私は若いとき、末期がんで死を迎える大学教授が病室で綴った日記を読んだ。「死ぬことはどうあがいても避けることはできない。一番悔しいのは、私が死んでも、この部屋の天井のあの木目も節目も今までどおりに存在すること。それにも増して悔しいのは、私が死んでもこの世の中は何もなかったように続くこと。もっと悔しいのは、自分にしかできないと思い込んでいた自分の大学教授としての仕事も、自分が死んだら消えるか、誰かがまた何もなかったように、やり直すかもしれないこと。つまり自分の存在の小ささに、一生かかってやってきたことが意味のなかったように思える。虚しさだけが残る」というようなことを書き綴っていた。それを読んで、中学生だった私も天井の節目をじっと見つめながら、自分の人生を思った。
今回の島田紳助さんの芸能界からの突然の引退で、私は日記を残した大学教授のことを思い出した。今や日本では、テレビなどのメディアにどれだけ自分を登場させるかが、経済的な成功や有名度の指標となっている。紳助さんも、あれだけテレビで番組を持ち、天才司会者だ、すべらないしゃべりの才能を持っていると騒がれた。ところが大学教授ではないけれど、紳助さんが暴力団関係者との交際が発覚して、テレビ番組から完全に退いて画面から消えても、世の中何もなかったように続いている。何も大きな変化異変は起きていない。我が家の天井の木目、節目がそのままであるように、何の不便も変わりもない。
フランスの作家ロマン・ロランが残した言葉がある。「最も偉大な人々とは、他人(ひと)に知られることなく死んでいった人々である」 私は世界のところどころで、そういう人たちと出遭うことができた。その全ての人の出会いは、テレビ、パソコン、携帯電話などの文明の最先端から離れたところであった。その文明の利器の恩恵を受けることなく、お互いの顔を直接見ながら共に時間をゆっくり過して積み上げられた。他人に知られることのない人々は、決して負け組の人ではない。勝ち組負け組の区別があるのは、土から離れた仮構の社会だけである。私の記憶の中でいつも偉大である人々は、私しか、その人たちのことを知らない。宇宙ははてしない。私自身に存在する彼らへの想いも無限大である。それこそロマン・ロランがいう偉大である理由だと思う。だからその無限大の想いを持っている私は生きている限り、その人たちを私の想いの中で大切にする。私が死ねば、その全てが消える。だからそれは私だけの宝であり、その儚さは、痛快なことだと私は思う。