この章は、最初の総タイトルを、【wikipedia を開くとアメフト問題の主役はM 平成の八墓村事件の主役はH となっている。是こそ、その二つが謀略であった証拠である】としておりました。しかし、29日の、11時50分ごろ改題をしました。また、変えるかもしれませんが。
副題1、『日本記者クラブで、宮川泰介選手と、宮川紗江選手の二人が、感覚を置いて、だが、一寧内に、夫々が、上司(=コーチ)に、不満を述べる、記者会見を行ったときに、宮川選手の、日大アメフト違法タックルが、仕込まれた謀略であることを確信しました』
私は、宮川泰介選手が、グリーンの緞帳を背景にして、日本記者クラブで、記者会見を開いた時から、ああ、これは、謀略だなと、思っていて、事件から、だいぶたってから、それを言っています。したがって、今、リンク先を見つけて居られないです。見つけるのが難しい。
一般人が、急に日本記者クラブで会見などできないです。
で、誰が、宮川泰介選手をリクルートしてきたかが謎です。どういうルートでと、疑問を持って居たところ、宮川紗枝選手も、塚原夫妻に対する告発を行ったので、突然、真相がわかったのでした。
宮川泰介選手の方が事が大きいので、彼の身辺に関する情報は出て来ていません。しかし、紗江選手の方は、私のブログを否定するためですから、全体にCIAエージェント側に油断が大きく、出身地が出て来ていました。西東京市です。
西東京市というのが見事なキーワードでした。
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副題2、『西東京市には、古村浩三君という、日本のシステムエンジニアの、草分け的存在が居て、その妻君が英語塾を開いている。そこの生徒が、宮川泰介君と、紗江選手だと思う。どうして、それが判ったかというと、川名昭宣君のせいなのだ。彼の乱暴のせいだった』
西東京市には、古村浩三君というICU同期生が居て、その男性が、この時以外にも、対私弾圧用に、動いていたのです。桜井万理子東大名誉教授が突然(=1月6日)に、「あなた文章を書くのはやめなさい」と電話で怒鳴り込んできたのは、古村君が、万理子さんのパソコンがおかしくなったのは、私のせいだと、讒言をしたからでしょう。むしろ、CIAエージェントが壊したので、それを古村君は知っていたのです。彼は、石塚雅彦さんと、非常に親しいのでした。それは、ニューヨークに先に日経新聞の記者として、夫婦で、駐在していた、石塚雅彦さんが、二期下の、古村君を、引き受けていろいろ、親切にしてあげたからです。その前は、ICUのラグビー部で、一緒だし、第一弾資料で一緒であり、非常に仲が良いのでした。そして石塚雅彦さんは堤義明氏のいとこであろうし、ロックフェラー碁聖と、ICU男子寮で、仲良しになっていたのです。同質だったのかな?
万理子さんの件は、大変いやな話でしたが、証拠は無いので、我慢をしていました。
その次に、片山ゆうすけ君の、成りすまし疑惑が起こりました。それも、私のブログを否定するための犠牲者でした。江ノ島で、マイクロスカジーカードを首に巻き付けた、野良猫が発見され、うんぬんかんぬんとは、猫好きな私をからかう、井上ひさしたちの、謀略です。嘘事件です。この時、公的に井上ひさしが死んだことになった後だったら、これも、井上ひさしが実際には生きていたと、言う証拠になります。
江川紹子さんとか、いろいろな人が片山君が、やっていないと言っていましたが、その通りです。性格が、天然過ぎて、ちょっと、トロイ感じがする片山君は、言うなりに動いて犯人扱いをされました。ただ、もう、釈放をされて、彼の事件のことを知らない人に囲まれてアメリカに住んでいると思います。
片山君は、お父さんがIBMだそうです。
古村浩三君は、1966年ICUを卒業すると、同時にニューヨークへ留学します。そして、日本の、システムエンジニアの先駆けとなります。だから、片山ゆうすけ君のお父さんは、言う事を聞かないといけない、立場だったのでしょう。
さて、その次に宮川泰介選手が使われることになりました。が、その前に、川名昭宣君が、非常に恐ろしいことをイタリアンレストランで行ったと言わないといけません。
ICU10既卒は、全体で、300人ぐらいですが、9月入学組は、同窓会やクラス会に参加しません。で、常に集まるのは、多くて、7,80人です。まあ、社会的に言うと、勝ち組というわけです。
その同窓会ですが常に幹事は、古村浩三君でした。彼は、1962年には、私と英会話が一緒のクラスで、18人だけで会話のレッスンを一緒に受けたり、50人で一緒のクラスを、受けたりしていて、よく知っている男性ですが、別に社交的とも思えず、これは、ひとえに、石塚雅彦さんが、そうする様に勧めていたので、引き受けていたのだと思います。ただ、お値段が安く(女性は、大体5千円でよかった。男性はたぶん、一万円)て、上等なお店を見つけてくるのは上手な人でした。
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副題3、『さてここで、川名昭宣君が登場する。どうして、わたくしの頭の中に、彼が登場するかというと、川名君の方が、より規模の大きい、同窓会を開く人だからだ。古村浩三君が、主に、夜、楽しみのために、クラス会を開き、多くて、70名が集まる会だとすると、川名君は、昼間開く。しかも、ありとあらゆる、コミュニケート手段を使って、150名は集めるのだった。つまり、二人は、同窓会幹事としては、拮抗する存在だった。お互いをライバル視はしていないだろうし、すみわけができているのだが、古村君に、言及する限り、川名昭宣も思い出すこととなる』
川名君は、伊藤玄二郎と親しいうえに、須賀敦子や、むれようこ、池内紀などとも親しい河出書房新社の編集者ですが、普段はこの古村君主催の、同窓会には出てきませんでした。『いくら年収の高いサラリーマンがそろっていても、企業勤務の人間なんか、会話が詰まらないさあ』、と、考えて居たのでしょう。自分の教養の高さは古村グループより一枚上であるとも、考えて居たのでしょう。
でも、珍しく、あるときにやってきました。何が目的かというと、私をやっつけるのが目的でした。しかも会話ではなくて、無音の暴力でです。本当に驚きました。
1962~1966年の、大学在学中には、全く会話を交わしたことが無いのですよ。青春期に、会話を交わしたことが無いのです。私は、元週刊朝日の編集長である飯田隆君にパリから手書きのエッセイー州を送っています。朝日新聞から、自著を出してもらいたくてね。川名君にも自著を出してもらいたいと願っていました。で、彼には、自分で、出版した本を見せていると思います。アマゾンで、10年以上、1万円以上で、売買されていたので、非常に面白いのですが、それでも、眼を通しても、もいないらしくて、私に河出書房新社で、出版物を出してくれることはありませんでした。
しかし、それを願っていたので、二回ほど、会社に彼を訪ねています。一回目はともかく、二回目に、「あれ、まだ、離婚をしていなかったの?」と、言われたので、『ああ、それって、ご近所の陶芸家、石川和子さんが、私の猫を盗みながら、猫が私の方を好きだと言ったのに腹を立てて、警官を呼び、・・・・・あそこの奥さんを、あそこの旦那に叱ってもらってください。あの家は、家庭内別居の筈だから、黄色い方の玄関ベルを押してね・・・・・と、いった言葉と、内容が、おんなじであり、石川和子さんの元愛人(下半身という意味では・・元・・だろうが、ハートや脳という意味では、彼女が死ぬまで、二人は愛人関係にあった、伊藤玄二郎との間の事)だから、同じ考察を伊藤玄二郎がしており、
したがって、伊藤玄二郎と、川名昭宣君が通通であると言う事が判りました。それでもね。その二年後ぐらい(と言っても、2008年ごろですよ)電話をかけて、「伊藤玄二郎とあなたは、仲良しでしょう」と問うと「全然。だって、あれ、タウン誌を出す地方出版社じゃあないの」と、鎌倉春秋社を軽蔑する様な言葉を吐きました。それは、100%の、うそでしょう。伊藤玄二郎がエンリケ航海王子勲章をもらう、その種になった、【びょんぶ】と、言う書物の編集者が、川名君で、たぶん、300万円の謝礼を、伊藤玄二郎からもらっています。どうして河出書房新社から、出版したかったかというと、伊藤玄二郎は、経営不振だった、河出書房を、就職後一年で見捨ててています。そういう、不誠実極まりない過去を消し去るために、河出書房新社とは、仲良しだと、示したかったのでしょう。川名昭宣君は、河出書房と、河出書房新社の編集者であり続けていますが、伊藤玄二郎とは、CIAエージェント同士として、仲良しなので、言う事を聞いてあげたのだと思います。
川名君ですが、その奥様がAFP勤務だったので、後藤健二さんの妻と同じ会社でしたから、後藤健二さんのブラッシュアップ(格上げ・・・・・例えば田園調布教会の会員にさせるなど)を夫婦で、図って上げたでしょう。緒方貞子さんを動かしたりしてね。したがって、後藤健二さんはCIAエージェント側の、一つの弾丸なので、死んでいませんよ。夫婦二人で、米軍機で、日本を脱出して、別名のパスポートを使って、某国で、生きているでしょう。
ところで、後藤健二さんの生母(しかし次男である健二さんが三歳の時に、家出をしている。無責任な母親である)石堂順子さんが、外人記者クラブで、記者会見をした時にも、私は、テレビが無い、北久里浜の旧宅にいて、テレビを見ていません。
それと同じことが、2023年、8月8日に、林真理子の、日大アメフト部員・大麻所持事件で、記者会見を、行った日にも繰り返されました。
したがって、林真理子も、後藤健二さん(その母石堂順子さん)も、CIAが私を弾圧するために使った弾なのです。したがって、私は、大きく大きく林真理子を批判しています。そして、必ず、福島第一を取り上げています。今は汚染水放出で、大騒ぎですが、それも、対私弾圧で、急に決めた事なので、中国や韓国、それから、ヨーロッパに、時前に、提示をして、了解を秘密裏に、とっておらず、四面楚歌になっていますね。
そういう状況を見ていても、CIAエージェントたちが、本当にバカだなあと、思っています。そして、西村大臣は、繰り返し((不満を抑えるためにでしょうが)、800億円を用意しましたと、言っています。だが、252年に続く252年、慰謝料を福島浜通りの漁民に支払い続け、無いといけないのですよ。800億円なんて、あっという間に消えるでしょう。都会の若いサラリーマンは、漁民にためにただ働きを、ずっと、させられるのです。
しかも、CIAエージェントたちがあほだから、岸田総理も同じあほとなって、事前の手配を抜かしたので、福島県だけではない、日本全体の生鮮食料品禁輸となってきていますね。本当にこの国はあほが支配しています。
ともかく福島県民以外の第一次産業・従事者が、相当に苦境に陥っているのは、すべて、CIAエージェントが、あほだからですが、(まあ、その筆頭の、警察が、お守りすべき人間として、安野智紗夫人を置いているので、通例のごとく、井上ひさし原案の策謀下で、動くすべての人間が、バカ化するのは仕方がないことです。もしかしたら、いまだに、実際には、生きている井上ひさしが、今、放出せよと、命令をしたのではなくて、安野忠彦・智紗夫妻が命令したのではないかと、思うほど、岸田内閣の行動は、幼稚ですね)
そういうCIAの、息のかかった、組織側の、かれらがもっとも頼りにする、代表が林真理子ですから、彼女が日露戦争の英雄・東郷元帥のお孫さんの嫁であろうが何であろうが、日本国民・大多数の敵なのです。特に普通の収入で、特権のない庶民大多数の敵なのです。
最近、書こうとしているのは、理事長を彼女がしている基盤となっている日大そのものへの裏切りの、張本人が、彼女であると言う事です。まあ、本日、そこまで、到達できるかどうか、疑問ですが、頑張ってみましょう。
さて、川名昭宣君に戻ります。普段は古村君が幹事をする同窓会には出てこない川名君が、その日に、出てきたのは、なんと、暴力を使って、私を攻撃する為でした。その日は、今は、(店舗が、無いみたいですが)、路面店で、渋谷と原宿の間の線路沿いにあるイタリアンレストランを借り切っていました。北側にあるテーブルにみんなが集まっていたのですが、南側に、ひとがだれも座っていない、テーブルが、2,3あって、そこに川名君が、一人で座っていました。
私は秋山祐徳太子本人から、晶文社で出した【ブリキ男】の紹介を受ける前までは、河出書房新社から、自著を出してもらえると言う事を疑わず、誰も、川名君のそばにいないことを『しめた。ラッキー!』と思って、近づきました。私は誰に対してもこびないのですよ。ところが、天性の愛嬌というか可愛さがあるらしいのです。で、それは、1998年に、有名な手相観の日傘雅水さん(この人も日大芸術学部卒です。YMOのマネージャーをしていたとご本人から聞いています)から、すでに、聞いていたので、ただただ、さらっと、「今のお仕事は、何ですか?」と、質問をしたのです。すると、彼は、その質問には何も答えず、ただ、私の手首を、むんずとつかんでテーブルに、固定をしたのです。それが。どんなに異様なことだったかを今から説明をします。。
皆さん、目の前にあるテーブルにあなたの手を置いてごらんなさい。普通にです。
木部のところに手のひらが乗って、上になる方、イコール空気に触れる方が、手の甲ですよね。ところが川名君は、ひねったのです。普通ではない反対の方にひねったのです。しかも、自分が、自由に行動をするために、自分の方に引き寄せたので、更に無理がかかって、私は、もう、っその段階で、痛いと、感じました。その段階とは、手首を固定された段階でですよ。
そのうえ、彼は、私の手のひらを、爪で、二、三ミリはさんでは、ちぎれるほどの力を入れて、痛めつけたのです。20回ぐらい。本当に驚きました。背中側、3mか、4mのところに同期生がたくさんいて、まだ、まだ、誰とも、仲良しだったころです。今書いて居る様なものを書いてはいなかった頃です。助けを求めても、いいのに、声が出ないのです。
それはね。私は、いつも相手の恥と言う事をおもんぱかるからです。もし、「今、手のひらを痛めつけられているわ。痛いの。」と叫んだら、川名君が恥ずかしいでしょう。だから、黙っていました。しかし、伊藤玄二郎が凄まじいことをやってきているのでこういう事をすべて、明らかにする気分になってきています。つまり、時間的には、グッと後だし、今更、何を書いても、私の痛みが回復するわけではないです。
しかし、川名君、私は、ちゃんと書くのですよ。特にあなたが、CIAエージェントだと、もう確信をしているので、何の遠慮もなく、真実を書きます。
須賀敦子と、池内紀は、すでに亡くなっています。だけど、群ようこには、川名君って、本当は、こういう人なのですよと、知ってほしい。ところで、この攻撃の原因はわかっています。
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副題4、『川名君が、わたくしの手を痛めつけたのは、入江多喜男君の死に、わたくしの方に責任があると考えたから、一種の復讐として、そう、したらしいが、私にとって、ICU在学中に、・・・・・いとしい人だ。気の毒な人だ・・・・・と、考えたのは、入江君がいじめぬいた、佐藤忠一君の方だった。まず、佐藤忠一君の苦難を語りたい。佐藤君は、1966年に千鳥ヶ淵で、にゅすい自殺・・未遂・・を起こしている。したがって、今まで、実名を書かなかった。しかし、入江多喜男君の方の、実名を挙げる限り、彼が、いじめた、佐藤忠一君の名前の方もきちんと、上げておきたい。だって、すでに、80歳か、81才だろうから、許してくださいね。林真理子を批判するため、また、日本から原発を無くすために必要なのですから。私自身だって、ものすごい損害を受けています。だから、あなたも損害という意味での、一役を買ってください』
私と川名君の間には、葉っぱちゃん(仮称)という素敵な女性が居ます。私は、彼女との縁が切れることを恐れて、川名君の真実をあまりはっきりとは書いてきていません。でも、今日は書きたいです。葉っぱちゃんとの縁は、もう切れたと考えて諦めますので。
1962年に戻ります。私が古村君と一緒だった、27名のクラスに入江多喜男君という別の男性が居ました。この人は英語はからっきしだめで、ICUは合わなかったと思います。ところがね、自分は優秀だと、思う気持ちがあって、三年後に学生運動のリーダーになります。そして、1967年度の入試を中止させてしまうほどの大活躍をするので、退学処分を受けます。
私は、1966年の三月に卒業してしまうので、1966年度ちゅうにICUで起こったことは知らなかったのです。
しかし、海外修行をするために、それを許さない主人から離れて、逗子のマンションをアトリエにして、一人暮らしをしていた時に、今まで禁じられていた夜の長電話ができるようになったのです。でね。それは2000年のころだったので、ほとんどの人は、60代で、まだ、仕事があり、夜しか話せません。で、結婚以来、初めて、大、大的に、開放をされて、友達に、夜、長電話をしまくったのです。
そのときに、佐藤忠一君の、驚くべき話を聞くこととなりました。佐藤君本人ではなくて、女性の友人からです。古村君、入江君と、私と、同じたった27人だけの、同じ、クラスにいたテリーという女の子(むろん、日本人だが、AFS経験者なので、アメリカで、ついた、愛称をその後もずっと使っていた女の子)から、驚くべき思い出を聞くのでした。その年、留年する人がひどく多くて、彼女も留年をしたし、入江君もしたし、これから先の主役、佐藤忠一君も留年をしたのです。
ICUには、当時、二つ、講堂というものがありました。そのうちの一つディッフェンドルファー館内の講堂での事だそうです。テリーが言うのには、「そこで、学生集会が開かれたときに、佐藤忠一君が、たった一人だけで、500人程度の学生から、つるし上げにあったのよ。でね、佐藤君は、苦しくって、千鳥ヶ淵で、にゅすい自殺をしたの。だけど、救われてね。それから、精神病院に収容されて強制的に10日間ぐらい、眠らされてね。それで、治ったの。回復したのよ」と。
本当にびっくりしました。佐藤忠一君は、日比谷高校出身なので、千鳥ヶ淵は、校庭みたいなものでしょう。だけど、普通だと、飛び込んだら助ける人はいない筈ですよね。特に夜だったでしょうから。だから、死にます。でも、助けられたと言う事は、尾行が付いていたと言う事。と、わたくしは考えます。
この初稿を、28日の夜に書いてから、29日の午後、わたくしは、81歳になって一週間目のその日に、生涯で初めて千鳥ヶ淵に行ってみました。むろんの事、他の用事が、三宅坂にあったついでです。千鳥ヶ淵とは、お堀沿いに、長い公園になっていました。その中に、きれいな公衆トイレがあって、便器が、TOTOで、ビデもツイてるタイプで、しかも便座がこの暑さの中で、温まっているのです。『へーっ。千代田区って、お金持ちなのね』と、考えて驚きましたが、あのウォーミング機能は、少額と言え電気代の無駄遣いです。あれは千代田区の公金の無駄遣いでしょう。やめてほしいです。鎌倉市民が言っても仕方が無いが。
2023年の8月の話から、元へ戻ります。1966年の秋に戻ります。しかもその尾行は、日比谷高校で、佐藤忠一君と同期だった、成岡庸司君だっただろうと、私は考えて居ます。
成岡庸司君は、早稲田の政経に、在学中で、革〇の委員長でした。バスの中で、1965年の秋に、私が秋山豊寛(のちにTBSの報道記者になる。立花隆、筑紫哲也などと、友人関係にあり、ソ連の衛星で、宇宙遊泳をしたことでも有名)に、・・・・・自分の、まじめさをからかわれたので、対抗上「私は、成岡庸司君とは、友達なのよ」と、話したせいで、CIAエージェントに、成岡君が、リクルートをされていったのだと思います。
で、成岡君は、佐藤忠一君を人物として知っていたのだと思います。日比谷高校は、在学生の多い高校だと思います。だから、二人が個人的にも知り合いだったというのは、奇跡に近いです。特に、成岡君と佐藤忠一君はまるでタイプが違いますから。
まず、女の子にもてるかどうかで、圧倒的に二人は違うのです。成岡君は、美形だし、演劇好きで、表現力が豊かです。だから、革〇の委員長を務めることが出来る。早稲田でも1963年には、大隈講堂の芝居に出演していましたし。
一方、佐藤君は体が小さくて、かつ顔も美形ではない。彼と、狭い部屋で、少人数で、じっくりと話すと、すっごく頭がいいし、芯もしっかりしているのが判るのだけれど、初対面の相手には、全然アッピールをしない、そういう男の子です。ICUの中では、全然目立たないタイプです。彼も、留年組でした。1960年代当時の、ICUって、単位の取得がとても厳しいのです。しかも教員免許を取ろうとすると留年しないと無理だから、留年生が多いのでした。
600人以上の学生が集まった、講堂で、言論的リンチを受け続けながら、一切、身を引かなかったというのは、私にはよくわかります。佐藤忠一君には、いざとなったら、そういう強さがあるのです。しかし、下校時に、やはり、悩んだのだと思います。次の日に登校したとして、自分が、どういう風にほかの学生たちに、扱われるのか?についてです。
そういうことに悩んだのだと、思います。だから、千鳥ヶ淵で、にゅすい自殺を遂げようとしたのです。そして、変装してD館の講堂の、ICU生だけの学生集会に、出席をしていた早稲田出身の、成岡君も、自分自身は、入江多喜男サイドであっても『かわいそうだなあ。佐藤忠一 』と考えたのではないかなあ。
で、佐藤君が、千鳥ヶ淵へ、中央線の、四谷駅から、向かっているだけで、自殺しようとしていると理解して、すぐさま警察の特殊部隊を呼んだのではないかなあ。彼らは、忍者みたいに、音を出さないで、行動する様に訓練を受けているし、水泳も、得意だろうし・・・・・というわけで、佐藤君が、飛び込んだのちに、短時間で、引き揚げて助け上げたのでしょう。
まあ、この考察は、違うかもしれません。たまたま、ランニング中の、人が音を聞きつけて、公衆電話から、119番したので、助かったのかもしれません。
でも、もし、成岡君が尾行をしていたのだったら、成岡君は、ひそかに、佐藤君を、好きだった・・・・・と言うのは、よくわかるのです。佐藤君とは、と手も性格の良い子です。
こういう人間は今時珍しいと言うほどに、性格がよいのです。でね。彼から、「両親が年取ってから、うまれた自分だ」と、聞いているので、なるほど、年とった、両親から、生まれると、こういうr風に、外見としての、態度は、軟弱に見えるが、内面的には、芯が強い人間が、育つのだと、考える様になりました。わたくしもね。平均的な出産年齢よりは、高齢だった、27歳の母から生まれました。そして、弟なんて、母が40歳になってから、生まれています。それゆえに、弟なんて本当に紳士です。いい性格の人間です。
@@@@@@@@@@@@@ここまでが、28日に書いた初稿です。29日にだいぶ輔弼して、わかりやすくしています。
そして、それ以降を、本日書きたいのですが、実は、これからの章は、入江多喜男君が主役となります。これが、また、また、大ごとなのです。何万字もかかるし、何十時間もかかるでしょう。
#######################これ以下に覚書としてメモを入れておいてありますが、それを詳細に展開するのは、、本日もできません。ただ、メモだけを置いておきます。すみません。後日、充実をさせます。
入江君が、実は水死します。それは奥様と、私との間では、事故です。だけど、川名君は、それを自殺だと、考えて居て、しかも、私が、入江君を責めたと、考えて居るのです。そこがだいぶ違うのです。それを丁寧に書きたいが、29日の深夜(実際には、30日の午前三時)には、未完とさせておいてください。以下はメモです。
今の夫を、ICU祭に招いた時にわかった。入江君は、私を好きなんだと。
だから、川名君の開いた大同窓会で、わたくしはわざと、自分を誇示した。入江君を叱る目的があったからだ。佐藤君に入水自殺を、仕様という風に考えさせた、それほどに、ひどい(言論)リンチの主役を入江君が張ったと聞いたからです。で、あなたってひどいわねと、言いたかったのでした。
しかし、それを言う前に、彼に、尊敬をされておかないといけません。大学で、1962年、一日、6時間は、一緒でした。英語の、勉強ではね。だけど、その時の印象だけでは、彼は、私を重んじないでしょう。
わたくしが、相当にレベルが高い人間だと、見せつけないとだめなのです。それで、マイクを使って、カルメンから、ハバネラを歌った。この時、聞く方の、特に女性の、度量が大きいか、小さいかがわかってしまった。度量の小さい人は嫌がった。わたくしが、自分だけ目立ちたがっていると考えたからだろう。しかし、度量の大きな人は、女性でも、嫌がらず、「お、すごいわね」と、いう感じで、優しかった。わたくしは歌詞は覚えず、メロディーだって、正確には覚えない。しかし、圧倒的な表現力があるのだ。親が理系に行かないのだ経ったら、学費を出さないといっていたくらいなので、芸能界などもってのほかだった。また、自分自身前歯に、金冠をはめていたので、それは、容貌を落とすから、芸能界など、考えもしなかった。
だが、40代で歯を白くした私は、いたるところで、好意を受ける様になる。今は、81歳だから、人生を元に戻すことは、絶対に無理だが、本当の自分は、市原悦子級の女優になることが向いていたのだと思う。または、吉田日出子など。
ともかく、そのハバネラは、受けた。
それは、入江君に私が無視できない存在であることを知らせる為だったが、十分に機能を果たし、目的が達成された・・・・・と、わたくしは、考えた。
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副題4,
副題5、『入江多喜男君が亡くなったのには、私に原因があると、川名君は考えて居るらしい。だけど、しっかりと、真相を書こう。入江君と私が電話で話し合った内容もきちんと書く』
が終わった後で、私は、入江君に電話をかけた。
話したことは、なぜ、はしごを外されてしまうのかだった。奥様とも仲良しで、別に恋愛の雰囲気を出したわけではない。これは、1998年か、1999年の話で、まだ、逗子の一人暮らし紗江、開始していなかったので、圧倒的に昔の友達に相談をしていると、いう感じだ。
ただそれほど、ずけずけと物言いが出来たのには、二つの秘密があった。ひとつは、川名君には、CS君の、にゅすい自殺未遂の事は話してあり、それをひそかに咎めたいと、私が、思って居ながら入江君には、何も問いただしてはいないと、言う関係。これは、私の方が強い。
それと、一年次の、ICU祭での、エピソードだ。