という感懐を抱いたのが、昨日で。
静岡の商工会議所で、新規入場者教育、という講習で、いつものご挨拶。
が終わり、そのまま、久能海岸を走り、母親の病院に向かう。
その道中でね。
あの駿河湾と伊豆半島の山の稜線、雲がたなびき。
これじゃ、天女も、と表題のごとくで、思わず、笑いがこみ上げた。
その後、交差点で止まっている時には、涙が出そうになった。
すべてが美しい、という、思い、感懐、感情、こみ上げるものがあったんだ。
この話を、午後の個人ミーティングで、相方にご披露申し上げ。
というのも、目の前の御仁が、伊勢の御仁のお話会から刺激を受け、今では。
彼も、瞑想をしている由。
3分間だそうだけど、ほとんど、永遠にもつながるような時間だ。
なにか、といえば、頭の中から思考を外す、というか、思考を自分の思考、という具合に。
自分に所属させない、とでもいうか、通りすがりのおじさん、あるいは、吹き抜けていく風。
くらいの立ち位置かな。
直接に引き金は、テレビ、ためしてガッテンで、志の輔がやっていたことからのようだけど。
海馬を休める、すると、海馬が生き生きと、例えば、記憶などを引き出す役割を全うできる、というような。
そんなことだったけどね。
その流れから、実は、久能の海岸では、彼には、クラッシックに懲りだし、くらいの話にしたけど。
悪魔のトリル、です。
それを聴いていて、まんま、瞑想状態、思考がとび、眼が、つまり、視覚が際立ち、とね。
その相方、毎朝、読経しているそうで、それも、一緒だよね、と会話が、終わりかけに弾み。
次回は、ゴータマシッダルータの話で盛り上がりそうな気配を残して、終了、とあいなり。
会話によって、美しさの感動は、さらに相乗作用が働き、という次第。
夕方、母親のところで、夕食のおつきあい。
彼女は彼女で、彼女の物語を紡ぎ。
なんでこうして私が捉えられているのか、と訝り。
あんたもそうなっちゃうと困るから、早く、帰って、と母心を満載の表情で物語り。
こちらはこちらで、手術前に、顎を動かし、体全体に指令を飛ばす、作業をさせなきゃ。
という物語の中で、彼女の口へ、ご飯を、おかずを運び。
というしばしの時間を持った後、お腹空いたので、帰宅を急ぎ。
という時間が流れたのでした。
母親と僕のそれぞれの物語の合間、孫娘の写真や動画を見せると、破顔一笑。
彼女の中の、物語は、瞬間に変わり、そうだったね、大きくなったね、と。
なんだけど、僕の後に寄った妻には、うちの息子をそんな風に育てた覚えはないけれど。
と、つまり、孫娘は、僕の子供だとでも思ったのか、他に子供を作っていて、という物語に変わり。
嘆き節の中にいた、と。
そんな顛末が待っていたわけだ。
ことほどさように、人は、自由に物語を紡ぐことができ。
めでたし、めでたし、ということなんだけどね。
この週末には、どうやら、手術もできるようで、スケジュール通りに、着々とことは進み。
妹も、その頃には、帰省することになりそうだし。
新しい展開の家族像、ってのが、そこここに現れ出す予感だ。
さて、そんな本日、盛りだくさんなスケジュールが、流れ込んできます。
スケジュールのてんこ盛り、ってやつだ。