たまにはぼそっと

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倭姫の美濃からの足どりを推測してみましょうか

2020-02-12 07:57:52 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン
倭姫は美濃のどこに滞在したのでしょうか?

以前紹介した「おばあちゃんがいたところ」に書いた五社神社付近と思うのです。



少し北に行くと、「諏訪神社」があります。

最初、なんで大和朝廷の関係のところに諏訪神社があるのか不思議でした。

でも、このブログで今までに推測してきたように、国譲り神話は出雲ではなく伊勢で、

伊勢津彦=沙本毘古王、なおかつ伊勢津彦=大国主神とするとここに諏訪神社があることの

意味が自然のことと考えられます。

参考までに、伊久良河宮 は、彦坐王が伊勢津彦(=沙本毘古王)と伊勢に向かった時に滞在したところと推測します。

砥鹿神社で伊勢津彦と合流した、朝廷別王(みかどわけのみこ)は、ここで生まれたと思います。

話を戻します。

倭姫の足跡は、愛知県の一宮市にいくつかあります。

とりあえず、神社(緑)、古墳(青)、製鉄と関係のある地名(赤)を地図に書き込みます。



googleマップが張り付けられないので、こちらからご覧ください

これを見て、大江川沿いにいくらかの場所があるようです。紫が今の大江川です。

どうも、倭姫のころから流れがそんなに変わっていないようです。

濱神明社には、「御舟繋ぎ松」と言って、倭姫命の御舟を繋いだ松があったという言い伝えがあります。

倭姫の移動は、船で行われたと考えていいと思います。


一方、赤色で書いた日光川に沿っても色々ありそうですけど、少し流れが変わっているように見えます。

酒見神社、中嶋宮は元伊勢かもしれないと言われます。

さて、それでは倭姫一行は船をどこで調達したのでしょうか?

五社神社付近は、長良川が流れていますので直接一宮に来ることができません。

木曽川の流れまで歩いたと想像します。

その付近の地図を見てみましょう


もう一度こちらから見てください


手力雄神社があります。おそらくすぐ南を木曽川が流れていたと思います。

でも、倭姫の時代にはまだ手力雄神社は無かったのではないかな。

じゃあ、どこで船を調達したのか?

東山道を木曽川の上流に向かって行くと、衣裳塚古墳があります。この古墳はまだ倭姫の時代には

ありませんけど、近くに「一輪山古墳」という円墳があったそうです。4世紀全般のものと推測されています。

時代は、倭姫とピタリ一致します。この埋葬者はどのような人なのでしょうか?

彦坐王と一緒に、丹波もしくは奈良から来た伊福部氏なのでしょうか?

それとも、この地に昔から住んでいた人なのか?

一輪山古墳からは三角縁神獣鏡が出土しているそうです。

はたして、伊福部氏の古墳から三角縁神獣鏡が出るものなのか?

今後の課題にしておきます

時代は不明ですけど、その付近の八木山あたりには伊福部氏が住んでいたようです。

それと、木曽川の対岸には東之宮古墳があります。

おいらの推測ですけど、ここの姫が朝廷別王の妻の可能性が高いと思います。

朝廷別王は、倭姫の母親である、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の弟です。

船を調達するには、このあたりが適当かと思うのです。

そして、そこから木曽川を下って大江川に至ると考えることが川の流れからもすんなり行くのではないでしょうか。

当時の木曽川はどのような流れであったかは、推測出来ませんけど、おそらく何本もの支流があったと

言われます。

東之宮古墳から西に行くと、「山名」と書いて「やな」と呼ぶところがありますけど、その語源は、

「八つの流れ」から来たともいわれます。

今でも、この付近は数本小さな川や、川の痕跡がありますね。

さて、元伊勢と言われる酒見神社、中嶋宮はどうなんだと?

おそらくは、時代が少し下ったころ、手力雄神社もしくはその少し上流の加佐美神社あたりから船を出して

日光川に至る川筋に出来た神社などではないかと推測します。

それと、一つの疑問ですけど、倭姫は伊勢に行きっぱなしだったのか?

伊勢と岐阜を往復していたとは考えられないだろうか?

ならば、酒見神社も、中島宮も通っている可能性があります。

まあこれは完全においらの妄想ですけどね。。。

一宮を大江川沿いに通過した倭姫は、「大御霊神社」に到着します。

以前にも書きましたけど、ここは、朝廷別王の息子が居た可能性が高いのです。

当時すでに住んでいたかどうかはわかりませんけど、滞在するには身内(いとこになるのかな)

ということなので、可能性が高いと思います。

ですから、ここが元伊勢であると推測します。

ここから、さらに南下して二ツ寺神明社古墳を過ぎると、もうそこは海岸だったのでしょう。

津島神社経由で、宇賀神社まで行ったのでしょう。

宇賀神社の近くに多度大社が出来たのは雄略天皇の時代と言われています。

その頃は、伊勢と尾張、美濃の行き来が頻繁に行われていたのでしょう。

最初の方で紹介した「諏訪神社」は、日本海からの翡翠を流通させるための基地だったかもしれません。

そのことについては、これから検討していこうと思います。





















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