団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

観なかった。観たくなかった。

2016年08月18日 | Weblog

  「観なかった。観たくなかった」は今ブラジルのリオ デ ジャネイロで行われているオリンピックに参加しているメダル有望な日本人選手が前回のロンドン・オリンピックの時、選考に漏れ、ロンドン大会をテレビで観なかったことをコメントしたものだ。

 14日の夜、友人夫婦宅に招かれた。夫イタリア人妻日本人。本場のイタリア料理に舌鼓を打ち目が点の私に夫が尋ねた。「オリンピック観ますか?」 私「ほとんど観ません(心では『観たいんですが、小心者で心臓に持病も抱えていて観られません』と正直に告白しなければいけない、と思いつつ)」 夫「私は観ません」 この会話はこれで終わった。

  私は思い出す。旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードにいた時、長野市から妻の高校の担任教師とその友人が訪ねてくれた。ちょうど長野冬季オリンピックの開催中だった。長野の喧騒から逃れてきたと言った。オリンピックをマスコミに乗せられ煽られる人がいる反面、まったく違う角度から捉えている人がいる。アテネでオリンピックが開かれた時、多くのアテネ市民は家を外国人観戦者に貸して自分たちはリゾート地で優雅に逃避生活をおくっていたとニュースにあった。カナダ、アメリカ、ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア、住んだ各地でオリンピックに日本ほど大騒ぎする国はなかった。私はメダルの数にこだわらない。メダルを取った選手には敬意を表する。

 今回のオリンピックで参加選手のコメントに秀逸なものが多い。一方テレビの報道サイドは恥ずかしいほど酷い人材であふれている。今回特にNHKのリポーターはプロの仕事ではない。ラジオで徳光秀夫アナウンサーも私と同じような事を言っていた。

 相変わらず気が小さい私はテレビの生の実況放送を観られない。オリンピックが地球の裏側で始まっても今まで通り10時に寝て5時に起きる。朝、目覚まし時計替わりのラジオがそこまでのオリンピックの結果を知らせてくれる。これで十分である。特に観たい種目があれば結果を知っているので安心して番組を探してテレビで再放送で観る。テレビの番組はオリンピック中心となりメチャクチャになっている。どの時間のどの番組も一日中同じことを執拗に繰り返す。メダルなんて取ればまるで自分たちが取ったように大騒ぎである。そして番組が変わってもバラエティ番組ばかりなので同じこと。どう局から局へ移動するのか同じ過去のメダリストやオリンピック参加元選手をコメンテーターとして続ける。正直ウンザリである。昔、小杉さんという人が「こすぎ、やりすぎ、しゃべりすぎ、の小杉です」と自己紹介した。日本のテレビは「うざすぎ、やりすぎ、へたすぎ」では。その点、ラジオは安心して聴いていられる。

 テレビのオリンピック放送は「消音」にして観る。選手たちと1対1で観戦できる気になる。選手が涙を見せればリモコンで「消音」を解除してコメントを聞く。そして一緒に涙ぐむ。妻も同じ。オリンピックに出られる選手はさすがである。その一方で出場できずにテレビを観ない観たくないと次にもう向かって練習しているアスリートもいることだろう。目標に向かってひたすら努力を重ねる姿は眩しく気高い。卓球女子団体で銅メダルの福原愛選手が「私にとって銅は金と同じ」(銅は金偏に同がつく)と言った。名言である。犠牲にした人生とメダルで得た喜びが平衡したことを伝える表現だ。

 尖閣諸島がきな臭い。スポーツするのも人間、戦争するのも同じ人間。次の戦争は「見ない、見たくなかった」では済まされない。


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