団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

政治屋と金と町民

2010年02月04日 | Weblog
このところの小沢一郎さんに関する政治資金騒動が、連日マスコミを賑やかしている。1989年に出版された天谷直弘著『日本町民国家論』に「今日のジャーナリズムの状況を見ていると、レポーターの証言過多、プレーヤーの証言過少で、その結果、「真実」から遊離した「イメージ」が流布し、それにもとづいて世論が形成される場合が少なくないように思われる。」と書いてあったのを思い出した。

 自民党、民主党も看板だけで、結局日本の政治屋さんの体質は、金太郎飴なのかもしれない。今世界中で評判のユーチューブに公開されているパロディ映画『ヒトラーの経済』に日本のことを「ヤクザと官僚が経営する古い国」と揶揄しているが、ヤジと怒号飛び交い、国会開会中に議員の大アクビと居眠りを見ていると、まさしく的を得ている観点だと私は思う。同時にこのような政治屋を大事な有権選挙で選出し続けている日本国民の一人として反省する。

 『日本町民国家論』は、さらに「「知る権利」で武装したレポーターは「サイレントプレーヤー」を包囲し、「夜討ち朝駆け」をかけ、取材にこれ努めるが、肝心な点についてプレーヤーの沈黙が支配していると、結局レポーターは「断章取義」的手法を用いて報道せざるを得なくなるであろう。しかりとすれば、国民の「知る権利」―-真実を知りたいという国民の需要は、最悪の場合はフィクション、多くの場合は「詩と真実」の混合物の供給しか望み得ないことになる。「真実」は多くの場合「藪の中」にあるというのが「真実」であるが、しかりとすれば「真実」の探究を行うためには、できるだけ多くの関係者の証言を得、そのクロス・エグザミネーションを行うことが肝要である。」と続く。

 天谷さんは、古いタイプの通産官僚だったので、いわゆる霞ヶ関語を駆使する。文章が理解しにくい。現代風に今回の小沢さん騒動にあてはめて、私が言いかえると、「知る権利を振りかざすレポーターは、小沢一郎さんを包囲し、夜討ち朝駆けをかけ、取材に躍起になるが、肝心な点について小沢一郎さんの沈黙が続くと、結局レポーターは、今までに取材して判り得た情報を、レポーターに都合よく解釈して記事にしてしまう。そうであるならば、国民の知る権利は、最悪の場合は、ねつ造か多くの場合は、ゲーテのいう「詩と真実」(ゲーテは、詩がひとつひとつの現実を表し、真実とはその根底にある意義を自分の人生の軌跡をたどりながら書き残した)の混ぜ合わせたものしか国民は、知らされない。真実は多くの場合「藪の中」にある。だから「真実」を追究するには、できるだけ多くの関係者(水谷建設、鹿島建設、石川元秘書、大久保元秘書などなど)を得て、詰問することが重要不可欠である」となる。

 かくして1月15日夜、石川元秘書が逮捕された。小沢一郎さんは、何もなかったように表で裏で“政治家”の役を演じている。

 最近読んだ内田康夫の『透明な遺書』に「何百万もらった、何千万もらったという政治家先生が、いっこうに捕まらないし、失脚さえしないのだからねえ。汚職で有罪判決を受けた人間が、またぞろ選挙でえらばれたからといって、いまや保守党の幹部として、一億二千万の日本人を牛耳っているなんて、こんな馬鹿な話がありますか。これじゃ、先生たちが口では偉そうに政治改革だなんていってるけど、誰も信じやしませんよ」(388~389ページ)とか「政治家は権力の拡大に狂奔するか、保身と蓄財にうつつを抜かすことになる。選挙民に対しては、地元に道路を造ったり、なにがしかのおこぼれをを渡して、一緒に泥に塗れておけば、そうそう造反もないと見くびっている。そして、その判断はほとんど正しい。国民もまた理念を失った国なのである」(496~497ページ)と手厳しい。 多くの日本国民は、知ってか知らずか、政治家でなくて政治屋を求めているのかもしれない。

 今日も懲りずに私は町民のひとりとして、本の中に適格な論評がないかと鵜の目鷹の目で探し回る。「これだ、これだ」と悦に入る。

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