副題1、『小保方さんの、路線変更の難しさ』
前報 小保方Mystery13・・・・・学会誌には、掲載すべきかしないかの審査がないのが普通だ△
2014-04-10 20:22:57 | Weblog の最後の方に目立たない形でしたが、小保方さんは、悪くすると目立たない形で暗殺されてしまいますよと、言っています。今、女性の間で、小保方さんの 女子力というのが、大問題になっていて、美形で、エロチックな魅力もあり、仕事もできるタイプを、論じることが、趨勢と成っているのですって。 peachy というブラウザに、そう言う文章が集まっているみたいです。
その人たちにとっては、気が付きもしない事(=将来の暗殺さえ)を、私は、さらっと書いてしまっています。決してメルヘンチックな問題でもないと思っております。小保方問題が、相当に、政治性があるからこそ、そういわざるを得ないのです。
無論のこと、日本にいて、西川史子さんとか、香山りかさんという類のタレントとなっていけば、安全かもしれません。毎日、テレビでその顔を見ない日はないとなると安全でしょう。
しかし、小保方さんの口を永遠にふさいでおきたい人物たちが大勢居るので、小保方さんをテレビタレントにするはずもないです。そうなると、もう一年間、理研で保護されるとしても、その後は、どうなって行くのだろう。
と、私が暗闇の予想を立てると、私の文章を否定したい人たちは、彼女を引き続き大切にするでしょう。そうなると、彼女は安全です。ただ、彼女は口で言っているほど、実験が好きではないと見えました。となると、どういう仕事で、生きて行くのだろうか?
美貌と女子力を利用して、タレントになる。うえでは無理だと私が言っていますから、かえって、タレントになれるかもしれません。
だけど、読者の皆様も十分にご存知のごとく、彼女は、まっすぐすぎるというか、思い込みが強すぎるというかですから、テレビタレントとしては、向かない性向があるでしょう。むずかしいですね。これから先が。
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副題2、『上の、はみだしだから、生きるのが難しいのね・・・・・と、かつて言われたことがある私だけど』
親となった人物にとって、子供はいとしいです。で、小保方さんも、両親にとってはいとしい存在でしょう。幸せになってほしいと思われている存在です。だ が、生き方にちょっと癖がある。それはね。ご両親の段階で、エリートであるがゆえの、何らかの、問題が、隠れていたと、私は見ます。そんなのどこのお宅に もある問題だけれど、子供にとって、本当に大切な時の、踏ん張りポイントとして、それが、悪い方に作用することはないだろうか?
人生において、何を、どういう形で、どういう時期に達成すべきかという点で、ひと世代前の女性は楽でした。25歳までに結婚をして、二人ぐらいの子供を生 み、育て上げたら、軽い仕事に再就職できれば、それをやり、できなければ、地域で、コーラスなどの趣味に没頭する生活を送る。ともかく、普通に生きていけ ば、誰からも叱られないし、軽蔑もされない。そう言う時代でした。
そして、本日 も上野公園に行ってきましたが、あそこで、歩いている女性たちって、そういうおばちゃんばかりです。今、ケヤキの新芽が美しい時で、私は、12年前まで、 国展というのに出品をしていたので、上野公園のケヤキの若葉のうつくしさには、ほれ込んでいるのですが、本日はそう言う時期の、自分とは、まるで違っていました。その頃は、自分もまた、他の画家と同じく、この公園に は、能動的な、参加者の一人としてきているのだという認識がありましたが、本日は、そんなエリート意識の、まったくない、ただのおばちゃんとして、ケヤキを見つめ、そして、帰りに、科学博物館・地球館によって見物をしたのです。どうしてかというと、だいぶ前に、フランスから、来た旅行客が、「地球館がよ かったですよ」といっていたので、日本人としても、見ておかないといけないからと思って。もし画家として現役最先端だったら、上野の科学博物館によっている暇はありません。(笑い)
地球館が、リニューアルされてから、は、初めてです。実験室で、解説用のボランティア・おばさんが居て、好ましいことだと思いました。東京は地域が広すぎるので、ボランティア活動が、それほど、活発ではないけれど、名古屋の、徳川美術館など、ボランティア説明員が、多いですよね。
その時節に比較すると、ちょっと、時期が早いので、まだ、八重桜も残っていて、主人と、東京国立博物館の庭のベンチで、静かに八重桜を眺めていたりしました。
まったくのおばさんです。普通のおばさんです。
しかし、15年前は違いました。上野公園ではなくて、麻布で、『あなた外人?』と、六本木に住んでいる女性から言われたり、山手線の中で、『フランス人ですか?』と若い日本人女性から、いわれたりしていました。小保方さんみたいなドレスではなくてカーディガンにおズボン、そして、スニーカーという軽装で、かつ、すっぴん・黒髪で歩いているのに、日本人じゃあないと思われていました。多分、すべる様に早く歩いていたのもそう思われたゆえんのひとつだったかもしれません。何らかのオーラがあり、ある輝きを持っていたのですが、それを今は失っています。だけど、小保方さんが、そう言う境地に達するには、後、50年は必要でしょう。
その上、子供ができて、夜なきをしたり、言う事を聞いてくれなかったり、ママとも戸、喧嘩したりする経験も重ねないと、小保方さんは、おばちゃんにはなれないでしょう。
この章は、今は、奥歯にモノが挟まった様な言い方しかできませんが、ともかく、小保方さんのこれからは、生きるのが、非常に難しくなったとだけは行っておきたいと思います。ネットの世界で、賛否両論があるなどといわれていますが、そんなに、生易しいものでもないと思いますよ。ただ、今はこの程度で抑えて置きます。
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副題3、『本日美容院で、これでは、髪を切れませんと言われたが、それほど、傷がひどいらしい』
連続してお読みいただいている方は、私が月曜日に和光と歌舞伎座の間で、晴海どおりをわたろうとしていて、車と接触事故を起こしたと、語っているのには、気が付いていらっしゃると思います。
本日は五日目です。縫っていただいていないので、ざくろの様に、傷口が開いていると主人が言います。で、絶対に髪が洗えません。となると、沐浴剤に浸した上で、しぼったタオルで、ぬぐうしかありません。そのためには、髪が短い方がいいですね。その上、時間がたつと、髪がにおうようにも成るでしょうから、今日行ってしまおうと上野の帰りに美容院へよりました。ところが、美容師さんが、「これでは、カットできません」というのです。
主人も「ざくろが、ぱっくり開いているみたいに、傷が、まっ赤に見えるよ」と、言います。二人の人間に、『ひどい傷だ』といわれて、ある種の懸念が起こりました。とても、複雑な懸念です。 ところで、本日もパソコンが異常に動くので、途中で、書きやめるかもしれませんが、その懸念について、これから、複雑な文章を書いていこうと思います。住みませんが、これも政治の文章の一環なので、聞いてくださいませ。個人的な、諸々を書いていますが、決して個人的な問題でもないのです。
私は、火曜日に、後頭部には、薄い肉しかなくて、すぐ下に硬膜があるから、先生は縫わなかったのだろうと、好意的に書いています。しかし、本日、急に気が付いたのは、先生が縫わない、・・・・・ということは何の処置もしなかったのと同じことである・・・・・は、裏から手が入って、「そうしなさい」と、言った人間が居るのではないかと、そう、疑い始めたのです。
すごい話になって行きます。耳の穴をかっぽじって聞いてくださいませ。
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副題5、『事故の詳細を思い出し、ココで書いて置こう』
私はパリで、三ヶ月間修行をしたときには、メトロ一番線、サン・ポール駅傍の、有名な日本人画家のお宅をお借りしました。その方は、既に、日本へ帰国済みなので、あいているのです。そこは駅から一分という近さなのですが、真ん中に、メリーゴーラウンドさえ設置されているほど、大きなナカシマのある、広い大通り、サンアントワーヌ通りがあって、それを乗り越えないと、メトロの入り口に達しません。メトロは、中島に中に入り口が作ってあり、道路は、片側通行です。だから、2車線程度ですが、人々は信号を無視して、自己責任でわたります。それにすっかり慣れてしまいました。その上、そのあとも、引き続いて、ニューヨークで同じく三ヶ月間、それも二回も暮らしたので、信号無視で、自己責任でわたるというクセが付いてしまっているのです。
その上、銀座では、7時に画廊が閉まるので、その直前には大いにあせるとも申し上げておりますね。昔は、30軒回ったものです。それに、母の見舞いに、池袋の先にも週に二回いく子とがあって、銀座に、二回くることもいとわなかったのですが、現在では、寄る数も減らし、週一で、済むように工夫をしています。だからこそ、7時前が、超・貴重になります。
で、本来なら歌舞伎座のすぐ傍の三原橋交差点で、晴海どおりをわたるべきなのですが、その手前、25mのところで、対岸の、ピーアークというパチンコ店めがけて渡っちゃったのです。
その時に、右側三越側からは、何も車が来ていないと、確認したのですが、急に四丁目交差点が青になって、わたり始めてから、車が猛然と来たのです。左側には、既に、止まっている車が二台分、二車線で、四台あるのを見ていて、その後ろの空間を渡るつもりだったのですが、猛然と青信号で、こちらに向かってくる車が見えたのです。で、とまりました。
すると、車線上、手前のほう、歩道に近い車が停まってくれたのです。これって、日本人の、超が付くほど、やさしいところなのです。
で、私は、そう言う日本人のやさしさには、いつも接していて、絶対に信じているので、次の車線の車も止まってくれると信じて、わたり始めたのでした。その時、ひだり前方の、歩行者用、ランプを凝視していて、右側を見ていなかったのです。これが、私の二番目のミスです。横断歩道でないところを自己責任で渡るというのは、晴海どおりの、夕方6時半では無理だったという認識がなかったのもミスですが、危険な事をしているのに、左右に注意しなかったのが第二のミスでした。
ボーンと右側から車があたった時に、あ、痛いとは思いました。だが、その痛みは、画びょうが刺さったような、鋭いものではなくて、しかも、すぐ、気絶しちゃったらしいのです。で、ポーンと前方3mぐらいのところにぶっ飛ばされたのですが、気絶していたことが幸いして、立ち上がろうとしなかったのですね。
別に・ももんが・ほど、ペッたりでもなかったでしょうが、道路にやや平たい形で、横たわった上を、ブレーキはかけてあるものの、慣性の法則で動き続けた車が滑って、バンパーで、後頭部を、ぺちょっと削っちゃったのです。で、運転していた人は、すぐ、後ろへ車を下げてくれたのです。私ね、最も幸いをしたことは、気絶をしたことだったと思います。もし、気絶をしなかったら、立ち上がろうとしていて、首の骨を折っていたでしょう。それは重症で、今ブログを書いているどころの騒ぎではなかったはず。天国に行っていたかもしれません。それと慣性で動いてきた車にしてもタイヤには、轢かれていませんね。それも幸いしています。骨は非常にもろい人なので、タイヤが、2本、または、+後ろで、4本乗っかってきたら、100%あの世行きだったと思います。
私ね、子供の頃から、非常に我慢強い人で、外科的手術でも何でも絶対に、弱音をはかない子でした。泣かない子、泣かない人です。見ている親の方が卒倒しそうに成ったと聞いています。
今回も搬送された聖路加病院では、絶対にはしゃがず、騒がず、そして文句も言わずに過ごしました。看護師さんが二人居て、一人は髪を洗ってくださったのです。あれがなかったら、今頃、頭がくさくなっていたでしょう。血はすぐ腐りますので。ありがたいことでした。
だけど、主人は、ジョーク好きなので、大げさに言うとしても美容師さんさえ、絶対にカットできませんというほど、ひどい傷になっているのなら、どうして、聖路加の先生は縫ってくださらなかったのでしょうか?
ココに、むくむくとした黒雲が沸き起こってくるのです。それを丁寧に書いていきますが、その前に、車と野接触事故ではないが、鍛冶橋どおりで、大怪我をして、慈恵医大病院へ担ぎ込まれた、2005年の話を、再現をさせてくださいませ。すごく違うのです。もし、聖路加病院の先生が、裏から何かを言われたので、ああいう治療(何もしない)をなさったのなら、それは、私にお知らせをいただきたいと思います。でも、単に、ルーズなだけだったら、それも困るので、丁寧に、これから書いていきます。
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副題6、『2005年の大怪我と、慈恵医大病院の救急センターの様子・・・・・そして、自分の脳のCTスキャン図84枚を見る』
そちらの怪我は、車ではなくて、私が単に、中央分離帯にけっつまずいただけですが、本を多量に持っていて、しかも、2005年は、まだ、重いA4のパソコンを随時持ち歩いている時だったので、荷物が重くて、転んだ表紙に頭から反対側のどおろに突っ込んで、めがねが顔に刺さったのです。その時の方が痛かったし、また、立ち上がれないのも同じでした。甘えているわけではなくて、ショックで全身の筋肉がいったん激しく、縮むのですね。その後で、解ける(または、溶ける)まで、時間がかかるのです。
で、度たっと、中央分離帯をはさんで、横たわったまま、意識は失わず、『あれーっ。このままだと、後ろ足のほう、車に引かれちゃうわ。早く立ち上がらない』と思っても、どうしても立ち上がれないのです。
当時は、
不況であたりは暗くて、車も少なかったのですが、あのままだと、出血多量状態になった可能性もあります。医家向け薬品会社の学芸部に勤務していた妹が、「お姉さんって,もう,4回、死んで居てもおかしくないわね』といったことがあるのですが、2005年は,妹にそういわれた後だったと思います。きっと既に、7回死んでいてもおかしくないほどの、おっちょこちょいです。
ありがたい事に歩道を、男女四人のサラリーマンが通りかかって、さすが京橋のサラリーマンです。きちんと助けてくれました。今回の三原橋交差点際でも、人々が手伝って助け起こしてくれましたが、甘えているわけではなくて、ショック状態で、筋肉が固まってしまうので、動けないのです。
で、顔の怪我ということで、なかなか、引き受けてくれる病院がないそうで、30分ぐらいたって、やっと慈恵医大で、引き受けていただけました。
その時に入った救急センターですが、特に特徴を言えば、とても外科手術向きにできていたということです。床は、洗い流せる形式で、壁には、大型(6x2mぐらい)のスクリーンがあります。手術用のベッドが、数台置いてあって、それ以外は、機器類だけです。
聖路加の方は、内科的処置に向いている部屋に通されました。床は、洗い流せない形式の床で、先生方のデスクやら、パソコンやらが、隣においてる部屋でした。
だから、怪我は、前回は、最初から重いと見なされていて、今回は最初から軽いと見なされていた可能性はあります。
慈恵医大では、壁のスクリーンに、84枚の私の脳のCTスキャン図が、投影されて、私も先生と一緒に見ました。今回の聖路加でも、私は同じことがおきるのだと思って、それを見るのを非常に楽しみにしていました。この10年間で、自分の脳がどういう風に変化をしたのかを知りたかったからです。
いや、10年前の慈恵医大で、私は一枚もらいたいと思ったくらいです。ただ、プリントアウトをしないシステムでしょう。だから、そんな事をいったって仕方がないです。聖路加では、大型スクリーンがないので、先生が、ご自分のデスクのパソコン画面で、それをごらんになって判断をなさるらしくて、患者には一切見えませんでした。だから、この10年で、脳が萎縮したかどうかがわかりません。それを見たかったので、それができなかったのは、65500円の治療代としては、残念でした。ちなみに慈恵医大では、それは、10年前でしたが、40針縫う治療も入れて、全体で、3万円でした。
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副題7、『慈恵医大の時の担当は、脳外科の先生だった。 今回は、接触時間が少なすぎて、何の担当の先生かが、わからない』
慈恵医大のときは、非常に頭のよさそうな先生で、こちらもまた、説明が不足する方でしたが、私の怪我が、ものすごい大事(おおごと)らしくて、お医者さんの控え室まで噂が回ったらしくて、少し年上の先生が、やってきて、担当の脳外科の先生の横で、「ああしたらいい」とか、「こうしたらいい」とか、おっしゃるので、どうも、そちらは、整形外科らしいと思い至って、『これは、先生が過去にごらんになった顔の怪我と、比較するとどうですか?』というと、『上から、4番目ぐらいにひどいです』と、おっしゃるので、暗澹たる気分には、なりました。そして、すべてが終わった時に、、先生もナースも「鏡を見ないほうがいい」とおっしゃるのです。で、見ないで出て、新橋駅のトイレで、自分を見てぞっとしました。
本当にお岩さん状態でした。眉間から、出血した生血は、外にも噴出したが、皮膚の中にもたまってしまい、それが、あごまで達しているのでした。そして、たった3時間で、青黒くなっているのでした。
ココで、午前二時になったので、明日書きます。
ところで、慈恵医大を出たのが、午後九時で、横須賀線に乗ったのですが、品川で、長時間とまりました。今思うと、現在と同じ形式の、いじめだったと思います。で、自宅へ帰り着くまで往生しました。出血が多量だったので、品川駅で待っている時間帯に、既に、一種のショック状態になって、むかむかしてたまらなかったです。あの当時はクレジットカードを使う習慣がなくて、ホテルに泊まるのも思いつかず、本当に、苦しみました。もし、今同じ様にJRをしょっちゅうとまらせる連中が、やったのだとしたら、悪魔の所存です。
今回の怪我にも、どうも、治療がなされなかったという以外に、警察が、「人身事故では吐くて、物損事故になさい」といったり、ご近所様が、次の日に大騒ぎをしたりと、疑問符がいっぱいあります。それを徐々に書いていきましょう。特に前田家の助言で,また平木さんのお子さん方が,安野家の裏庭に入っていったり,非常におかしい攻撃がたくさんありました。だから、例のエージェントたちの助言で聖路加病院が治療を行わなかった可能性が出てきました。そして極めつけは,大原光孝さんの動きです。彼が動く時、秘密が大きく、ばれてきます。悪魔のたくらみがさらっと表に出てきます。光の中に浮かんでくるのです。
なるほどと思います。悪魔の連中のおん働きによって、65500円も払ったのに、痛み止めの頓服しかもらっていない私です。 治療がなされていないので、その傷は、美容師さんが、ぞっとするほど、まだ、肉がパくっと割れた状態らしいです。
それを知っていて、平木さんの子供たちを使ってきた前田家とか、安野家の、あいも変らぬ恐ろしさを感じますね。特に安野夫人はうれしそうに植木の手当てをしています。は、は、は。
しかも、物損事故にすると、私には、治療代がもらえないこととなります。ふーむ。それをあざ笑っているのかな。あの両家と平木さんは。お上品なお子さんがあるのに、またまた、悪魔の手先になっておられますよ、大丈夫?
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副題8、『1978年、横須賀の大病院で起きたショック状態・・・・・先生が謝罪してくださった』
すごい昔なのですが、生理が終わらなくて困ったことがあります。痛くはないのですが、クリスマスから、ずっと出血しっぱなしです。でも、我慢強い私は、子供たちが、冬休みなので、彼らを連れて病院にいくのが嫌だし、置いて行くのも嫌なので、学校や、幼稚園に行き始めてから、病院にいこうと思っていて、我慢をし続けたのです。
今、12日の夕方になってしまいました。推敲がまだできておりませんが、おゆるしくださいませ。