10月4日の朝、散歩に出た。すっかり気温が下がり肌寒く、家を出る直前に着替えた長袖シャツが頃合だった。空はどんより曇っていた。雨になるかもしれない。ゴミ集積所の不愉快な臭いに息を止めて、遠回りしてわき道に入った。生ゴミが多いのか、異様な臭いである。カラスがゴミ袋をクチバシで突きまわし、中のゴミが散乱している。傾斜のきつい幅3メートルくらいの坂道を転がるように下る。お椀の底のようなくぼ地に近づくにつれて鼻腔が別のニオイに反応しはじめた。さきほどのゴミ集積所の臭いの記憶がよみがえる。新たに微かな匂いが、あのゴミの臭さを消す勢いで私に迫ってきた。それも段々に坂を下がるにしたがって、度合いが強まる。私の中でさっきの臭いと今度の匂いが化学反応を起こしている。その混合体は私に顔の筋肉を緊張させるくらいだった。やがて新しい匂いが勝った。それは見えない壁を突き抜けて、まったく別の空間に身を置く感覚だった。
最近私は家を一歩出ると人工のニオイに困惑することが多い。私は嗅覚が自分の5覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の中で一番優れていると思っている。自分で稼ぐことも税金も払うこともない多くの高校生が香水をしている。すれ違いざまに私の鼻を刺激する。彼らになぜ香水が必要なのかわからない。加齢臭もない若者に香水は、余計だ。それとも彼らは老けていて、もう加齢臭がするのだろうか。私の住む集合住宅でもエレベーターに乗り込んで、漂う強い香水に頭がクラクラすることもある。場合によっては玄関ホールでその香水をつけている主の行動の軌跡をたどることさえ出来る。ホールに漂うニオイの帯は、共同郵便新聞受け、資源ごみ集積所、駐車場への通用口へと続く。
香水にも自然の材料が使われていることは知っている。所詮香水は人工のニオイである。金木犀のニオイがほんわかと貯まったくぼ地の底に身を置く。まるでシャワーを浴びるように、さして高くもない塀から顔をのぞかせる金木犀の木から降り注ぐニオイを全身にまとう。いままで私の鼻に入ったどんな香水のニオイより心地良い。強くもなく弱くもない。鼻を刺激することもない。ただ日常というよろいを脱いで、催眠術で違う世界に招きいれられた感覚だ。品がよく、それでいて控えめだ。ギリシャの古代オリンピックに出場した選手はみな全裸だったという。それを知った時、そんな恥ずかしいこと、よくできるなと思った。私はそのくぼ地の真ん中の誰もいない金木犀の木の下で、羞恥心とか日常のわだかまりをすっかり脱がされて、まるで全裸で金木犀の木の下に立っているような不思議な気分を味わった。
『無文字社会の歴史』川田順造著 岩波現代文庫に「熱帯のアングマン島民は、次々と咲く花の匂いによって暦を知るという。(中略)時を計る単位として、人類にほぼ共通に設定できるかも知れない」とあった。何分の1秒の誤差を気にかけるよりも、少しぐらいのズレがあっても、花の匂いの変化を暦にするそんなゆっくりした生活もいいかもしれない。駅までの道のり、実に多くの家々の庭に金木犀があって驚いた。花が咲いてニオイがなければ、金木犀の存在さえ知れない。そのあり方に共感する。花の匂いの暦では、今、まさに金木犀の月である。