1963年に起きたケネディ暗殺事件の捜査資料が公開されるという。アメリカという国のことを、僕は勝手なイメージで、なんとなく大雑把でルーズな国だと思っているが、どんな機密資料でも50年を過ぎたら公開するという規則をちゃんと守っているのは感心する。さすが民主主義の国なのだ。それに比べれば、ついこの前会ったばかりの森友学園の関係者とお役所の記録を破棄したとか、存在しないとかいうのが通用する日本という国にはガッカリさせられる。
子供の頃、ケネディ暗殺を扱った映画をテレビで見たことがある。まだ小学生だった僕に事件そのものはナンノコッチャという感じだったが、犯人とされたリー・ハーベイ・オズワルドの名前だけは、頭にこびりつき、いまだにすらすらと出てくる。単独犯なのか共犯がいるのかは、公開される資料で明らかになるかもしれないが、今更真相が明らかになったところで、歴史は覆らないだろう。
逮捕後すぐに殺されてしまったオズワルドの奥さんが、数年前にテレビのインタビューに答えていた。大統領を暗殺したとされる人間の身内が、顔を出してインタビューに答えること自体が日本では考えられないが、奥さんはインタビューで「今でも主人のことを愛しています」と堂々と答えているのには感動した。
たとえ凶悪犯と言われようと、旦那は旦那であり、愛した人は今でも愛した人であることに変わりがなく、そして家族は凶悪犯ではないのだ。こんな当たり前のことが日本では通用しない。凶悪犯の家族は引っ越しを余儀なくされ、正体を隠して暮らしていかなければならない。ネットによる犯人の親族探しまで行い、匿名で攻撃する。民主主義を言い、個人の人権を尊重すると憲法で謳いながら、実質は犯罪については連座制であり、陰に隠れて中世の魔女狩りのような磔・石打ちの刑が平然と行われる。
都合の悪いことはすぐに隠そうとするのは子供のすることだ。都合が悪くても、自分のやったことは自分のやったことだと堂々と言うのが大人の対応なのである。