なんて、母親やおじの言っていたフレーズを思い出したのが。
何日か前の朝。
その日は、少々、暖かかった日だったか。
屋上にてのウォーキングをしながら、巴川が目に入り、北の山並みも眺めながらの瞬間。
だった。
昭和で言えば、何年の頃か。
昭和一桁の母親たちだから、戦前であることには間違いない。
そのフレーズを思い返しながら、一人で笑っちゃったんだよね。
おいおい、こちらもおじいちゃんといつの日か、孫は呼ぶんだろうな、と。
屋上を歩いていた、なんてね。
こちらはこちらで、ボールウォーキングという洒落た名前を持つ歩き、なんだけど。
このところ、川鵜の群れに出会わない。
微妙に、時間がずれているのかもしれないな。
なにせ、彼らの時間とわが方の時間、違っているんだろうからね。
ぐるぐる回る時計の針がなければ、一日を感じれない、くらいの時間感覚とも言えて。
体内時計とか、あんまり使わないままに日々を過ごし、だから。
夕べは、地域交流委員会があり、その後、他の委員会とも合流しての新年会。
そこでの話題が、ダイエット、なんてので。
もちろん、他の話題もたくさんあったんだけど、一人の御仁が、ライザップによるダイエットを試したそうで。
3ヶ月で13キロ痩せた、なんて言ってた。
あれ、炭水化物ダイエットとも言えるのか、それを一切とらない、というんだけど。
ご飯好きな当方としては、それだけで、わが領域外の話だ。
高校の時だったか、歴史の先生が、掘り起こされた頭蓋骨を調べると、例外なく。
飢餓線というものが見つかり、なんておっしゃっていたことをなぜか、覚えていて。
ある時期の人類にとって、飢餓はデフォで、当たり前化していたわけだ。
食べ物にありつけるかどうか、それが問題だ、なんてね。
シェイクスピアの劇、なんだっけ、to be, or not to be、それが問題だ、なんてのあったよね。
思索の果ての苦悶、という絵柄だ。
片や、なんとかトロプスなんていう人士方は、飢餓線な訳だ。
それが、この現代では、炭水化物、摂るか、摂らないか、that is the questionとあいなり。
どちらも真剣だ。
最近、こんな絵が気になっていて。
人間のカラダを覆っているという、目に見えない、オーラとでも言えるのか。
こんな層があるようで。
この中の、メンタル体に、ネガティブなエネルギーがたまるらしく。
多くは、成長していく過程での、大人たちからの、アレヤコレヤのコメント、評価、による。
無力感であったり、不安感であったり、などなど、ということのようで。
なるほど、と気をつけて見ているわけだ。
科学万能、ってのもぼちぼち、いや、違うかも、なんて時代ではあるけれど。
目を惹くのは、リアルにあるもの、であることは間違い無く。
どうしてもそこに依存しがちではあるけれど、実際には、わからないこと、目に見えないこと。
証明できなことなどなどに取り巻かれて生きている、とも言えて。
だから、大声で正義を主張することが、こっぱずかしくもあり。
いずれにしても、そんな絵柄を携えての日々ではあるのです。