本日は前報(後注1)の続きです。特に、その副題3に書き始めている鶴岡八幡宮の宮司様の、就任・人事について、又は、その順序についての記述があり、そこへ、続けていきます。そこから、書き始めます。また、この一文は、2020-5-8の深夜に書き始め、ずっと、【言論弾圧の一手法として、いじめがあるわけだけれど、私は、それを覆す方法を、既に手に入れている】としておりました。しかし、10日の午後五時に、上のものへと変更いたします。
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副題1、『神社仏閣の、中で、起きた大きな事件を思い出そう』
神社仏閣というのは、神聖な場所で、・・・・事件など、起きる筈もない・・・・と、人々は考えています。ところが、金閣寺で、内部の修行僧の放火による、焼失事件が起きて、世間の人々が震撼しました。これは、二種類の小説に結実していると、思います。
この事件は、雇う側と、雇われる側の、行き違いと、下の人間の苦しみが、原因で、普遍的な事件です。その後、神社仏閣が舞台ではないものの、福知山線事故というのが起きました。これもとても似ています。ただ、こちらはあまりにも犠牲者が多いので、誰も小説化して居ませんね。
ただ、こういう反抗する側の苦しみというのは、本当に普遍的で、この間、九州の、ラーメン店でか、子供を、人質を取った事件がありましたが、それは雇う側と、雇われる側が元、同級生だと、言う特徴があり、さらに、心理的な、追い詰められ感とか、憎しみが増大したものだと、思われます。
その後、ずっと、神社では、事件が起きて居なくて、急に富岡八幡宮で殺人事件が起きました。これは、普遍的な事件ではないし、政治的な部分も社会的な部分もないので、私は、その詳細をほとんど忘れています。しいて言えば、お金万能のこの世の中が、起こした事件といっていいでしょう。
私としては、金閣寺の焼失事件と、富岡八幡宮の殺人事件が二大事件であると、思って居たのですが、その二つの間に、もう一つ、世間を驚かせた事件があったらしいのです。
しかし、私は、それを、2020年5月7日まで、全く知りませんでした。というのも、それが、起きたらしい2004年ごろは、自らの修行に必死だったので、世間のニュースをインプットをしていなかったのです。新聞も読まないし、テレビも見ないと、言う生活でした。で、横浜の大きな神社【伊勢山皇大神宮】で、事件が起きているなどということは、一切知らなかったのです。
その修業時代は、1998年から、2011年3月11日まで及び、殆ど新聞も読まず、テレビ見ませんでした。この二つを点検する様になったのは、3,11について、ブログを書き、それが、正しいからこそ、多大な弾圧を受け始めて、それで、テレビや新聞をチェックする様になったのです。私は、3月16日にすでに、メルトダウンだと断言して居ます。それから、須賀直人首相の不信任案が出るまで、書いたものは、今でも、すべて、正しかったと、思って居ます。しかし、それが多大な、攻撃を招きました。
7日もイージスアショア問題が再燃しましたが、それは、河合案理議員の、選挙違反事件と同じく、私をイライラさせ、このブログを書けなくさせるための、策謀の一つです。だから、それについて書きたいことは、あるが、触れません。
でも、伊勢山皇大神宮で、起きている、破産事件というのは、この私の世間と断絶した時代に、起きています。だから、全く知りませんでした。
たまたま、グーグル検索を伊勢山皇大神宮に向けて掛けたので、知ったのでした。私は、1990年代に、鶴岡八幡宮の権の禰宜(ナンバーツー)だった、白井宮司の後を継がず、別の神社のトップになられたことを左遷の様に感じていて、お気の毒で、池田さんのことも、伊勢山皇大神宮の事も、一切触れなかったのです。特にパソコンの使用状況については、すべて、ハッキングによって、把握をされていますので、ネットサーフィンをする事をわざと避けていました。
しかし、五月五日赤坂で、起きた色々は、書かなくてはならないと、感じましたし、それが、あったので、更に覚悟を決めたので、池田正弘氏について、色々、ネットで、調べたのです。なお、五月五日に赤坂で、起きたことは、将来、書きます。本日は、その手前の事を書いて居る段階です。
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副題2、『伊勢山皇大神宮は、鶴岡八幡宮様ほど、有名ではない神社だ。だから、池田様の、この神社への宮司就任は、左遷ではないかと、心配をしていたのだけれど、ググって、その歴史等を、調べると、官幣大社に近い待遇を受けていることがわかった。横浜開港以来、地方自治体によって設立されたとされている新しい神社だが、祭神は、天照大神で、伊勢神宮とも、親戚関係にあるらしい。それは、よろこばしい事だった。
それに、宮司としての池田様は、横浜市民に敬愛をされていると、言う事がネットサーフィンでも、よくわかり、それにもホッとした。
また最大級にホッとしたのは、その神社で、大事件(=破産)が起こり、そこを立て直すために、実力があり、清冽な雰囲気も高い、池田正弘さまが、請われて就任なさったらしいとも、思えて、それにもホッとした。
しかし、それでもなお、私には一抹の疑問が残るのだった。『何かが変だ?』。と、言う感じがある。
というのもこれは、語りたくないことだが、池田様が、私をぼんぼりの献呈者に推薦してくださった模様なのだ。それを、メルマガに書いたことがある。それが、原因で、こういう左遷人事になったのではないかと、言う不安があって、それが、私の心を暗くしていたのである。
それは、今は、鶯吟亭と、呼ばれて、八幡宮様の、接待所に成っている瀟洒な数寄屋造りの家が、売り出された時に、地境確認の為に我が家を、部下、四、五人を引き連れて、池田様が、ご訪問をされたことがあって、その時のご判断でそうなった。それは、後で、法務局にでも行って、鶯吟亭の持ち主の移動を調べれば、正確な日時がわかるのだけれど、まあ、だいたいのことを言って、1996年から8年の間の事だったと思う。
それが、どうしてそうなったかというと、そのころの私は、国画会の国展(1991年から)と女流展(1990年から)に連続入選をし続けており、自分が会員になる事を疑って居なかった。それで、一年に、大作の油絵(=100号から、150号ほど)を、7枚程度制作していた時代だった。それらは、とても大きいので、部屋に、持ち込まないで、庭で描いていた。夜はベランダへ仕舞っていた。
我が家の庭、特に南側は、高い崖で、前を遮られている。しかし、それが幸いして、一種の部屋のごとき、体裁になっている。誰からものぞき込まれない。しかも風雨が避けられる。そういう場所で、たいさくをつくり続けていた。それが、池田様の目に留まったのだ。私は、お金を儲けられない。しかも、名誉も与えられない。でも、実際には、常に努力をして働いている人なのだ。それで、神様から、愛されていると思うし、保護されていると思う。で、時々、ご褒美をいただけるのだけれど、その一つが、この池田様に認められたという事だった。とても明るい気分になった。
ところで、瀬島龍三達にとっては、これが、面白くない。それで、すぐさま、鶴岡八幡宮様がぼんぼり献灯者を、招いて、七里ガ浜のプリンスホテルで、大パーティを催された。それは、円卓着席スタイルのフレンチだったのだが、左隣が酒井忠康氏だった。表むきの主題は、吉田茂穂宮司の就任祝いだった。だが、もし、それだけが目的だったら、私が、酒井氏のお隣に座るわけがない。別にクラス会風に、抽選で席が決まるわけでもなくて、最初から着席票があるスタイルだったからだ。私は、この時、ぼんぼり献呈を初めて、一年目か二年目であって、その役目のヒトとしては、下っ端であった。その上、いわゆる画壇といわれる美術界でだって、低い方だった。
当時、神奈川県立、近代美術館・館長だった酒井氏にとっては、そもそも、上野の公募団体展が、軽蔑に値する種類の美術展だし、その上、その場所で、会員にもなっていない私は、更に軽蔑に値する人間だろう。だったら、席次が、酒井氏の、隣の席に成るはずがない。しかし、隣である。そして、二時間徹頭徹尾、無視され、いじめられ続けた。だから、このパーティは、別の目的があったとみるのだ。それは、今なお、連綿として続く、「あいつをノイローゼにさせてやろう」とする、そういう目的の事である。
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副題3、『しかし、応用力抜群の私は、そのパーティでも、上手に楽しんだ。その後、たった一人で、紹介状もないのに、ニューヨークへいき、小さな作品を、教授陣数人に、見せただけで、美大の大学院に、入学することができた。そして、美大の大学院の教室で、その1999年に初めて使いだした、ノートパソコンを入力していると、そのタイピングの速さと、入力して居る内容が英文なので、23歳を過ぎている、ネイティブアメリカンの同級生をひどく驚かせた。50過ぎの白髪交じりのアジア人のおばさんが、ネイティブアメリカン日よりもスピード早く、しかも意味の通じる英文を入力していることは、今なお、本質的にはアジア人別紙の傾向がある、白人の・とか、若い人を、驚かせぬいたのである。しかも、私の才能をねたみ、日本人学生やす子を、使役して、いじめて来た白人の、40代の女性教授には、私が帰国した次の学期、一人の学生も受講せず、結局大学院をやめないといけなくなった話とか・・・・・・
実は、ここで、午前二時になりました。私は、体に無理を重ねているので、これから先はメモの形で、書かせてくださいませ。
また、ニューヨークで酒井氏の美術評論家としての、眼力を疑う様な、現象を、みつけ出だしたのだった。それは、余よという計算高い、女性版画家【よよ】が、一年に、たった一作しか作らず、しかも、古いタイプの鍵の実物を、銅板の上に置いてなぞるという形で、作品を作っている、まるで、幼稚園児並みの、作品制作なのだけれど、ニューヨークにいるだけで、酒井氏から抜群に高い評価を得ているというまやかしの、裏側を語りたいし(それは、詳述したいところだ。よよが、普段は、悪口ばかり言って居る結婚相手=背の高さ150㎝の金髪の男性が、作曲家であることなどを、最大限の売りとして、日本では、生きている事、しかし、その裏側の実態は?とか、
それから、若江漢字の奥さんに、私がいじめられた日に、偶然にもそれが、引き金となって、酒井氏が離婚・再婚を経験しているのにもかかわらず、いまだに、誰かさん(50代の女性)と素泊まりの宿に向かう姿を目撃したとか? それがどうしてわかったかというと、その同じ日に、若江漢字の細君の前で、酒井氏とは、きちんとした会話を交わしたのにもかかわらず、小町通りを歩いている酒井氏を見付けて、後ろから、「酒井先生、」と声をかけたのに無視をされたので、変だなと思ったのだけれど、それは、酒井氏が予想外の出来事して、応用力がなかったからだし、どうして、小町通りで、私に、後ろから、呼びかけられるという、予想外の出来事が起きたかというと、・・・・・
若江漢字の細君に、酒井先生の目前で「着物の襟が、左前よ」と目を吊り上げて、注意をされたので、
後注1、
古くからの鎌倉住人の中には、90年代のnumber twoが八幡宮を去り、別のお宮のtopになった・神奈川県・の人事・をいぶかしみ、かつ残念がる人が大勢居る筈だ
2020-05-06 21:22:38 | 政治
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