今日のカテゴリーは「広島東洋カープ」です
今年は調子がよさそうなカープですが 上野とはなにか関係があるのでしょうか
まずは お読みくだされば幸いです
この日は日光街道に面した 南千住の円通寺に行きました
自転車で ほどよい「散歩コース」です
寺は 延暦10年(791年) 坂上田村麿将軍により開創されたという名刹です
徳川時代には 三代将軍家光が鷹狩りの折に立ち寄り 鷹が松の木に止まったそうです
名づけた名前が「鷹見の松」
いまでも 存在していました ご紹介は後ほど・・・
円通寺が 一躍有名になったのは かの「上野戦争」以来のことです
慶応4年5月15日・・・
薩長土肥を中心とする新政府軍に対して江戸で抵抗した「彰義隊」です
戦闘地は上野でした
相手は 長州の大村益次郎指揮下の官軍です 新兵器に歯が立たなかったのでしょう
闘いは1日で終結しました
彰義隊々士たちは 千駄木から三河島 町屋 尾久へと敗走しました
刀 槍 鉄砲などの武器 鎧などをかたに当時の農民たちに助けを求めたと伝えられています
逃げのびて 後に会津戦争に加わった隊士もいたようです
私が 幼い頃は横丁の古老が語っていたものです
”わしたちのご先祖さまは 彰義隊の味方だった・・怪我の手当てもしたもんだ・・”
この地方は 天領だからでしょうか 徳川幕府に恩義を感じていた農民たち
彰義隊を匿ったものも 逃走を助けたものも多数いたそうです
さきほどの錦絵に描かれていた「上野黒門」です 補修されたとはいえ本物です
東照宮大鳥居の東脇にあった上野黒門 ここは激戦地でした
この門は 明治40年に 帝室博物館から円通寺に移設されたものです
理由は 戦争で亡くなった彰義隊士の266遺体を上野で火葬し 当寺に収骨したからです
さらに 太政官許可によって 堂々と「賊軍」の法要ができる 当時としては日本で唯一の寺として有名になりました
住職はじめ なかなか勇気のいることだったでしょうね
激戦を物語る鉄砲の弾のあとです 大きな穴があいています
彰義隊士の墓石です
敗れた彰義隊の戦士たちを匿い 逃亡を助けた下町住人のご先祖さまたち・・・
弱いものの味方をする・・・
その気概がDNAで残存しているのでしょうか
広島カープファンになって53年になります
今年は なんとか3位に食い込んでもらいたい
彰義隊の戦士たちに祈ってきました
< お約束のおまけ >
意外や意外 小ぶりでした やはり この松も三代目でしょうか
今年は調子がよさそうなカープですが 上野とはなにか関係があるのでしょうか
まずは お読みくだされば幸いです
この日は日光街道に面した 南千住の円通寺に行きました
自転車で ほどよい「散歩コース」です
寺は 延暦10年(791年) 坂上田村麿将軍により開創されたという名刹です
徳川時代には 三代将軍家光が鷹狩りの折に立ち寄り 鷹が松の木に止まったそうです
名づけた名前が「鷹見の松」
いまでも 存在していました ご紹介は後ほど・・・
円通寺が 一躍有名になったのは かの「上野戦争」以来のことです
慶応4年5月15日・・・
薩長土肥を中心とする新政府軍に対して江戸で抵抗した「彰義隊」です
戦闘地は上野でした
相手は 長州の大村益次郎指揮下の官軍です 新兵器に歯が立たなかったのでしょう
闘いは1日で終結しました
彰義隊々士たちは 千駄木から三河島 町屋 尾久へと敗走しました
刀 槍 鉄砲などの武器 鎧などをかたに当時の農民たちに助けを求めたと伝えられています
逃げのびて 後に会津戦争に加わった隊士もいたようです
私が 幼い頃は横丁の古老が語っていたものです
”わしたちのご先祖さまは 彰義隊の味方だった・・怪我の手当てもしたもんだ・・”
この地方は 天領だからでしょうか 徳川幕府に恩義を感じていた農民たち
彰義隊を匿ったものも 逃走を助けたものも多数いたそうです
さきほどの錦絵に描かれていた「上野黒門」です 補修されたとはいえ本物です
東照宮大鳥居の東脇にあった上野黒門 ここは激戦地でした
この門は 明治40年に 帝室博物館から円通寺に移設されたものです
理由は 戦争で亡くなった彰義隊士の266遺体を上野で火葬し 当寺に収骨したからです
さらに 太政官許可によって 堂々と「賊軍」の法要ができる 当時としては日本で唯一の寺として有名になりました
住職はじめ なかなか勇気のいることだったでしょうね
激戦を物語る鉄砲の弾のあとです 大きな穴があいています
彰義隊士の墓石です
敗れた彰義隊の戦士たちを匿い 逃亡を助けた下町住人のご先祖さまたち・・・
弱いものの味方をする・・・
その気概がDNAで残存しているのでしょうか
広島カープファンになって53年になります
今年は なんとか3位に食い込んでもらいたい
彰義隊の戦士たちに祈ってきました
< お約束のおまけ >
意外や意外 小ぶりでした やはり この松も三代目でしょうか
私も花ばかりに目をやらないで、歴史を探ってみましょうか。
弱いものの味方、最近は少し廃れてきたようにも思えます。
弱いとなると集中していじめる輩が・・・・
今日の新聞の投稿欄で、もみじマークを付けたらとたんに罵声を浴びせられるような怖い目にあったという記事が載ってました。
本来日本人は「判官贔屓」なのにね。
昨年5月に彰義隊の慰霊碑にお参りしたことを思い出しながら読ませていただきました。
半世紀以上も前からのカープファンでしたか。
この話、カープの選手たちが知ったら益々力と勇気が湧いてくるでしょう。
こちらにも坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に建てられた「田村神社」があります。
仁井田本家の「田村」とご縁があります。
本日午後1時55分からの「ミヤネ屋」という番組で、「きんぽうのあまさけ」が紹介されます。
お時間ありましたらどうぞご覧くださいませ。
上野戦争…美術館にしか行かない私ですが。。
江戸っ子の心意気を感じますね
それをまた熱く語り、歴史探訪がお好きなakiさんがイイですねぇ~~
暇な時に品川にあるキャノンビルを訪問しては如何ですか?7月31日まで木村恵一写真展「江戸東京・下町日和」と題して、文京区界隈を中心として懐かしい下町の写真がずらりでした。知っている街角や、知っている職人さんもいるかも知れませんよ。これからオリンパスで撮るのに参考になりますよ。
弱いものにロマンを感じてしまいます(笑9
どうも、勝ち組、負け組みなんぞというフレーズが流行りだしてからおかしくなってきました。
本当の人生の勝ち組は、健康で平凡な生活をしている人たちです。
金儲けよりも「人儲け」
ひとりでも多くの人を知ることができれば勝ち組ですね。
罵声を浴びせた人間は、心がすでに枯葉マークです。
若いのに気の毒ですね~
上野の西郷さんの銅像の裏に彰義隊の慰霊碑がありました。三人でお参りをしました。
カープが好きになったのは少年時代でした。
白石選手を憶えています。なにしろ弱かったです。
なるほど。田村の地名は所縁があったのですね。
いまから1300年も前、奈良から歩いてきた。
すごいことです。健脚ぶりに驚かされます。
残念ながら、テレビは見られませんでした。
ありがとうございました。
看破されましたね~
無理ではなくてもこじつけらしさはありますね、立派に。小絵さんの勘のよさにです。
強いものの味方をすればいいのでしょうが、そこがB型なんでしょうね。
損な性格かもしれませんが、これも楽しいものです。
野村監督もBでした
近くに住んでいても初めて出かけましたよ。
ブログ拝見しましたよ。
品川ですよね。
7月までやってるようです。
懐かしい人物に会えるかもしれませんね(笑)
行ってきましょう、ペンタックス持って。
それが今もなお、誇りとしている下町気質など、沢山の事がよく分かりました。
オヤジな私さんの広島カープへの入れ込みと通じることに感服と感激と、納得しました。
一番上の写真の奥、おもしろい本堂ですね、仏像は分かるのですが下の階段が理解に苦しみますw。
今度いってみようとおもいます。