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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

屏風の扉が開かれた!

2020-05-28 | 日記
教皇の前で文を奉ずる・・・
   というのが、使節の最も重要な使命であった。
伊東マンショが読み上げようとした文書は、彼を正使として
ローマに遣わせたキリシタン大名、大友宗麟からグレゴリウス十三世
に宛てた文であった。
         

 マンショが読み上げ・・・マルティノがすらすらと流れるような
  ラテン語で通訳する・・・場内のざわめきがすっと収まった。
 声は次第に朗々となり、自信をもって読み上げた。
 グレゴリウス十三世は、まるで彫像になってしまったかのように
  微動だにしない。
 マンショは最後の一言までしっかりと読み上げ・・・
   文を盆の上に載せ・・・壇上の玉座へと運ばれた。


 秘書官が告げた。
  「献上物をここに奉れ」 
             「ドン・ノブナガの箱を、これへ」

この天正遣欧少年使節団のクライマックスである
献上品「洛中洛外図屏風」の説明を教皇の前でするのが 
 なんと なんと! 「俵屋宗達」がなのだ。
一番驚いたのは、「歴史の事実」でしょうね。
突然、こんなフィクションが挿入されて・・・
教皇が聴き入ってしまう場面。 
まぁ、ここまで来たら、このまま続けるしかありませんね。

事の次第を縷々丁寧に、静かな口調で・・・
吾が国の中心たる今日の都にほど近い安土の地に、それはそれは
立派な白を建造されました。
 この城にある幾百の部屋の装飾を、信長様はひとりの絵師に
託されました。その名を狩野州信(くにのぶ){永徳}と申します。
描きたる絵は、絢爛豪華、豪儀にして緻密、あでやかにして深遠。
西欧の絵師のそれとはまた異なりて、見る者の心を躍らせずには
いられぬほどの見事さです。
 さらに続くが・・・・
    宗達は、せいいっぱい熱を込めて、すらすらと語った
 
「御前にて箱を開け、御物を開陳せよ、教皇もお待ちかねである」
      
        傑作ー<洛中洛外図屏風>
 「帝王の間」は、しんと静まり返った。
  神秘の扉が開く瞬間であった。

現われたのは、いちめんの金色。 
まばゆいばかりに輝く黄金の海。 いや、金の雲。 
雲上にすっくと佇んでいるのは、世にも妙なる美しき城、安土城。
絢爛と光を放つ豪奢な構えのその城は、威光を放ち、
天下四方を一望に見渡す。
   ・・・・・
 
                      *安土山屏風図(復元図)

   
   
 「なんと・・・なんと美しい・・・」
  金色の画面をひとしきり眺めたあと、教皇の口から感嘆の言葉が
  こぼれ落ちた。

そして、いま。
   屏風を見つめる教皇の瞳にも、うっすらと涙が浮かんでいた。
 「余は・・・・いま、旅をした」
 「ドン・ノブナガに伝えよ。
       そなたの国…日本に、永遠に神のご加護を」 

 織田信長の下命により、無事教皇に謁見し、屏風も届けることが出来た。
 が、さらに需要な命は、帰朝してローマの様子を信長に報じることである。

 献上されたこの屏風に教皇は感激し、教皇の住まいと執務室を結ぶ廊下
 (地図の回廊)に屏風絵を飾った。
        

        
  しかし、その直後、グレゴリウス十三世が急死。
  屏風絵の行方は分からなくなってしまう・・・・・
  
  う~ん、ほんと残念、無念です。
 現在まで、この回廊の壁に…遺っていれば と。

 一行が長崎を出港してから、すでに三年以上の歳月が過ぎていた。
 その間、ずっと移動を続けていたため、日本の情勢を知ることは
 ほとんど不可能であった。
 もとより、戦国の世である。
  今日は何事もなかったといっても、明日はどうなっているか誰にも
 わからない。 家も、君主も、日本の国そのものも。
  ・・・音沙汰がまったく聞こえてこない西欧にあっては、国もとが
 平穏無事であることをただ神に祈るほかはなっかた。

 *そうなんです。
   この謁見の報告を、また、西欧の数々の出来事を、直接彼らから
   根掘り葉掘り・・・しつこく、納得いくまで聞きたかったであろうに。

   歴史は、ある時。 無残なお仕置き?をするものである。
   天正遣欧少年使節の一行が、日本の港を出発した・・・1582年2月
   その 数か月後の6月2日。 
   「本能寺の変」により、信長は没した。
   このことで 世は 大きく変わっていく。
   そして、帰国する彼らの前に立ちはだかる難題も・・・
             もちろん彼らは、知る由もないが・・・。

   
   彼ら一行も、「運命」を感じる数々に遭遇するものである・・・
  ローマ教皇、グレゴリウス十三世についに謁見を果たしたそのわずか
  十八日後。 教皇は天国の門をくぐり、神のみもとに召されたもうた。

 ローマの街中に弔鐘が響き渡った。 一行も涙にくれた。
 教皇を天国へと送る告別のミサがヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂
 執り行われた。 
       
       使節団一行も永遠の別れの儀に参列した。

  グレゴリウス十三世が逝去してのち、教皇選出選挙が行われ、
     白い煙が・・・礼拝堂の煙突から・・・
     シクストゥス五世が新教皇に選出された。

    コンクラーヴェが行われた「シティーナ礼拝堂」
       

   新教皇になった翌日に、シクストゥス五世による
    使節一行のお召し出しがあった。

 今度はジュリアンも加わって、四人揃って再びヴァチカン宮殿へ参上した。
 
 使節団は、行幸参加以外にも教皇シクストゥス五世の即位式等の儀式と祝祭に主賓として
招待され通常は君主や諸侯が行う名誉な大役まで任せられたという。 
参列の際の服装は日本風ではなかったようである。
     ここに「ラテラノ教会行幸図」が遺っています。
         

   拡大して 4人の様子が描かれている・・・
 
 「赤丸印」を、よく見ると、行列の中央列右側から奥にかけて金色の飾りを付けた白い馬に乗り、
 青い服に丸みを帯びた帽子といういで立ちで、明らかに他の人々とは異なった服装に身を包んだ
 4人の人物を確認できる。
 彼らには衛兵たちが護衛についており、4人が乗る馬の馬具飾りからも、これらの人物が特別な
 存在で重要な来賓扱いされていることが容易に理解できる。

こんな絵を、よく残していましたよね。
これは時の教皇が自分のために訪れた少年を招待したことは事実であり、その歴史的な行幸の様子を
後世まで誇示するために、このような形で「日本人」が描かれることになったものと考えられています。

 ここで珍しいものを・・・

「サンタ・マリア・デル・オルト教会」
       
 
     教会の内部
       
この教会には天正遣欧少年使節団の一人、中浦ジュリアンの肖像画が飾られている。
 (この肖像画は、日本在住の聖画家カトリック教徒の三牧樺ず子氏によって描かれたもの。
          

           当時のジュリアンを描いたものではない。)            
でも、なぜここに肖像画を・・・その所以は=1568年年頃、使節団の副使として参加した。
当時14歳。少年たちはローマに到着し、そこに約二か月間滞在した。6月の初旬に他の者と共に遠足に
出かけた際に、嵐に巻き込まれたが、このオルト教会の聖母に祈ったところ、奇跡的に助かったという。
 中浦ジュリアンは日本に帰国後、厳しいキリスト教迫害にあっても、潜伏しながら進行を続け、聖職者として信者たちを励まし続けた。機構後43年後の1633年ついに捕らえられ、2日間の過酷な拷問の末、他の外国人
宣教師らとともに穴吊るしの刑で殉教した。彼の死から375年後の2008年、中浦ジュリアンは、ヴァチカンが設定する聖人の一段階手前の福音に列せられた。            (資料より抜粋 引用)


 使節一行はローマに七十日余の滞在をし、イタリア周遊の旅を続けるため
 ローマを出発した。

  ローマから まず東へ 各都市を回り~ペルージャに到着。
 その後、カメリーノ~ロレートにはいり、聖母マリアが受胎告知を受け止めたとのい言い伝えがある「サンタ・カーザ(聖なる家)」を訪問した。

 アンコーナ~・・ボローニャへ。 その後、ポー川を船で下り、キオッジャに着く。
そこから海路で、水の都ヴェネティアに入った。

ヴェネツィアでは、 共和国大統領、ニコロ・ダ・ポンテとの謁見を果たす。
            
世界で一番美しい広場
   「サン・マルコ広場」での「聖マルコの出現」の祝賀行事の日取りを調整し、一行が参加できるようにしてくれた。
  

 ヴェネティア~パドヴァ、ヴェローナ~クレモナ ローディーと移動し
 ローマを出発して五十四日目となる七月二十五日。

 ミラノの中心部にあるイエズス会の教育施設「ブレラ」の中にある宿舎に
落ち着いた。


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