オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

走行三千キロ(1)

2014-04-01 | Weblog

4/1(火) 今日から新年度がスタート、様々な形の新しい人生が始まったことであろう。私の方は何の区切りもなく今日が始まるだけのことだが・・・、ちょっと違いがあるとすれば、家人の誕生日が今日である。お祝いは、週末にやろうと子供たちが考えているようだ。オヤジとしてはすべてお任せだ。

春らしく小さな花々が咲始め、何時でも花を開きますよと、準備は万端のようだ。こっちは萎んでいくばかりだが、毎年毎年に芽を吹き咲き誇る自然の営みには括目すべきだろう。それでも手の入れよう、心の注ぎよう次第で植栽は見違えるようになる。生きものとして人も同じであろうが、老いゆくばかりの巳は、それすらも覚束ない。

              

せめて、毎年に新芽をだし青々と繁れる草木に想いを委ねるばかりだ。そして枯れ行き、再生の時を待つ存念すらも干からびていけばいい。

前夜、この日で当社を卒業するU老との一杯であった。その人柄で近隣のお店や、そこの客とも親しい老は、一足先に隣の「高松」でそんな皆様から慰労を受けていた。私とは、それが終わってから「ローカーボ」か「ちょっぷく」で落ち合う手筈にしていた。私がローカーボのカウンターに腰を落ち着けたのは20時、それから30分程して老は姿を現した。

                        

ローカーボからちょっぷくと、馴染の安酒場を巡り、最後はカラオケの店SEIJUとなった。『もう帰ろうよ、電車で寝過ごしたり、ホームに落ちたりしたら大変だぜ』と、老を止めたが、SEIJUに行くと頑張ってやまない。親の小言と老人の願いは聞かなくては、後々に後悔するとばかりに付き合ったが・・・。

SEIJUには、老と高松で一誌に飲んでいたはずのメンバーが十人程来ていた。当初からそう云う話になっていたのであろう。酔っぱらいどもがワイワイとマイクを握り騒がしい。

其処で宣言した『カラオケは、一番だけ!素人の歌は一番だけで充分。プロだってTVでは二番までしか唄わない』と。一番の歌詞が終わると強制的に切るというルールにした。これなら人数が多くてもマイクが廻る、下手な歌も直ぐに終わる、と云う次第で一石二鳥だ。

結局、最後まで付き合いきれないとばかりに、先に失礼をした。何しろ朝帰りなので眠い、この日の夜明け前に帰京したのだから・・・。

 

  走行三千キロ・・・

敵中横断三千里、こんな言葉を使うだけで苔の生えつつある人生が知れようと云うものだが・・・。昨日の夜明け前、四国の車旅から帰還した。オーバーな表現ではあるが、よう帰り着いたものだ。三千キロとしたが、実質はそれに少し足りない距離を走っている。正確に云うと、走った車に同乗していたのだが・・・。   

                      

                        四国へと繫がる橋                                             

27日(木)、午後7時20分に目黒を出発。T君とU老との車での旅が始まった。ひたすら東海道を南下、福山西ICからしまなみ海道、松山高速道から八幡浜を経由して佐田岬へ。道路を間違えること二度、ロスタイムは都合二時間程になろうか。私的な当初の目論見からすると、二時間遅れで岬の突端に着いた。

春の靄霞ながら晴天、上々の天気だ。霞む彼方に九州の島影を臨む。岬の灯台は木立の向こうに先端だけを覗かせていた。半島の付け根にあたる八幡浜港から、岬の突端に至るまでの曲りくねった道のりは40~50分であったか。風の強い半島の尾根には、風力発電の風車がそこ此処に立ち、都合二十基程が並んでいた。

                    

佐田岬へは、T君の要望であった。昨年、NHKの番組「小さな旅」で、この岬の集落と小学校が紹介された。全児童20名程の佐田岬小学校の児童が作る俳句に感動したT君が、是非訪れたいと言ったのだ。私たちが訪問した三日前に廃校式が行われたと知ったのは、小さな校庭をぶらつき、写真を撮った後のことである。

             

閉校の整理をしていた先生が声を掛けて下さった。或いは、怪しげなオッサンが校庭をうろついているので心配されたのか?T君が訳を話すと校舎の中まで案内を下さった。つい先日まで使われたいた教室、児童たちの匂いが残っているかの短い廊下。駒澤大学書道部の学生が毎年訪れて書の指導をしてくれるという。

                        

廃校式が行われたと云う講堂には、壁いっぱいの模造紙に「絆」の大文字。その周りには児童たちの言葉が記されている。学校も校庭も、教室も廊下も、未だ生きている。子供たちの息吹が、先生方の思ひがそのままに残っていた。

                        

職員室にお邪魔した時間、丁度地元のローカルTVでこの小学校で行われた廃校式の模様が放映された。7~8名居合わせた先生から「あっ、あの子が、この子が映っている。紅白の幕が有った方が・・・」と、つい先日の廃校式を振り返っていた。

校舎の二階、廊下お窓越しに見える海は瀬戸内の海であろう。穏やかに青く広がり、彼方で空と同化している。もうここには、子供たちの声が響くことも、廊下を駆ける足音を聴くこともない。ただ過ぎ去りし時の残像と、思い出となりゆくばかり・・・。

愛媛県では、今年度15校が廃校となったそうな。来年度は10校が廃校と決まっているとか。地方の、更にその地方の、寂れゆくばかりの現実が、佐田岬にある小さな小学校の姿である。我が故郷の、小さな母校も廃校・統合されて久しい。

 

中山間地域の再生・活性が問われていながら、地域を守り育てるべく、その中核たるべき教育の場が失われては再生も活性もないではないか?と私は思うのだが・・・。そんな思いが苦く胸を過ぎった。

3月28日、午後一時佐田岬小学校を後にして、F氏と合流する高知市へと向かった。

 

 

 

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