棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

秋暮景の絵

2008-09-22 18:14:49 | 創作活動
私は1970年代後半は、山梨県甲府にいた。
山梨美術館にミレーの「種まく人」が購入され話題になったころである。
確か2億円だったと思うが、県民は政治的な背景もあり、賛否両論で大騒ぎだった。
その後もミレーのデッサンや習作ばかりでなく、時代背景の作品などの収蔵があり、地方の美術館に良くある「目玉作品一本」的なこともなく、大変参考になっている。
近くにいたので良く通い、今でも山梨へ行けば拝観するようにしている。
そんな次期に描いた作品の写真がでてきた。
F50(110-90)油彩 秋暮景 
本体はどこへいったか。マンマになってしまったか。忘れた。

雨降りです

2008-09-22 09:53:22 | 山郷の暮し
さいぜんまでタイトルが「雨降り」でしたが、「雨上がり」に変えました。
昨日は、台風一過の抜けるような澄んだ空は、ほんの一時で雨雲におおわれてしまいました。
昨夜から雨が降り続け、一時はかなり激しい音がした。
先ほどまで細い雨が降っていますが、光は強さを増しようやく上がってくれた。
谷の稲田も2-3日前から、あちこちからコンバインのエンジン音が響いてきましたが、さすがに今日は作業もお休みと思ったのですが、雨上がりと同時に、農道を軽トラが動き出しました。
稲の取り入れといえば、お日様を浴びて腰をかがめてのつらい稲刈り、次には10日ばかりはぜ掛けをし乾燥させます。いわゆる美味しい「はぜ掛け米」
コイーン・コインーと心地いい音を立てての脱穀・俵ずめ。
わらを燃やす煙と、優しい香りがたなびいていた。
一家総出の野良仕事。子供たちが甲高い声を上げて、走り回っている。
そして、
ヨイコラヨイコラと、田圃から稲倉に運び込む。
ミレーの絵のような詩情ある光景は、大変な作業の連続であった。

それが、コンバインはその場で、袋詰めまでおこなってしまう。
田圃には人気がなく、軽自動車やコンバインのエンジン音が響くのみ。
それも、決して若い人はいない。
車から降りれば、腰を曲げた高齢者が、黙々と機会を操作している。
「親父さん、一人でみんなやっちまうんだ」の答えに
「息子たちに贈ってやれればいいんで、機械と農薬の月賦に消えちまうワイ」
これが日本農業政策の不始末の結果だ。
今日は自民党総裁の選挙とか。
実行力・統制力のない、なにかどうにもならぬ末期的な保守勢力の争いだ。
イラストは絵本「棚からぼた餅」より

http://ryuomaru3.web.fc2.com/tanab0ta/tanabota-bn1.html

ET歩き

2008-09-21 11:51:50 | 山郷の暮し
母屋に(宴会場)銭湯からもらってきた大鏡がある。
夕刻時に、体が曲がってヒョコタンコョと歩く、へんてこりんな生き物が映っている。
薄明かりにヨタヨタと歩く自分の姿だ。
何かに似ている。そうだ、確か「2001年宇宙の旅」のラストシーンあたりの、巨大宇宙船からETがヨタヨタと現れたそれに似ている。
そうか・・彼らの住む星の重力が、吾らの地球より小さかったら、きっと自重に絶えられず、腰をかがめヨタヨタ歩きになってしまうのだ。
オレの情けない歩き方は、ET歩きなのだ。
と、言い方を変えたところで背筋かのびるわけでなし。
今日の様に、雨降りはどうもいけません。

思えば腰に変調をきくたしてから一年以上。
ヒェーー痛テーーーと丸くなってから、4ヶ月に。
整形医院・整体・おさわり(?)などなど・・・。
少しは治まってきてはいるが、腰の痛みよりも、足全体に耐え難い痛みがあり、散歩はおろか物がもてなく、ナサケナイ。
様々な情報を得るが、手術を受けて全快したという、ご本人の話は無い。
ネットなどでありがたいご忠告があったりしています。
バンドの仕方一つで、だいぶ楽にはなりましたが、まだまだ時間がかかりそう。

無病息災が一番ですが、腰がぶっ壊れてから、人の痛みがよく判るようになり、新しい人生観を得たことは確かです。

毒ガス掃討作戦

2008-09-21 09:59:28 | 山郷の暮し
蜂の巣 
玄関先の庇は、女郎蜘蛛の巣で汚らしいといわれてしまいますが、私はこの蜘蛛が美しくてすきなんです。
毒ガス殺虫剤ぶちまいて、ほうきを振り回せば済むことです。
でも、しません。まだ、だんじてしません。

クモノスが張り巡らされたなかに、足長蜂 の巣があるではないですか。
まるで、有刺鉄線に囲まれた要塞のごとく。
みごとに、通り道ができています。
気温も上がらず雨模様のため、飛び回る元気が無いのか、団子になっている。

以前に足長蜂に刺されたことがあったが、これは痛い。ひどいはれようだった。
決して馬鹿にしてはならず、ショック状態になるという。
聞いた話で確認はしていませんが、山仕事の方々は「免疫剤の携帯注射」を持参しているようです。
注射といっても、簡単にできるのだそうです。
もっとも早く有効な退治法は、火炎放射器。
物騒な感じですが、応用のしかたで方法はあります。
一瞬で火で羽を焼いてしまうので、敵さんはどうにもならないということです。
ついでに、家まで燃やしてはいけませんが、我が家の蜂の巣もそろそろナントカしなくては。
殺虫剤でもOKですが、時として手元に攻撃を受けることもある。
敵も必死なのであります。

昨夜、毒ガス掃討作戦を決行。虐殺完了

女郎蜘蛛

2008-09-20 09:09:17 | 山郷の暮し
台風の被害も無く、オレンジ色の柔らかな朝日が、ハナノ谷を包んでいます。
静かな谷は、秋の虫の声が、耳鳴りのように聞こえます。

私は必ずしも「虫少年」ではなかった。
虫嫌いでもないのだったが、夏休みに補虫網を振り回すことは、だいっきらいだった。
博物館などで、蝶や虫の標本も好きでなく、いまでも見たいとは思わない。
獣や鳥の剥製の嫌いな方はおおいと思うが、アレを観ると「いのち」の尊厳を冒涜しているような・・。
まーーそこまでは言わないとしても、小銭を溜め込んだお宅などで、トラや熊や鹿・・・などの敷物を見ると、もう行きたいと思わない。
話がそれました。
虫少年ではなかった私ですが、なぜか「女郎蜘蛛」は、キレイダーと思ってきました。
標高700M以上の、勝手に名ずけた花の谷に住み着いた20年以前には、女郎蜘蛛は生息していなかった。
目が赤く光り、刺されると腫れ上がってしまうオニクモばかりだった。

10年ほど前から、谷の入り口あたりから見かけるようになり、今は国道254のガードレールにびっしりといる。
標高800mあたりまで生息域がのびているようだ。

オニクモは昼間はあまり出てこない。
もしかしたら、女郎蜘蛛に占領されてしまったのか、共存はしていないようだ。
古いクモノスが這った様は、たしかに汚らしいが、いま少しほっておこう。
派手な美しい着物を着た、女郎蜘蛛が浮かんでいる。
蜘蛛合戦があるんですね。なんと無形文化財だそうです。
http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/dg_kumo.htm
写真は水墨画  葉陰死闘

ジーザス・クライスト・スパースター

2008-09-19 11:39:14 | エッセイ・随筆
台風の影響が出てきたのでしょうか。10時ごろから雨がしとしとと降り出し、長袖上着をきました。
各地で被害が報じられていますが、無事であることを祈ります。

昨夜 何気なしに、9時からのBS映画劇場にチャンネルをいれる。
大評判だったこの作品を、当時映画館で観たときの衝撃を久しぶりにおもいだした。
当時(1974)の批評は賛否両論。特にキリスト教関係者からは非難の嵐だったと記憶している。
キリストに関係した映画は 数知れない名作があるが、ずばりイエスを現わした映画は無いような気がする。
イエスは後姿や影などで暗示させる映像の中で、ヒッピー(60年代以降の古い言葉ですが)スタイルのイエスが登場。
出演者はと酒場やゲームセンターにたむろした若者スタイル。
そんな彼らが歌い踊るロックミュージカルの、現代的な演出の大胆に度肝を抜かれた記憶がある。

昨夜の視聴で、改めてその現代性と、表現の巧みさを読み取ることができた。
何から何まで新しずくめでなく、古典を確りとベースにし、現代と無理なく融合・共鳴した表現であった。
もしかしたら、21世紀の現在だから、正しく理解できるのかもしれない。

神の子イエスを触れてはならない存在から、人間としての苦悩・矛盾を表し、かえってイエスが身近におもえた。
さらに、ユダの苦悩は正に私たちだ。
この映画の主役は、人間ユダだったんだと、はじめて理解ができた。

話は変わりますが、私の創作活動も、古典と現代をいかに溶け合わせていくか、大きなヒントを得た映画だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジーザス・クライスト・スーパースター
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジーザス・クライスト・スーパースター
写真は「愛欲曼荼羅」の一部

横取りだーー足元の世界

2008-09-19 08:31:04 | 山郷の暮し
2
こりゃーおもしれーやと、お茶を飲みながら観察をする。
フット以前に読んだ「フアーブル昆虫記」の一節を思い出す。
確か・・・私が草むらで何時間もじっとしていたとしても、おかしな人と思わないでください。
すぐに役立つことでもないし、お金にもならないことだが、たいせつなことです。
というようなことだったが、どうぞお読みになってください。楽しい本です。

さて、話をもどしましょう。
10CMほどの間隔でつくられたミニ蜘蛛の巣。互いに無干渉主義なのでしょう。
点ほどの体長ですが、良く観ると大きさに差があります。
明らかに捕獲量の違いが、残骸でわかります。

壁の隙間から出てきたのが、体長5ミリほどの「つめじむかで」
小さなクモノスなど見えないのでしょう。隅っこを這いずって行く。
足をとられてしまったのか。これまた、大騒ぎでクモノ巣がグシャグシャになる。
小さな小さなオニグモチャンは、気をうかがっては果敢に攻める。
相手がでかすぎはしないのかなーと思うのだが、「つめじむかで」は、見えない糸にひかかっていく。
しばらく戦っていると、なんと体長1センチ以上の蜘蛛(名前はわからないが、クモノスを張らない、じぐもやこもりくもあたりか)が出現。
大将は、ジーと様子をうかがっている。と、突然、もがいているムカデに飛びっついた。その距離は3cmはじゅうぶんにあった。
そんな動作をくりかえす。実に素早い。
なんと、オニグモのオチビチャンもまけずと、大将に攻撃をする。
この死闘が何度か繰り返される。
まだあばれていたムカデは、しだいに毒がまわってきたのか、動きが鈍くなってしまった。
大将はムカデを引きずり出す。
見えないほどのくもの糸だが、結構強いと見えて簡単にはいかないようだ。
一息入れながら、20CMほど移動させると、さすがにオニグモのチビチャンもあきらめ、ただ、ぶっ壊された巣の修繕をはじめた。
飛びつき攻撃で漁夫の利を得た大将、まずは安心をしたのか、休憩タイムなのか、獲物を置いて帰ってしまった。

20分以上たっても、取りに来ない。どうなってんだろう。

なんとスゲー家に住んでいるんだ、と思われてしまいますね。
あえて否定はしませんが、足元の世界に驚愕させられてしまいます。


弱肉強食-足元の世界

2008-09-18 11:45:48 | 山郷の暮し
生まれて間もない点ほどのオニクモの子供の巣が、10CM ほどの間隔で部屋の隅に並んでいます。
掃除機でそれこそ一掃しようとすると、気配でパニクッタ子グモが宙を走り回る。
良く観ると、動く範囲は自分の巣の内だけだ。
隣の巣に入ったら、サー大変。点のようなチビチャンが猛然と攻撃をする。
なにか面白くなって、掃除は中断。
そのうちに、ささない蚊のせすじゆすり蚊6mm がフラフラと飛んできた。
小さなオニクモの巣の一つに、ひかかってしまった。
おおあばれの「蚊」は、隣の巣まで壊してゆく。
もしかしたら、共同で狩りをするのではと思ったが、どうもそのようでもなく、最終的にいきついた巣の持ち主のものになったようだ。
とうことは、ただすを壊された連中は、10cmほどの範囲で隙をうかがっている。
10分ほどして、オニクモのオチビチャンがようやく蚊の動きを止めることができた。
他のコグモは完全にあきらめたのか、自分のテリトリーで巣の修繕をはじめた。

私の家は場所柄、蜘蛛の巣だらけで、なかでも始末の悪いのがオニクモだ。
デッカイやつになると、丸々と肥え2cm以上も在る。
目が赤く輝き、こいつはにくらしいほどの顔つきだ。
夜の散歩などで、ベトベトした蜘蛛の巣が顔にかかったときなど、ほんとうにゾットしてしまう。

一週間ほど前に、卵が孵ったのか、点のようなものがしきりりと動き回っていた。
まさに、蜘蛛の子を散らす、であった。
掃除の行き届かない隅っこに、コグモたちが巣くっていたのである。
観察がおもしろくなり、さらに注意を払って見ていると・・・・・。
次回をお楽しみに。

世界思想ーー2

2008-09-17 12:31:32 | チョット一言
従来の政治経済、そして思想までも支配してきたのは、西欧の感覚・考え方が世界をリードしてきた。
経済においては、米国の顔色一つで変わってしまうほどの専横ぶりだったが、中国・インドの躍進で変化をしている。
具体的な政治経済への論評はできないが、今までの西欧による世界思想が崩れ、新たな世界思想が生み出る 混沌とした時代だとかんじる。
ではどこから、新世界思想が生まれ出るか。
中国ではない。日本など世界思想を生み出す素地もない。
ずばり、インドからである。
 難解な「印哲」をうんちくする学識はないが、西欧の科学万能の考え方がいきずまり、古代インドの不確定性原理に科学が近ずいてゆくという。
インド哲理の基本は、「ことば--文字」である。
森羅万象、言葉で説明できて始めて存在する。
逆の視点からすれば、言葉で説明できなければ「存在しない」のである。

突然ですが、TVで躍進するインドが報じられるた。その中で
インド企業から徹底的に質問攻めに会う、日本企業の戸惑いがあった。
日本的感覚からすれば{そんなことは暗黙のうちに判っているだろう」と・・。
モンゴロイドは本質的に理屈を嫌う。数理的筋立てを嫌う。
日本に至っては「暗黙の了解」に代表できるように、徹底的な議論をきらう社会である。
役所の秘密主義やその場しのぎの対策の根底が、我々日本人の性格ともいえる。
日本は「理屈世界」からは、面白みがあっても、世界には通用しないのである。
日本は思想を生み出しているのではなく、解説している思考ともいえる。
一時は「ルックイースト」などと、ヨイショされたことがあったが、世界の指針にはなりえなかった。

話を戻そう。
世界思想とはこれからの世界のバックボーンとなる哲学である。
哲学は数学的論理の思考である。
インドは宗教家・思想家・芸術家・政治経済家、全ての人が「お喋りで理屈家」
バクシーとくる物貰いですら、自分の立場(言うべきこと)を認識している。
モンゴロイド人では とても太刀打ちできない、力を秘めているのである。

混沌とした社会

2008-09-16 08:43:03 | チョット一言
流動・激変してゆく世界の動きの中で、日本はあいかわらず旧態依然。
判断のあまさ・遅さ・読み違いなど、ますます小さな国になっているような気がする。
無能な政治家・体制を作り上げてしまったのは、我々国民で すなわちわれわれが無能なのだ。
一時期、日本の企業は世界の範とされたことがあったが、今から思うと錯覚に等しかった。
というより、金をひっぱり出す、手段だったのではないかともかんじてならない。
優良企業は血の出る工面をしていることであろうが、近年の企業モラルのむ低下は、新参会社・新業種に多い。
つめていえば、製造企業ではなく、どちらかといえば他人の褌で相撲を取っている業種におおい。
政治家は金・金と選挙資金工面に走り回り、蓄財に余念が無い。
「国民のため・国民の目線」などのお題目で、我々をいつまで愚弄するのかといいたくなる。
政治献金を得るためには、国民の嘆きを無視しても、様々な悪制度を改革しょうとはしない。
その最もいい例が、金貸し業への取締りの甘さだという。
彼らの得た暴利から、政治献金という名の、お礼金をかすめとっているのだ。
残念ながらこの現象は日本ばかりでなく、社会秩序のバックボーンとなる世界思想が根元から崩壊し、病魔は世界中に広がっていることだ。
では、世界思想とはナンであろうか。少し考えてみよう。

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本