英語では、music、これ、muse、くらいから来てるのかね。
ミューズ、って、なにかの女神なんだったか。
音楽、という言葉は、中国由来なのか、列島の改造語なのか知らないけれど、なかなか、いいじゃんね。
って、最近、音を楽しんでいるので、こういう解釈になってもいるんだけど。
頭の中の、思考軍団を追い出す勢いで、音は流れ来て。
たぶん、五感も蘇る、と、結果する、という具合だろうと、踏んでいるんだけどね。
いきなりだけど。
《瞑想は考える時に使う前頭ゼンヤを休め、海馬を活性化させ、シータ波をだす》
この間、NHKの「ためしてガッテン」という番組で、瞑想の効果効能が取り上げられていて。
僕は、途中で眠ってしまったんだけど、上記の引用を送ってくださった方がいらっしゃってね。
まさに、音を楽しむ、ってのも、それに近いし。
思考過多の、現代文明的な暮らし、の中で、バランスとるのにはね、うってつけ。
中国の達磨さんから伝わって、この列島で極上の開花をした禅、というのも、暮らしの中で、シータ波を。
作り出すコツを伝えているんだけど。
今では、家事労働、なんて言い方の、身も蓋もないものに、成り下がっている。
例えば、炊事洗濯というようなものも、禅の世界では、とてつもない、所業、と位置付けられている。
はず、なんだけどね。
とてつもない、というのは、ちょっと、現代的な言い方に偏しちゃったかも、だけど。
なりきる、そのものである、というね。
禅、というと、修行、と連想が及び、さらには、坊さん、抹香臭い、となりがちだけど。
むしろ、欧米諸国での方が、彼ら一流の、科学的な、ちょっとした、根拠をもちながら、実をとる。
とでも言えるか、真正な、禅の真髄に触れているような、気がするな。
禅を開花させた列島だけど、そこはそれ、エピゴーネンと言ったら失礼かもだけど。
組織を作ると、官僚的なメンタリティーが蔓延、ってのは、人間というもののデフォな姿とも言えて。
しかも、及び難い、いい尽くしがたい感懐を、なんらかの形で表現したい、ということも手伝い。
荘厳な、気倒すような建造物を、ってのも、ありで。
むしろ、そうしたことが邪魔をしているのかもしれないね。
って、なんだっけ、瞑想?シータ波?
ま、音を楽しんでいるのです、ということだな。
遊びをせんとや生まれけむ、とおっしゃったのは、一休さんだったか、どなただったか。
白川静さんによれば、遊、という文字は、旗竿を立てて進む、ということらしく。
旗には、神霊が宿り、もともと、神のみが遊ぶことができる、という認識だったようで。
それを、人間がお相伴にあずかり、と。
せっかくだから、神になりかわり、極上の遊びを楽しませていただくことにしますか。
なんたって、わが東洋、大アジアにおいては、大文字のGODではなく、人皆が神である。
というような思想が、時に大声、時に密かに語られてもいるんだからね。