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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

今朝激しい攻撃を肉体へ外部から受けたのですが、anyway I must not stop writing truth. 前報後半浮浪者狩りを、こちらに移動をして目立たせます

2023-08-21 13:47:59 | 政治

 今、21日の夜23時です。この章の推敲をやっと終わりました。初稿の三倍になっていると思います。どうかよろしく。

副題1、『今朝、すさまじい攻撃を肺に受けました』

 23-8-21日、午前10時半から、体に対して、特に肺に対して、非常に過酷な攻撃が桜田門から行われました。肺が、呼吸として、吸い込む酸素が、通常の10%ぐらいで、何も動きたくないし、酸素の足りない血流がどくどくと音を立てるほどだったので、ちょっと、寒気がするほどでした。

 一時間ぐらいで、酸素の吸入量が、20%ぐらいになったので、このブログを書いているところです。最近書いて、いるものは、すべて、真実です。実際に見聞したことですから、過去日本に数多く出版をされてきているドキュメンタリーものよりも、静かで、安泰なものだと、思うのですが、

 実は、公的には、自分を死んだことにしているが、本当は生きていて、CIAの特権的、エージェントとして、機能をしている、井上ひさしが、在日の、出自を隠し持っているのではないか?と、以前から、思ってきていました。が、本日の、自分の、肉体的、苦しさの、経験により、それが、本当のことだと、感じ入っています。で、前報の、後半を絶対に、すべての、日本人に読んでいただきたいと、感じます。だから、もう一回、こちらに移動をしてさらします。

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副題2、『攻撃を実際に行うのは、世界で、最高技術を持っている、桜田門の、IT技術者集団だが、井上ひさし=CIAとっけん者、は、警察庁を、家来として、使っているので、こういうことが対私に起きる。それは、証言として、記録をしておかないといけない』

 前報の前半は、整理済みです。読みやすくなっていると思います。そこで、佐江衆一氏の名著に触れています。そこから、採録します。

『ある一人の突出した、ライターの調査によって、漠然として、世の中に漂っていた概念が、くっきりと立ち上がることがある』

 私が子育てをしていた同時代に、起きた二つの衝撃的な、少年犯罪の、古い方は、佐江衆一氏の書物が(名著だと思う・・・・・新潮文庫にもなっているらしいし)出て、わたくしには、大変にわかりやすくなりました。

佐江衆一『横浜ストリートライフ』(社会思想社現代教養文庫 ISBN 4390115405 (1997/04)、新潮社新潮文庫 ISBN 4101466017 (1986/05)、新潮社 ISBN 4103090049 (1983/01))

 この書物は労作であり、主人公が、それまでは、取り上げられることのなかった、やや、貧しい家庭の子供たちという意味で、非常に新しい書物でした。

 それは、現在に至ると、60件を超すといわれる、ホームレス殺しの、最初の事件であり、鳥かご状のごみ箱に、折りたたんで入れて、ロープをつけて、美麗な観光地であるはずの、横浜市、山下公園で、引っ張りまわして、死に至らしたと、いう事件でした。

 で、わたくしは、前報の前半で、ごみ箱がなぜ、日本の町中から消えたのか?・・・・・但し、わたくしが出没しない場所では、引き続き残っている可能性があるのですが、・・・・・を、説明をしています。で、その部分は、前報(改題して・・・・・

街中から、ごみ箱が消えたのも、私とCIA攻防の結果です。   2023-08-18 23:48:37 | 政治

としている文章の中に、丁寧に描いています。そして、次に、以下の様に言い始めています。

 さて、ここで、ごみ箱問題は、終わりましょう。特にわたくしから始まった、のですよ。ごみ箱撤去の動きは。日本国民(特に神奈川県+東京都で、動く人たちの、不便を招いたのは、わたくしの敵さんたちの意思ですよ」といって、次の段階に入ります。

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副題3、『私は、丸子橋(多摩川にかかる橋)近辺で、あの、山下公園で、ホームレスを殺した、ごみ箱と同じものを見たことがある。事件から、25年は過ぎていた。が、公的な公園では、同じものがつかわれていたのだろう。だけど、今は、山下公園にも、この手のごみ箱は、置いていないはず』

 このごみ箱とは、直径が丸いものです。80cmぐらいの直径で、高さが、一メートル。全部が丈夫な針金でできていて、(だから、持ち運びに、便利だったと思われる)網状になっていました。網の目は、一辺が10cmぐらいでした。

 この中にホームレスを入れるといっても、立ったままの形では、不安定になるので、中に、しゃがむという形で、押し込めたのでしょう。そして、山下公園中を、ロープをつけて、全力疾走をして、ひきずりまわしたのです。今、グーグル検索を読むと、これ以外にも当時、四人ぐらいが、殺されているそうです。それは、知りませんでした。

 私はね。ここでは、最初の死者の、事件にこだわって、はなしをしたいとおもいます。

上の書物の出版年月日の欄ですが、最後の項目、新潮、(1983/01) とあるのは、間違いではないでしょうか。出版月です。事件は、同年2月に起きています。それなのに、1月に出版とは無理です。新潮文庫化が、1986年で、教養文庫化が、1997年です。

この本の、宣伝文句というか、コピーというか、惹句に、佐江衆一氏は、横浜のドヤ街に、住み込んで、取材したとあります。それがものすごいことだと、当時メディアが大きくほめそやしています。

 その本を主人は、読んでいないはずですが、中華街の帰りに、石川町駅で、「線路の左側=東側に住んでいる人はお金持ち、だけど、西側に住んでいる人の方が、ずっと、人間が、きれいなはずだよ」と、主人がいいました。卓見だと思っています。

 それは、1990年代に入ってからの話です。だけど、わたくしは、この佐江衆一氏本では、そちら側には、さして、強烈な印象がないのです。というのも、そういうホームレスになる人の性格とか、人格については、推察通りだったからでしょう。しかし、加害者側の分析には、大きな衝撃を受けました。

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副題4,『いや、それを言うと、敵がまた、多くなるはずだけれど、佐江衆一は、この加害少年(中学生が主であった)たちが住んでいた町について、分析しています。そこがすごいのです。

 それ以前にもぼんやりと感じていたことを、その時はっきりと、自覚をさせられました。わたくしは、北久里浜に一戸建ての家を建てる前に、横浜の、1973年当時は南区、(現在は、港南区のはず)の丘の上に、建築中の家を見に行きました。一山200戸ぐらいの宅地造成地に、建築中の家が、10軒ぐらいある段階です。

 もうやめておられるから、固有名詞を言いますが、遠藤さんという棟梁の、作っている家が、もっともしっかりしていて、かつモダンでした。で、当時は、藤沢にあった、棟梁の家を訪ねると「私はね。主に日立の課長級の家を作っているのだ。口コミで、次から次へと、注文が入るので、あなたみたいな飛び込みの人は引き受けたくないなあ」と、いわれました。でも、わたくしは、その人の建築結果が本当に素晴らしいので、「戦時中は、鮎川義介という人が財閥を作っていて、日立も、日産日産自動車もその配下だったのですよ。だから、会社としては、兄弟みたいなものです」といって、強引に引き受けてもらいました。

 前報で、ちらっと書いている、旧名・日光建設が、北久里浜に私たちが持っている家の賃貸募集をやめるというのは、いじめです。水回りは、確かに古いですが、駐車場付き、土地は、丸まる、使える長方形で、60坪。家は27坪半。結構立派です。だけど、わたくしたち夫婦は、81歳を超えているので、リフォーム用に、何百万もは、もう、出したくないのです。だから、ここでも「設備が古いから、中古賃貸募集ができませんと、いわれれば、泣き寝入りです。

 同じ、遠藤・工務店に、鎌倉の家の、増築も頼んでいます。

 ところで、どうして、こういう話をしているかというと、関東平野って、丘と、田んぼの二つでできているのです。船橋市の塚田というところに住んでいた時も(今は、白百合という名前のこども園=幼稚園+保育所)になっている場所で、田んぼからは、15~20m高かったと思います。

 日吉の実家は、今は田んぼが消えて、そこにマンション群が建っている地域となっていますが、その旧・田んぼからは、30m高いと思います。それからね。北久里浜なんて、吉井の田んぼ(今はないはず)から、40mは高かったと思います。鎌倉には田んぼはないです。しかし、鶴岡八幡宮の境内にある平家池からは、今の我が家は、20mは、上がっていると思います。

 で、ここで、佐江衆一の本で、衝撃を受けたところに戻ります。事件は、40年前に起きています。でね、佐江衆一は加害少年(主に、中2の子供たち)の、住んでいる家を訪ねます。すると、ものの見事に南区の低地だったそうです。当時、港北区とか、緑区とか、都筑区には、田んぼが、まだ、たくさん残っていました。しかし、南区には、すでに田んぼがなくて、家が、密集していたみたいです。(ここで、蛇足1へ入ります)

 それは、南区より、京急でつながっている横須賀市の低地に、たくさんの、工場群があり、そこに、勤務している人。また、横浜伊勢佐木町裏通りの、あれこれの、飲食店に、勤務している人が住んでいる地域なのです。

 佐江衆一は、非常に気を使っていて、朝鮮からの徴用工という言葉は使っていません。しかし、わたくしは、日吉の慶応高校の下に掘られた、武蔵小杉辺たりまで、続く、軍事遺構を、作ったのは、どうも、徴用工だっただろうと判断をしています。

 私の日吉台小学校時代の同級生、花村君は、お父さんは、朝鮮人で、本当のお母さんは、わからないのですが、本妻が、花村君を「自分が育てます」と、宣言をして、後妻に、妻の座を奪われることを拒否したので、その人が母親役でした。一般のお母さんより、15歳か、20歳年上で、子供を持つことで、権利ができた、PTA役員として、毎週三回ぐらい、彼女は、担任の先生に会いに来ていました。しかし、その女性に、愛情のない育てられ方をしているらしくて、花村君は、子供時代から乱暴で、かわいい顔の男の級友は、殴られたりして、困り切って、転校していったりしていました。

 つまり、お父さんが、三菱重工に、勤務していて、たぶん東大卒で、お母さんも、東女か何かの、四大卒でしょう。と、いうお子さんをターゲットとして、いじめまくっていたのです。花村君自身、ひそかに、。、。、。社会の中に、非文化されているものの、階層の差があることを知っていて、自分は、大金持ちだけれど、差別の対象で、馬鹿にされているところがある。でも、あの子はそうではない、。、。、。と、感じたから、一種の嫉妬の発露として、そのかわいいお顔の少年に、乱暴をしていたのでした。まあ、今思えば、両方ともかわいそうでしたね。ただ、毎日、乱暴を、見せつけられている私は、苦しかったです。

「結局やくざに入って、死んだか、殺されたか、だったらしいよ」と、聞いています。差別するわけではないが、花村君の家も、敷地は広かったけれど、低地にありました。

 私はね。2013年に主人が北久里浜を売ろうと言い出したのです。それで、もしそこが売れたら、半分はわたくしのお金だから、1000万円から、1300万円で、買える土地を買おうと思ったのですね。それは、自閉スペクトラムという障害を持って生まれた一番年下の孫に、ニッチなスポーツとしての馬術を習わせたくて、御殿場近辺に、別荘を建てたかったからです。

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副題5、『熱海市長は、異様なセットバック杭を入れたために、それを、天が、怒って、土石流・被害を招いたのですよ』

 ところが、熱海市下曽我の丘の上、110坪が、660万円で買えるという話で、ひどいだまし討ちを受けたので、それを最後に、静岡県で、土地を探すのは、やめにしました。

 下曽我の。土地の持ち主は、立教大学卒で、扱う不動産やは、現代アートのコレクションを励む紳士(ただし、二人とも酒井忠康氏のお友達である可能性を今では感じている)で、いい人らしかったのですが、鎌倉エージェント伊藤玄二郎から、松尾崇・鎌倉市長 → 斎藤栄・熱海市長というラインで、その土地は、一回、見に行ったあとで、まったく不必要なセットバック用杭を打ち込まれて、公簿上は、110坪もあるのに、一階は6坪、そう二階にしても、12坪の家しか建てられないのでした。

 その赤い杭ですが、最初に不動産屋と、実見に行ったときには、なかったのですよ。ただ、夜、胸騒ぎがして、鎌倉から熱海駅まで行き、タクシー代を何千円も払って、熱海駅から、現場を、見に行って、異様な、赤い杭を発見したから、断ることが出きました。

 その後、ゼンリンの地図で、調べると、何十年も前から、持ち主は、新百合ヶ丘に、普通の一戸建てをたてて、住んでいる人で、一から、十まで、うそをついているのでした。立教大卒というので、すっかり、信頼していたその人は、「自分では、世田谷区在住で、そこで、不動産やを開いている」と、2013年には、わたくしに、いっていました。が、2005年ごろから、新百合ヶ丘に、住んでいて、しかも、お店は開いていないのでした。後で、それを実名入りで、説明した、ブログを、みつけたいとおもいます。見つかったら、リンク先を置きます。

 彼が、実際に住んでいたのは、神奈川県ですよ。でも世田谷区だといったのは、酒井忠康氏と、親しいからそういったのではないかしら。

 この一件で、上品な美青年で、東工大卒の、熱海市長は、土石流被害を招くことになりました。人が何人も死にましたね。鎌倉市長の勧めで、動いたつもりでしょうが、裏=鎌倉エージェント二人の、指金で、動いた=====があるので、熱海市民に苦難を与えました。

 私のブログを読んでいないとだめですよ。全国の首長さん。山中竹春横浜市長も同じです。

 ここから、孫のために、別荘用地を買うという件が、副題9へ続いていく。間に、いろいろな想念と、エピソードが、在日というキーワードで、挟まっているが、それは、お許しをいただきたい。

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副題6、『私は、横須賀市根岸小学校PTA コーラス指導者、北村充子さんに、したたかにいじめられた。1985年のことだった。これは、横須賀市副市長夫人杉本正子さんの、教唆命令で、動いたと思われ、したがって、100%政治的案件となる。ところで、北村さん自身は、自分が、地域の近隣住民の、特に女性たちに、大いなる噂の対象になっているということを、知らないのだろうが、在日の出自を持つということで、有名だった。「とても、したたかな手法で、中学時代の担任の先生のお嫁さんになったので、出世したのよ」と言われていた。そのあたりを丁寧に書いて居るのが、以下のリンク先の一文だ。

後註4,

逮捕されるべき人間が逮捕されない・犯罪捜査の不思議さ + 先生が生徒と結婚をする時    2023-08-02 21:46:18 | 政治

 北村充子さんは、自分がやったことを、38年後に、政治問題として、ここに取り上げられるとは、夢にも思っていなかったと思う。私はね、リアルな世界では、喧嘩をしない主義だから、私を意図的に攻撃する人間は、必ず勝ったと思い込む筈です。私の姿勢は泣き寝入りにしか、見えないはずだからです。しかし、しかし、本音を言えば、私は極めて明瞭に、その人間を馬鹿にして居て、ああまた研究材料を一つひろった と 考えるだけなのです。誹謗中傷が、逮捕されると言う法律が出来たのは、2021年六月でしたね。しかし、私は、1985年から北村充子さんについては、書くぞ  と 固く決意していたのでした。

  さてここで、みつ子さんと言う実名も、その家も、応接間も、知って居る人から、離れて、相手の名前を知らない人たちの入って行きたい。と思います。私は、その人たちからは、直接の被害を与えられたわけではない。しかし、従軍慰安婦問題を、どう考えるかにあたっては、絶対に 大切なエピソードなので、ここで記録をすします。

 一億二千万人の、一般的日本人は、繰り返し、報道をされる、従軍慰安婦問題に、非常に嫌な感じを受けていると思います。しかも、ニューヨークのクイーンズにある、アメリカ人用の道路に、従軍慰安婦通りと、名付けたり(これも、、昔描いた、ブログが見つかったら、ここにおきます。)アメリカの各地方に、公園設置の銅像としてあのおかっぱで、椅子に座っている少女像が設置をされたと、何度も報道をされました。

 そして、これは、鎌倉エージェント発で、間に何人もの人間が入って、リクルートをされた、人間が動いているのでしょうが、なんと、美術の世界でもそれが入ってきました。あの金色の彫刻像を公立美術館で、展示をするのは嫌だという一般人の、考えを、美術を専門とする、ある集団から、「表現の、自由主義」という、新しい言論弾圧が起きたのでした。

 崔洋一監督が、NHKドキュメンタリー番組の中で、一般日本人の、懸念をどやしつける形で、押さえつけたのです。それは、メディアの有名人は批判をしませんでした。が、一般の、日本人の中に、澎湃として、嫌悪感が起きたのでした。従軍慰安婦問題に対しても、崔洋一監督に対してもです。それを、洗浄化したのは、伊藤玄二郎でした。喜多川映画記念会の、講演会で、二人で、対談をしています。

 ただね。従軍慰安婦問題に関しては、日本政府は、何回も慰謝料を払っているはずです。ところが、その大金のほとんどが、従軍慰安婦を助ける会のトップを担う・・・ある女性・・・の私腹を肥やすことに使われたそうです。

 彼女は、テナント料を稼ぐことのできる、大きなビルを建てて、大富豪になったそうです。ずるいずるい人がいて、国家のお金をむしり取るのです。この場合は、国家とは、日本国を指します。

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副題7,『 その結果 なんと 過呼吸と言う、病気?を外部から送り込まれ、本日は苦しい、苦しい、思いをした。しかも、山の石段160段を登れないという状況を、平木家のご長男と、渡辺賢司という二人に、夜、7時半過ぎに、目撃をされた。平木家の坊ちゃんは、昔から、お品がよいが、渡辺賢司と、いうのは、どうしようもない人間で、現在のところ、私の方は、ただ、ただ、その嫌がらせに、泣き寝入りだが、きっと、どうにか料理できるだろう。将来を待ちたい』

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副題8、『激しい攻撃が、始まったのは、午前10時半だった。だが、午前11時20分ごろから、主人に、、、「外部攻撃で、今、非常に苦しい。何もできない」と、いってみた。室内の盗聴を利用して、・・・・・警察さん、お宅が行っている攻撃には、気が付いてるわよ・・・・・と、宣言するのが狙いだった。普通なら、それで、攻撃が収まる。ただ、それでも治らないので、上の副題7を、軽く書いた。これで、普通なら、復旧するはずで、・・・・・と、思って、盗まれた実印の新しいものの、注文を行いに、東京へ出かけることとした。伊東屋で各種の印材とか、書体を、チェックしたうえで、結論を得たのだった。

 しかし、徒歩で、自宅から駅まで向かう途中の、苦しかったこと。途中のコンビニでリポビタンDの瓶を買い、氷だけが、入れてあるカップを買い、お茶も買った。全部で、三種類の冷たいものを買って飲み、やっと、駅まで、たどり着いたが、2時50分に家を出て、鎌倉駅で、乗ることができた電車とは、3時55分発だった。ただ、電車の中では、座れたので、歩くという労働がなくなった。それで、普段の、10%程度の酸素吸入量だと、思うがスマホを開くことはできるので、コピペで、ここへ、移動した文章の推敲を始めた。こういう様な、文章・・・・・特に在日の真実を書くものは、自分にとって、危険であると同時に、読者の誤解を招いては、ならない文章なので、気を付けて、完成にもっていきたいと願っている』

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副題9、「静岡県で、斎藤栄市長まで、巻き込んだ、異様なだまし討ちに出会って、いやな思いを数々した、・・・・・実は沼津のホテルで、朝の五時に轟音で、起されたりしたのだった。東横インだったと思うが、その後、無くなっている。・・・・・わたくしは、静岡県で、(障害を持つ、孫の、乗馬練習用の)別荘地を買うことをあきらめた。ただし、まだ、あきらめていないころ、ネットで、静岡県の土地を探っていたところ、例のAIシステムが機能をして、「同額の土地が、こういうところにもありますよ」と、向こうから、紹介してくれた。それが、横須賀市内の土地だった。え、東京へ、京急を利用すれば、一時間以内で、行かれるところに、一千万円で、買える土地があるんですか?と、驚いたが、まあ、一戸建てを、自分が施主になって、注文するのも、子供の勉強になるか、では、その、一千万円以内の土地を見てみようかと、また、出かけて行った』

 で、京急沿線は、だいたい丘が多いのだが、もし駅に近い土地で、1000万円で、売っているとすると、それは、だいたい在日の一世が住んでいる土地だった。ある時、【逸見】か、【安針塚】という、小さな駅の、もよりで、大規模開発住宅地ではない、土地が、駅から五分という形で、売りに出されていた。大規模開発ではないと、道路などに、不備があるのだけれど、家を建てる練習には、45坪あれば、十分だ。

 そのときに、すでに、横須賀で、10件以上、見て歩いた後だったので、比較すると、よい土地に思えた。

 そこに歩いてきた女性がいたので、「線路の対岸の、あの土地を買いたいのですが、ここらあたりって、人々の暮らしぶりは、どうなのでしょう?」と、聞いてみた。つまり、買いたい土地のご近所様には、絶対に声が届かないところで、質問をしたのだった。すると、その人は「あそこですか。駄目ですよ。隣が在日の人で、地境がごたごたしたので、前の人が、嫌気がさして、引っ越していった土地ですから」と答えた。更地にしてあったので、前に人が住んでいたとは、きがつかなかった。でも、聞いてよかった。

 この日の前に、【汐入】で、在日一世の持ち物と思われる土地を既に、見ていて、在日一世と思われる人が、強欲で、地境など、無視しまくっているのには、気が付いていたのだった。もちろん、在日の、出自があっても、二世、三世となってくると、これほど、無法ではないと思われるが、一世は、恐ろしいところがあるのだった。

 汐入りの不動産やで、線路の西側、丘に登る途中の土地が、駅から、徒歩4分で、40坪一千万円ですと、いわれた。で、「石段で、上がる土地だったので、安いのですね」と思って、探したのだけれど、どこにもそれらしき空き地がなかった。

 わたくしも、それなりに探索の経験を重ねているので、目視で、土地の広さはわかる。「この番地で当たっているはずなのに、無いねえ。40坪」と思いながら、枠が木製で、引き戸であり、ガラスがはめられている古い古い建築様式の、玄関ドアを何度もノックしたが、人が出てこない。

 で、『勝手口なら、奥さんがいるはずよ』と、思って、そちらに回ると、玄関側は、板でできた壁だったが、こちらは、波板ブリキ板で、壁ができていて、その壁が垂直ではないという感じだった。斜めになっている。しっかりした基礎を作って、その上に壁を建てたと、いう感じではない壁だった。

 しかも部屋への、入り口のドアがなかった。だけど雨の心配がいらないのは、建物が密集していて、雨などが、振り込まない、形になっている。からであろう。その土地に、立ち並んでいる、建造物は、道路との境に、50cmも間隔をとっていないとも、みえたし。

 中に電気がついいているのに、人が出てこない。一番目の部屋は、床が土間だったので、靴のまま入って、幅三尺程度のそこを抜けると、今度は、幅4尺五寸ぐらいの次の部屋に到達した。そこも土間だったので、靴で入って、「こんにちは、こんにちは」と、声をかけ続けると、やっと女の人が出てきた。背が高くて、黒づくめの洋服だったが、わたくしを、見下ろしても、一言も発しなかった。

 こうなると、わたくしも異常を感じて、「この人に質問をするのは、ダメなんだわ」と、思い、彼女の前を去った。道まで、戻ると、対岸(南側)に、ごく、普通の家があった。外壁は真っ白で、そう二階建て。築15年ぐらいだと思われた。ちゃんとした日本の建築業者に頼んで、作った家だ。ベルを押すと、主人らしき紳士が、セーター姿で、現れたので、「お隣の奥さんが、一言もしゃべらないのです。どうしてでしょう」というと、「ああ、あそこの家って、いろいろな人が転入してくるからね。僕たちだって、名前を知らないのですよ」と答えた。

 その時、その人も、わたくしも気を使って、在日という言葉は一切使わなかった。

 だけど、2000年、ニューヨークのクイーンズというところに住んでいた際に、毎日、夜は、シンガポール系ビーフン5ドル、あっつ、あっつの、ものを、アルミのお皿に入れて、テイクアウトしていて、自分のアパートで食べていた。だから、中国人夫妻や、その親族一同が、英語ができなくても、愛想がいいのは知って居た。だから、言葉ができなくて、かつ愛想が悪いのは、中国系ではないと、判断をした。

 だから、在日の一世一族だと思う。一世が、2013年になっても、また新たに、本国から、親類縁者を呼んでいるので、その親類縁者かもしれなかった。または、本国の方から、日本で生活したいとして、強引に、渡ってきた人かもしれない。

 ただ、ただ、驚くべき経験をした。その家は、戦前にたてられた普通の日本家屋だろうが、2013年には、全体が真っ黒で、その上、わたくしが、紹介をされた、40坪の土地は、蚕食仕切っていて、ほとんど残っていないのだった。

 【汐入】という町は、線路の南側は、芸術劇場(豪華ですよ。深紅とキなりの、白を、を中心としたインテリアでね。客席は、四階まであってね。ほぼ、ヨーロッパ風です)があり、横浜山下公園に似ている、ヴェルニー公園などもあり、どぶ板通りも、怪しさは、すでに無くなっていてね。だけど、北側には、まだ、戦後の、ごたごたが残っているのでした。

 この経験を経たうえで、草が生えている、45坪の更地を、安針塚で、見たときに、道で通り過ぎに出会った、奥さんの、言葉は、100%理解できたのです。目視では50坪程度を、更地として、売っていた、前の人は、まだ、草が生えた更地の部分があるのだから、堂々と、売っているのだと思います。そして、南側に立っている在日の人の家も、普通です。汐入りで、出会った驚くべき古家ではない。だけど、買ったら大変でしょう。塀のそばに、もう、なんだか、波板合板の、ちっちゃな建造物が、立っていましたし。きっと。こっちが逃げ出さないとならないことになる。

 私は、その二つの土地に関して、前の時も、文句を言いにはいかなかったし、今度の時も、「見てきましたよ」と言いに、二度目のこととして、不動産やに、よるのは、やめにしました。ちゃんと、現地を見てよかった。・・・・・そして、その後、NHKニュースで、従軍慰安婦問題が出てくるたびに、ああ、なんて、強欲なのだ。そして、しつこいと、思い至りました。

 最初(=1950年代の高校生時代)は、植民地支配をしたことを謝罪しようと思っていました。だけど、横須賀で、土地を、1000万円以内で、買おうとして、おもいがけないフィールドワークを、結果として、してしまったわけで、在日一世が、日本で、どういう暮らしをしているかを知ったことは、本当の驚きをもって、身に染みています。日本人とは、相当に、違いますね。

 (蛇足1)

 
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