団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

母は見ている、知っている。

2020年05月19日 | Weblog

  落語家三遊亭園歌(3代目)の『中沢家の人々』に「親と言う漢字は、小さな木が育つのを横に立って見ている様子を表す。親が子のたつき(面倒をみるの“たずき、タヅキ[語源は手付き:①手がかり、手段②生活の手段、生計:広辞苑]”を立つ木とかけている)を見るのは当たり前」の噺がある。

 4月下旬、外務省で北米第一課長などを歴任して退官し、その後橋本、小泉内閣で首相補佐官を務めた岡本行夫さんが新型コロナウイルスに感染して亡くなった。享年74歳。亡くなる少し前に、彼はあるインタビューで母親について語った。「湘南はお袋の母校でもあるんです。私の両親は揃って大阪で、お袋も向こうの女学校は出てるんです。というのに、息子たちを通わせ、よっぽど気に入っちゃったのか、自らも通信制に入学し、嬉々としてスクーリングなんか受けてる。大学を出て、教員になりたかったらしいんですね。1987年の入学ですでに73歳だったから、クラスメイトはみんな孫(笑)。卒業式では総代として答辞を読みましたよ。大学は玉川学園の教職課程に入って、若いのに混ざって水泳などやってる。ところが受け入れてくれる実習先がないんですね、80過ぎの年寄りを。それで泣く泣く諦めたけど、105歳でまだ元気ですよ」

 彼の母親は『難波の夕焼け』という自伝エッセーを自費出版している。その本の中に岡本行夫さんの事を書いている。『遺伝について:ご先祖さまは名も富も残しては下さらなかったが特に悪い遺伝子もついてこず、息子共はお人好しで甘いが他人様には迷惑かけず、何とか落伍もせず、その人生を歩いているので私は自分の責任は十分果たしたと思っている。』134、135ページ『子供って:…彼の親切は身に沁みる。幼い時から思いやりの深い優しい子であった。二つ違いの弟である赤子が泣き出すと、その前ででんぐりがえりを繰り返して見せて、泣き止むまでそれを止めなかった。』136ページ『元日に次男が年賀に来た。「ヴェランダに積んである資材はなに?」「サンルーム作るのや」。「そりゃ良い。僕が肩代わりしてあげるよ」。長男なら、現実を知れよと、ひとくさり説教するところだろう。子もいろいろである。「拍手:その年齢で、この時期に?肩代わりなどとんでもない」。長男は父親似、次男は母親似なのである。』150ページ『老い:善良で熱血漢の次男、冷静で情に流されぬ長男、つれあいとわたしの因子をそれぞれに受け取った、その子達から私は助けられてきた。「少し長すぎたかな。いい加減に限りがつかぬと息子も可哀想だ」と考えながらも、私は便々と、ぬるま湯に手足を伸ばしている。まあ!この居心地の良いこと。』161ページ『受話器の向こうで:私には三人の息子がいる。同じような声で同じような言葉を、ときたま電話してくる。「いかがですか」「忙しくてご無沙汰しています」「どうぞ長生きしてください」ほんまにもう!ほかに言うことないのんか!』184ページ

 岡本行夫さんが亡くなった後、いろいろな著名人が岡本さんのことを語っている。しかし私には彼の母親が書いた彼の事が、一つひとつ胸を打つ。親不孝の最たるものは、子が親より早く死ぬことだという。3人もの素晴らしい子供達を育てた偉大な母。果たして105歳になる母は次男が新型コロナウイルスの感染によって命を奪われたことを知っているのだろうか。この感染症はあまりにも惨い。5月10日の母の日、一つ少なくなったプレゼントを彼女はどんな気持ちで見つめていたのか。


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