそうに食べた。 腹ごしらえができると市場に入った。ゴム長が正解。私は、魚臭い水溜りを避けながら、ズボンの裾を汚さないようにして歩くのが、精いっぱいだった。夫妻は「鯛だ、スズキだ、ヒラメだ、ブリだ」と目を輝かせてあっちへ行ったりこっちへ行ったりした。どちらが日本人か判りやしない。魚の名前も産地も良く知っていた。仲買人とも顔見知りで、挨拶もいそがしい。結局その日は、いき締めのヒラメとスズキ、まだ生きているミル貝を買った。 松涛に戻ると、夫妻は、割烹着になり、ヒラメをこぶ締めにし、スズキの半身を『洗い』にして、残りを切り身にして塩焼き用に下ごしらえをした。ミル貝もバター焼きにできるよう準備した。 その晩、私は日本の料亭にでも来たかと、錯覚するほどの和食を、日本酒を飲みながらいただいた。私は、日本料理を本気で習う決心をした。二十年前のことだった。』
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