って言い方、あるでしょ。
壮大なる、世界への、人類への、愛のような言葉を吐き出しつつ。
自分の隣の人には、呪詛を吐く、というようなね。
考え方の空中戦、あるいは、遠くの富士山は美しいけど、とかね。
わが家の母親が、毎日顔を合わせる孫には、あれだこれだと、その不都合、不足分を嘆くけど。
遠くの孫には、今頃、何してるかね、いつも思ってるんだよ、という、愛、なんて言葉で語られそうな。
感懐を漏らす、という仕組み。
最近のエントリー、父帰る、で触れたいとこが、父親への怒り、嘆きが、5年ぶりに見た病い姿で、一新し。
というようなものもありで、妻が、じゃ、あたしも、ちょっと旅に出てみようか、と。
すれば、わが母親への、心の持ち方が変わるかも、ということなのか、あるいは、僕への、かもですが。
いずれにしても、故郷は遠くにありて思うもの、と啄木を気取りたくなるような、ね。
たしかに、石をもて追われるように旅立った停車場、ってのが、彼のリアルな故郷だったのかも、だしね。
言葉にしてしまえば、それらは、リアルを装いつつ、わが手のうちのものになる、という感じ、ってのは。
いろんな場面であるにはあって、この二足歩行者のあり方からすると、そうなんです、ってわけだ。
戦前の、わが列島の共産党が、外では、壮大な、人類愛から発した、という革命を唱え、家に帰れば。
ベタな家父長制の生き写し、のように、女房をかしづかせ、という絵柄ね。
芸のためなら女房も泣かす、という阪田三吉みたいな。
それを噺のネタにする、誰だっけ、噺家、関西の。
ことほどさように、言葉ってのは、便利なもので、いかようにも、現実を歪めることもでき。
なので、各人各様の物語を紡ぐこともできるわけだけどね。
なんてことに、気がついちゃうと、逆に、であるからこそ、この世を楽しむには、という発想に行くには行くんだけど。
そんなこと、つらつらと思い浮かべ始めると、今では、胡散臭そうに見えもする、様々な、宗教的な。
道徳的な、賢人、哲人、の教え、というようなものの、その時代の意義、なんてことも、納得するにはするね。
そりゃ、腹が減ったら食うし、邪魔なものは投げとばしもするだろうし。
人を食ったり殺したり、ってのは、よそもんに対しては、むしろ、英雄扱い、なんてことは。
例えば、道、という文字の由来が、以前にも書いたけど、異族の首を持って進む、ってことのようだからね。
白川静さんによれば。
異なるもの、には、道徳、というのか、仲間意識、というのか、哀切の情、というのは、及ばず。
って、まるで、今、周辺で起こっていることと、そう大差ないか。
今でも、例えば、仕事をとる、なんて言い方が残っていて、営業マンは、日夜、なぜ取れないんだ、あそこのライバル企業は。
云々カンヌン、って使い方ね、まんま、異族の地へ首を持って侵入、ってのと変わらないメンタルだよね。
芸のために泣かすのが女房、というのが、思い出したけど、桂春団治、だ。
先代のね。
かの御仁は、ま、語弊があるけど、泣かすのは女房一人、だったけど、油のために泣かすのがシリアという国全体、みたいな。
歴史の教科書では、気宇壮大、なんて言葉に置き換えられたりするかも、みたいな事業家ってのが。
いるにはいてね、豪華な客船、贅沢なホテル、なんてのが、浮かんできそうな利権屋さん方、と。
さて、今日は、わが妹が、帰ってきて、おじのお見舞いに参上、とあいなり。
そして、明日は、おじ不在のおじおば会、なので、おじの身代わりに妹が乗り、ということで。
おじおば会も新しい展開となっていく、という予感の中。
流れに浮かぶ泡沫(うたかた)はカツ消えかつ結び、ってわけだ。