オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

長月

2010-09-01 | Weblog

9/1(水)今日から長月となるが暑熱は相も変らずつづいている。昨日、家人の祖母が身罷った。九十七歳、長寿であろうが、我が家の臨月を迎えている長女が予定どおりであれば「やしゃ孫」(玄孫)となり、四代が揃うはずだったが・・・。明日は葬儀の為、越前へ出向く。


昨夜、渋谷「奈加野」の店主より電話が入る。曰く「鮎が届いた、こんか」。「こんか」は土佐言葉で、来ないかの意である。郷里の先輩からの思し召しとならば致し方ない、遅い時間となったが顔を出し、ビールと鮎塩焼きを頂いた。

この鮎、先週郷里の町会議員をしている小松君(私の同級生の弟)が上京したので一席を設けた。その際に盛んに「鮎を送ります」と言っていた。丁重にも御礼の志しであろう。

今朝は碑文谷公園をゆっくりと散策。グランド・池の周りを歩く。
池の名は弁天池というそうな。この池が、立会川の水源とか。また碑文谷は江戸の頃、旗本神谷氏の知行地だったとある。ここらの事は、以前にも何度か読んでいるはずだがすっかり失念している。

池には鯉が泳ぎ、水鳥が遊ぶ。近隣の誰かが放した亀が其処かしこで水面から首を出して餌を待っている。池越えの民家の屋根の上に、上りの東横線の車両を臨む。長閑な朝である。  

公園の樹木の下で目立のを避けるかのように石碑が立っている。傍に寄って見ると「1960年3月15日」の日付、チマチョゴリと着物姿の女性が手を取り合っている姿が彫られている。二人の女性が持った旗には「朝、日友好親善萬歳」とあり、目黒在住朝鮮民主人民共和国 帰国団一同の文字がある。

この碑が作られて五十年、半世紀を迎えたことになるか・・・。夢と希望を胸に海を渡った大半の人が、厳しくも過酷な運命に導かれるとは五十年前に思いもしていないはず。幸せってなんだろうな・・・。

私が敬愛するK大兄の姉君も、彼の国出身の伴侶に寄り添い海を渡ったと聞いている。目に入ったモニュメントを見、さまざまな事に思いが繋がっていった。

 

コメント
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