真っ白な大皿に真っ黒なイチジクがびっしりと隙間なく並べられていた。私たちのテーブルの真ん中に置かれた。イチジクを注文した覚えはなかった。黒いイチジク!熟しすぎではないのか。悪くなっているのかも。私が注文したのはこの店の女主人が強く薦めた前菜の生ハムの盛り合わせだった。生ハムとメロンが定番だったのでは。それに黒いイチジクは皮ごと皿に乗せられていた。それってレストランの手抜きではと、私の頭の中はイチャモンでいっぱいだった。
女主人がエプロン姿になってカートを押してくる。身長は高くないが横幅はある。これぞイタリアの“マーマ”。カートの上に生ハムの大きな塊があった。塊の上部はスライスされ凹みになっている。女主人がカートを私たちのテーブルの横に止め、生ハムの塊に負けない脚を使ってカートの輪留めを押し下げた。生ハムカット用のフェンシングの剣のようなナイフを取り出し研ぎ始めた。ニッコリ笑った。私もけいれんするように微笑み返した。
ナイフが生ハムの塊の上部を紙の薄さに見事にスライスされる。一気にである。切り方も、切られた透かしが入ったようなピンクの生ハムも芸術だ。女主人はナイフにひらりと生ハムを乗せ真っ黒なイチジクの上に並べてゆく。黒とピンクと白。並べ終わると女主人はエプロンの両端を指先でつまんでバレリーナのように片脚を前に出し後ろの脚を折り曲げた。私たちは拍手した。
イタリアの白ワインで乾杯して宴が始まった。早速女主人に教えてもらった通りにイチジクを生ハムで巻いて口に入れた。絶妙。白ワインとイチジクと生ハム。
あっという間に皿は空になった。女主人は厨房から皿を持って出て来て空の皿を下げ、新しい生ハムの皿を置いた。私たちは注文してない。私の顔は言葉より自分の感情を直球のように表す。女主人は「私からのサービスよ。私は日本人が大好き」と言った。
1998年10月イタリアのヴェネツィア・ジュリア州サンダニエーレ村の小さなレストランでのことだった。
日本に帰国してからもサンダニエーレ村での経験を思い出す。サンダニエーレの生ハムは成城石井で買うことができる。九州のイチジク農家が黒イチジクの栽培に成功したと以前知った。その農家に何度も注文してみたがいつも売り切れだった。ほとんどイタリアンやフレンチレストランが買い占めていると聞いた。今年10月に入って行きつけの果物店に『まぼろしの黒イチジク』と札に書かれて何だか黒っぽいイチジクが並べられていた。まさかと思って目を近づけた。「ビオレソリウス」 イタリアのサンダニエーレで生ハムと食べた黒イチジク(ブロジット・ネッロ Brogiotto Nero)に間違いない。神奈川県の足柄の農家が栽培しているとあった。4個で980円だった。別に1個売りで300円のものもあった。九州の黒イチジクは1個600円から1000円だった。
早速家でサンダニエーレの生ハムで皮をむかないままの黒イチジクを巻いて食べてみた。多くの記憶は68歳の私の脳から消え去りつつある。甦った。美しいサンダニエールの村、小さなレストラン、女主人、黒イチジク、生ハム、白ワイン。料理はレシピも大切かもしれないが、それ以上に、いかに優れた適材適品(所)の材料をそろえられるかだと私は思う。研究熱心な農家に感謝の乾杯。