先週、散歩の途中、橋のそばで白髪の老婦人とすれ違いそうになった。婦人は立ち止まった。そして私に言葉をかけてきた。私は今までにあったことがない見知らぬ婦人なので、道を尋ねられると思った。婦人「ここ、通れますか?」 私「工事中なので危険ですよ」 婦人「やはりね」そう婦人は言って、再び歩き出した。私は婦人が当然向きを変えて、引き返すのかと思った。
今年の7月3日、豪雨で私が住む集合住宅の前の川が増水して決壊した。川沿いにある道路の半分以上が流された。下水管、水道管がむき出しになった。春には多くの人々が、桜を見に訪れる。その桜並木の桜も3本流されてしまった。2本がかろうじて残ったが、根元がむき出しだった。
決壊して以来、道路は通行止めになった。いつ工事が始まるかと待ったが、11月22日からやっと建設会社の人が出入りするようになった。工事は3月まで続くという。パワーシャベルやクレーン車などの建設機械も運び込まれた。川の中に入ったパワーシャベルで川原の石を移動させ、決壊場所の手前で川の流れをせき止めた。流れは、今までの反対側に変わった。日中、重機が岩や石を動かすたびに、重機の金属と擦れる。黒板にチョークで擦って出す、あの不愉快な音を何十倍にしたような音のようだ。
この市道は、川沿いにあり、上下にある橋で川の反対側にある県道につながる。通行止めになる前、この桜並木のある市道は、私の散歩コースに含まれていた。集合住宅の住民にとっては、生活道路である。県道と比べたら、通行量はずっと少ない。不便ではあるが、市道の決壊が、あの程度で収まってくれてよかった。もっと大規模に決壊したら、集合住宅にも被害が及んだであろう。最悪の事態を回避できたのだから、不便で遠回りになっても、私は受け入れている。
私は散歩を続け、橋を渡って県道に入った。歩道が川にせり出したようになっている。歩道から川の反対側、私が住む集合住宅前の市道がよく見える。集合住宅の玄関の前あたりに通行止めの看板が立てられ、ロープで市道は、封鎖されている。そこに人影が。頭が白い。まさかあの老婦人。ロープを片手で持ち上げて、潜り抜けようとしていた。動きがぎこちない。よろける。何とか体制を戻した。足元がおぼつかない。スタスタ歩きに程遠い。ロープの次は、決壊の一番酷い場所。1メートルぐらいの幅を残して、鉄棒を立て、ロープが張られている。歩行者の為ではない。作業員の安全確保のためのものである。白い髪の女性は、その狭い隙間を、ヨタヨタと進む。30メートルくらいの決壊場所を通り抜けた。そしてロープで封鎖された場所で、ロープを持ち上げて、不器用に通り抜けた。私は、反対側の歩道から、その一部始終を見ていた。
私には理解できなかった。なぜあの老婦人は、私に「ここ、通れますか?」と尋ねたのだろうか。私は「通れません」と言うべきだった。それにしても私が見た限り、『通行止め』『人も車も通れません』の看板をモノともせず、平気で通り抜けるのは圧倒的に老人たちである。同じ老人として恥ずかしい。私は、何人もの若者が、看板を見て、引き返すのを見ている。老人で引き返した人はゼロ。老人にとって、危険は回避するものではないようだ。多くの老人は、自分が年老いたという自覚が、ないのかもしれない。それか70年、80年と散々に苦労して生きてきて、こんな危険なんぞは、危険のうちに入らないと思っているのか。君子、危うきに近寄らず。私は、君子に程遠い人間である。しかし『年寄り、危うきに近寄らず』を最後まで実行していたい。