銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

慶応高校が、優勝したのでね。やはり、ちょっと、普通のブログを書きたくなくなっています

2023-08-23 21:05:35 | 政治

  この一章ですが、フォントの大きさが、大小と、あっちこっちで、変化しています。わたくしの意思ではなくて、・・・・・あたかも、わたくしの性格が悪いかのごとく見せたい、敵さんの・・・・・意思です。わたくしは、全部同じ大きさのフォントで、文章を書いています。  

NHK ニュースウォッチで、慶応高校が優勝したにゅーすをみているところです。

*1)、

 日吉が出てきて、中央通りのレストラン【トラひげ】が、出てきています。ここは、ワンプレートが、1000円前後ですが、ほとんどのお客が、慶応大学の学生です。全体の量が普段でも多いのですが、特に、生野菜のボリュームが多いのです。そこが学生を愛している店主の、意向を反映しているのでしょう。

 なぜトラひげで、わたくしが何度も、お昼を食べたかというと、母が老人ホームに入ってしまって、お昼を実家で食べられなくなったからでした。それは、2003年ごろからの話です。ただ、後ろに出てくる、小田歯科医院には、通っていたので、その帰り、トラひげで、食べたのです。トラひげに関するブログ文だけでも、三篇はあると思うけれど、今は探せません。

 ただ、ある日コンビニで、【B級グルメ本】というムックを見つけたら、第一番にトラひげがありました。つまり、「昼はコース料理3千円から出します。夜は一万円から出します」という様なメニューは出していないが、味は、いいので、B級グルメ本では、トップだった模様です。

 ここで、焼酎【諭吉】というのを買ってきたはずです。だけど、誰か、お客に来た人にあげたみたいで、今、この鎌倉雪の下の家には、ありません。

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*2)、

 慶応高校野球部と言えば、その前段階が、これも、日吉にある普通部の野球部です。普通部とは、ほかの大学で言うと、付属中学校という形になりますが、慶応だけは、男子だけの付属中学校のはずです。中等部というのが別にあって、そこが、男女共学のはずです。

 ところで、そこの、日吉町一番地という地名の東急電鉄の分譲地に、1952年から、1967年まで、住んでいました。今は、一丁目何番地の何号という地番ですが、三十年ぐらい、60軒の家が全部一番地だったのですよ。それでも、郵便は間違いなく配達をされました。昔は、人々が、誠実に仕事をするという雰囲気が濃かったのです。

 実家の、2019年までの姿です。弟が売ってしまって、今は、ここに三軒の真っ白な家が建っています。奥が北で、一時期、真田さん一家が住んでいました。ちらっと見えるピンクの崖が、その家です。このわが実家の、手前の、ひさしが赤い部分が客間(日本間で)その上にちらっと見える二階家が、わたくしの勉強部屋でした。

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*3)、

 この奥、北へぐんぐん進むと川崎市立井田病院へ至ります。その井田病院の前に住んでいた、そして、陸上の有名選手織田幹雄選手にその家を売った、新堀真知子さんが、いつも迎えに来てくれていたのです。新堀真知子さんとは、のちにドイツフライブルグの音大の、教授になったお友達で、お母さんは、

“新堀 智朝”

さんといい、1922年東京生まれ。都立第三高女高等科卒業。真言宗智山派松戸証誠院に於いて得度。89年智韻寺を開山、住職となり現在に至る。82年より詞・曲ともの歌を次々と創作し、国内外で公演。

 智韻寺は、代々木上原にあります。以前天台宗と言っていたのは私の間違いでしたね。真言宗でした。後で、訂正しておきます。

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*4)、

 この私の実家は、南斜面に建っているので、昔は、東横線日吉駅(橋上駅だったうえに、ピンク色をしたコンクリート製だったので、1950年代としては、立派な駅だった。今は、もっと、りっぱな構造の駅になっているが)まで、ずっと、見通せたものです。この建物と、NTTのビルと、慶応高校だけが、コンクリートの建築だったのですが、今は、まったく違います。なお、当時は慶応高校まで、見えて居たのではないかなあ? 左右、二重に植えてある、銀杏がそれほど、大きくはなくてね。

 上の写真の、大谷石の、崖の下に、雨水用の、溝がありますね。そこにトカゲが、干からびて死んでいたのです。それを、(トカゲのミイラ)というエッセイとして、メルマガで、配信をしました。

 すると、お茶大付属高校同期の金子美都子さんがほめてくれました。「とても、シュールで、面白い」と、言ってもらえました。その後、48台も、パソコンが壊されたので、エッセイを書いていたブラウザであるAOLは、当時はクラウドには乗っておらず、かつ、マイクロソフトのシステムも使っていなかったので、原文は今はありません。

 私は、喜んで、みつ子さんに電話をかけました。

:::::::::::ここで、挿入に入りますが、私には、みつ子さんという重要な知人が、なんと、多くいる事でしょうか? 最近、野見山暁次さんがなくなりました。その秘書の千里さんが電話をかけまくって、そのお葬式をつぶしたギャラリー山口のオーナーも、みつ子さんです。2010年1月31日(日)に、しのぶ会が、開かれる予定だったのをつぶされてしまったのですが、皆さんに慕われまくっていたギャラリー山口のオーナー・侊子さんも、漢字は難しいが、読み方は、みつ子です。この間、野見山さんの特集(心の時代)が、二度放映をされたので、野見山さんが、二人の奥さんを回顧する様子を見ました。侊子さんは、野見山さんの秘書兼、奥様になる計画を立てていたのに、それを予測した野見山さんが、主婦であり母であり・画家でもある、山口千里さんを、秘書に雇ってしまったので、深く傷ついていました。だけど、自殺ではありませんよ。他殺です。誠実で、控えめだった侊子さんのことは、つらい嘆きを持って、思い出すのみです。 

 一方、最近、在日の出自の問題で、書き始めた北村充子さんも、みつ子と、読むでしょう。この人は、したたかな悪女です。彼女は、1985年、いうに言われない辛い形のいじめを行ってきました。しかし、右辺と左辺は、必ずイコールで、結ばれるのですよ。わたくしは、在日の人たちのある側面について自由に描く権利を得たからです。1985年以来、「これは、書こう。絶対にね。将来にね」と、固く決意をしてきましたから。::::::::ここで、挿入を終わり、

 金子美都子さんに戻ります。金子さんは、お母さんも学者だったのではないかな? 高校の先生ぐらいだったかもしれませんが、母親の時代に、ですでに、働く知識人という立ち位置が、確立していた人なので、何の懸念もなく、躊躇もなく、東大の大学院へ進みました。東大を卒業した人、また、学部で、彼女と同じくお茶大を卒業した人、また、同格の教育大学(現在の筑波大学・・・・・そして、朝ドラの、ヒール役だった、田辺教授のモデルが、10年ぐらい校長をしていた、高等師範学校)を卒業した同期のお友達は、何人もいるのですが、

 金子美都子さんは、その中でも、出世頭の一人でしょう。でも、苦労をしている姿を他人には、見せない人なのです。楽々と聖心女子大の、仏文科の教授になったと、他人には見せる人です。だって、きれいだもの。そこが、お母さんから始まる、二代目だからねと、思うゆえんです。

 で、わたくしは、文章をほめてもらったので、喜び勇んで、彼女に電話を掛けました。「ねえ、わたくしが務めていたころ、東大教授の定年は、63歳だったの。聖心女子大は、何歳ですか?」と。すると、73歳だと、教えてくれた上に、聖心女子大が、設けている制度なのか、それとも、フランス政府が、設けている制度だったかは、今では忘れていますが、10年に一回程度、フランス研修に行くことができるそうです。二年間も。むろん、彼女の私費ではないはずです。「そうお!」と感嘆の声を上げました。

 ある立ち位置以上の場所に立つと、本当に恵まれた、上流階級生活を送ることができるのです。

 

 (ただし、彼女の家が、そうだと、いうわけではないが、お子様の、幸せということで、悩んでいるお宅は、多いのですよ。特に性格が問題でと、いうお宅は多いのです。または、結婚をしていないので、将来が心配であるという悩みを持つご家庭のことです。)

 そのころ、わたくしは、自分が不幸だとは、思っていませんでした。だから、金子美都子さんの、話を聞いても、自分がまけていてみじめだなんて、まったく思いませんでした。

 なぜ、自信満々だったかというと、メルマガエッセーは、読者層が、非常に高度で、かつ、エッセイが好評だったからです。「芥川賞、受賞作を、読むより、ずっと面白いね」とか、「あなたには、経営者の才能があるね。このエッセイは、会社経営者が読むと、いいよ」とか言われていて、しかも、それらを、紙の本へと、直したものも大好評だったのです。

 左は、二冊目、右は三冊目です。データに関しては、表紙の作画もITデータ化も、全部自分でします。本文の頁設定も同じです。ここまでの、ことができる人間は、早々はいないでしょう。だから、自分に対して、大きな誇りを持っていました。

ただし、市販はしません。ほぼ、献呈です。

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*5)、

 しかし、その金子さんから、わたくしは、恐ろしい言葉を浴びせられることとなる。あなたは、馬鹿よと、いわれたのと同義語な、言葉を電話内の音声で聞かされることとなります。大変身です。彼女の変身を経験しているので小田先生の変身も、受容できたのです。別にパニックにも陥らず、けんかもせずに帰ってきました。だけどねえ。小田先生が、歯科医師会選挙(2015年)の参謀をお勤めになったのは、、わたくしを患者として、診ていらっしゃったからですよ。でも、そうは、お考えにならないでしょうが。

 その、みつ子さんの変身後の、いきさつを書いた文章が、以下のリンク先です。みつ子さんは、どれほどに、わたくしを傷つけたかには頓着をせず、ポルトガル国のエンリケ皇太子勲章をもらっている、伊藤玄二郎の助けをした、ご自分の行為を有意義だと、考えている模様です。

聖心女子大教授が、伊藤玄二郎の教唆で、残酷極まりないせりふを、私に浴びせて来た話

2023-02-25 18:22:10 | 政治

その中でも書いているのですが、1995年出版という下記の本の関係者、春秋社の誰かを、伊藤玄二郎が動かしたのだと、考えています。

 そして、なんと、金子美都子さんから、献呈本として送られてきていた、下記の本は、今探してみてもありません。2月にはあったはずですよ。それ以降盗まれています。今、実印が盗まれて大変な最中ですが、書物も大変多数、盗まれています。

 私の様に、原発と、原爆とは、まったく同じ物で、ただ、反応量と、反応速度が違うだけですよ・・・・・という様な、本当のことを言ったり、書いたりする人は、本当に大変な目に出会うのです。小田先生は福島第一のデブリが何の措置もとっておらず、ただ、ただ、二回目の大爆発を起こさせない様に吸うために、海水で、冷やし続けているだけの無籍人な、首相と、それを許容している連中の一派なのですよ。ああ、なんと言ったら、先生に説明できるのだろう。無理でしょうね。

女流音楽家の誕生

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*6)、

少し休んでいる間に、メルマガが配信不可能となったので、自然にやめてしまったのですがあの「配信不可能」というお知らせは、うそだったのかもしれませんね。今だったら、『バグを入れ込められたのだわ。五回ぐらい繰り返せば、突破できる」と考えるのですが、当時は、敵に攻撃に、対抗するすべを、まだ獲得していなかったんです。

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*7)、

 これから先、さっきまでは、冨山房インターナショナルの社長である坂本きっこさんが、どれほどに、親切だったか? だが、金子美都子さんと同じ様に変化をしていく話とか、

 日吉の実家(上の写真の家)から、西へ60mいった、三軒目の家である、小田歯科医院の院長先生が、同じく、三十年にわたって、親切な方だったのに、2017年から、とんでもない、いじめを行う様になった話とか・・・・・・むろん、裏に竃浦エージェントの悪があるわけですが、まだ、全貌を書いていません。

 なお、小田歯科医院は、月、水、金、土の午前中だけの診察です。場所については、【小田歯科医院、日吉、予約】と三つの単語を、検索窓に、入れないと出てきません。すごくきれいな医院です。生きたお花が、いっぱい飾ってあって。

 私は、一生面倒を見ていただくつもりだったのに、雪の下二丁目の人たちを悪い方向に動かす連中がお医者様にも手を伸ばしたのでした。それが、普通部へ、お孫さんが、入学なさったお話をなさることで、裏がばれてきたのでした。

 お孫さんが、野球が好きで、鎌倉学園、立教中学と合格し、最後の慶応普通部に、合格なさって、進学されたのですよ。これは、うちの息子が、私立中学二校を1982年に、わざと不合格にされたことをブログで、CIAの策謀だったはずだと、書き始めた時から、始まったことで、しかも、古い古いお話を昨日のことのようにお話になるのでした。大胃腸がんを患われたはずなのに、北鎌倉から江の島まで歩いたなどという話も加えてね。

 わたくしは、先生のお嬢様たち二人のことも、一人は北米にいらっしゃるとか、そちらのお孫さんが、美術が得意だとか、よくお話を聞いていて、しっているので、そのお受験・成功の、ご長女様側の、お孫さんが、今、中学生だとは、とても思えず、「先生、それは、いつ頃のお話なのでしょうか?」と、質問をすると、先生が、慌てて、「いや、昔の話です。孫は、もう社会人です」とおっしゃったのです。

 そのときに、「川崎千恵子を、いじめるために、この、はなしをしなさいと、命令をされているのだが、その裏側が、ばれたかな?、そうなると、彼女はあれこれ書いてくる。裏にいて、わたくしを動かしているのはだれか?それを探ってくる。それは、まずい!」と、いう顔もなさったので、お互いに隠しきれない、CIAエージェントの動きを察してしまったのでした。その何年も前から、待合室の待遇の面で、先生ご夫妻の態度がある程度以上に、おかしくなっていて、敵が小田先生をリクルートをしたのではないかと、うすうす、察していました。だが、治療は、お上手なので、まさか、治療にまで、手抜きはなさらないだろうと、信じて通っていたのです。キツネとタヌキの化かしあいで、なんとか、すり抜けてきたのですが、その日「孫は、もう社会人です」という言葉を聞いた日を最後に、先生が敵方に与していらっしゃる、ことが、この上なく明瞭になったのです。医者と、弁護士と、お坊さんは、中立なはずですよね。そのすべてに手を出しているのが、鎌倉エージェントです。

 水沢勉先生の豹変も、ここに関係があります。日吉は、1952年から、ずっと住んだり、実家を、訪問したりしている、ゆりかごみたいな土地なのに、そこをひっかきまわしてしまった上に、現在住んでいる雪の下二丁目も、いじめ人間、右往左往状態にしていく、伊藤玄二郎と、いまだ、生きている井上ひさしが、どれほどに、残酷な人間か、皆様に、ご理解いただけるでしょうか。

  わたくしは、いつも、いつも、天に祈っていますが、突然にお助けが訪れるときがあるのです。天上の雲の、裂け目の様に、神様が助けてくださって、心が休まる時があるのです。

 それは、この壮大なミステリーの謎が、解明できる真実を、突然に、頭の中に、お示しいただけるからでした。別に探偵にお金を払っているわけでもない。秘書が、有給で、働いてくれるわけでもない。でも、真実が、ぴたっとわかってくるのでした。それが、わたくしの強みです。神様は、いつも、お味方してくださるのです。

 

 しかも、その小田先生の、歯科医院での、エピソードは、カリタス小、通学バス襲撃事件へと、進展していき、その後、農林水産事務次官の長男殺しに進展していくのでした。だから、まだ、完成していません。とても、書くのが大変なお話です。

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*8)、

 私は、銀座の画廊アーチストスペースで、秋山裕徳太子から、【ブリキ男】という自伝を買うように言われ、実際に買って読んでみた。

 それは、晶文社刊だった。わたくしは、評判の良かった自分の、エッセーを分類し、これは、PHPにもっていこうとか、これは、大和書房へ持っていこうとか、これは、晶文社にもっていこうとか言って、フォルダーに分類していた。ところが、秋山裕徳太子の、その(ブリキ男)を、読んだとたんに、自分のパソコンが、100%ハッキングをされており、デスクトップの画面すら外部の、人間が見ていることを知った。

 その時以来、大手出版社から、広告付きで、出版をしてもらえる可能性をあきらめた。しかし、その代わり、深い真実を実名で、書くことを始めたのである。一般人でも、わたくしを毛一本でも苦しめた人は、実名でそのエピソードを書くと、心に決めたのだった。最近激しく動いている渡辺賢司、平木伸明、大原光孝、前田清子、安野忠彦・智紗、白井達雄・その奥さん、などなど、彼らについて、書くべきエピソードは山ほどあります。白井達雄さんの、勤務先と役職がわかった時なども、これは、天のお助けだったのですよ。

 しかし、今は、だいたい、大きく疲れているので、*8)以降は、詳細は、(本日は)、展開いたしません。

本日、8月24日をもって、81歳と、四日になりました。過呼吸は、外部攻撃だと思います。そういうのは、4,5日前から、右ひざが、おかしくなっていて、これは、100%外部攻撃だからです。しかし、もしかしたら、過呼吸は、自分にかかっているストレスが大きすぎて、発症をしたのかもしれないので、少し、体をいとわないと死にますので。外部攻撃だとしても、脳の、呼吸中枢への攻撃であって、それは、白内障手術の前に、メヌエル氏病が、朝だけ、一週間も続いたのに続いての、脳への攻撃ですから、そりゃあ殺人に直結する出来事です。だから、いつか、ここをいじらなかったら、脳へ攻撃が来たのだと、ご推察ください。と書いて、パソコンを閉じようとしたら、左耳の上、5cmぐらいの脳みそが片頭痛を起こしました。ブログで、彼らのやっていることを詳細に、書いても、じゃあ、もっと、やってやろうじゃあないかと、思うのが井上ひさしでしょう。そしてその家来としての桜田門です。では、

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