愛知県あま市二ツ寺屋敷
この神社にあります
古墳の上に神社があります
向かって左には「風の宮」があります
前方後円墳との説明がありますけど、前方部は別のもので、神社下にある円墳がすべてという説もあるよです。
古墳時代前期の前方後円墳というと祭られているのは誰だろうとわくわくして訪問しましたけど、
その頃の地形を考えると、天皇の血筋の人物がこの場所に住んでいたとは考えにくいのです。
現在でも、標高は低く、説明の看板にも書かれているようにゼロメートル地帯なのです
当時は海岸沿いだった可能性があります。
ちなみに、1m海面を上昇させた画像を見てみましょうか
津島神社はその名の通り、「島」ですね。
この少し西にも、円墳があります。
築山古墳、 愛知県稲沢市込野町元屋敷492−8444
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
麻積冨士社古墳 愛知県稲沢市南麻績町郷前
ここから、津島神社に向かって進むと、奥津社古墳があります。
まだここは、訪問していませんが、3面の三角縁神獣鏡が奉納されているそうです。
ということは、元々この地域に住んでいた人なのか?
それとも、ほかの地で三角縁神獣鏡を彦坐王から賜った人物がこの地に移動したか?
どちらかといえば、後者かと推測します。
この付近、当時はまだ陸地が出来つつある時期で、河川の氾濫があれば家など簡単に流されてしまうでしょう。
そのような場所に人がもともと住んでいたと考えるのは無理があると思います
地図を作製したんで載せてみます
さらに、西に進むと 諸鍬神社そして満成寺(黄色のマーク)があります。
このあたりは、あれこれ車で移動しましたけど、道が狭いので、駐車できず
前を通るだけになってしまいました。まあ、雰囲気はつかめましたけど。
さてそこはどんなところかというと、天保9年(1838年)に古船が出土したそうです
その古船の木片は、現在も残存しているようで、名古屋大学で、C14年代測定がされたとのこと。
材質は、楠の木。 複材刳船の構造を有していたと推測できると言われます。
詳しくはこちら
一部引用してみます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
、天保9年閏4月3日から同5日にかけて、中島郡(正確には海
束郡)の諸桑村の満成寺の裏辺にて、長さ11間2尺程、差口5尺余の大きな楠製の船
発掘、丸木を2つに割って中を則り抜いた船で梁木の穴もあり、「甚だ古代の物」
であるという。この船が発掘された場所からは、同時に銭や素焼の物が掘り出されて
おり、同月8日に再度発掘したところ仏像のごときものを出土したとある。
この発掘された古船は樟製で、史料によってやはり若干差異がみられるが、
およそ長さ60~80尺(約18~24メートル)、巾5~7尺[約1・5~2・]メートル)とい
う非常に大きな船で、前出の石井謙治氏らの研究にしたがえば、門式の複材刳船の構
造を有していたものと推測できる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
時代について、木片の一つは、7~9世紀頃に新旧の各材を利用して造られた船の物
別の木片からは、弥生中期頃に造られた船の物と言われます
これが何を意味するのかは、どうもよくわからないみたいです。
pdfに書かれている図を見ると、300年頃の値が真ん中に来るようです。
でも、古銭が出てきたということはどうなんだろう? 300年頃には古銭はないでしょう。
やはり、7~9世紀頃の船でしょうか?
どうして、埋まっていたのか?
嵐で難破したのでしょうか? でも、木でできているから沈まないですよね。
それならば、地震による津波のせいなのでしょうか?
この神社にあります
古墳の上に神社があります
向かって左には「風の宮」があります
前方後円墳との説明がありますけど、前方部は別のもので、神社下にある円墳がすべてという説もあるよです。
古墳時代前期の前方後円墳というと祭られているのは誰だろうとわくわくして訪問しましたけど、
その頃の地形を考えると、天皇の血筋の人物がこの場所に住んでいたとは考えにくいのです。
現在でも、標高は低く、説明の看板にも書かれているようにゼロメートル地帯なのです
当時は海岸沿いだった可能性があります。
ちなみに、1m海面を上昇させた画像を見てみましょうか
津島神社はその名の通り、「島」ですね。
この少し西にも、円墳があります。
築山古墳、 愛知県稲沢市込野町元屋敷492−8444
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麻積冨士社古墳 愛知県稲沢市南麻績町郷前
ここから、津島神社に向かって進むと、奥津社古墳があります。
まだここは、訪問していませんが、3面の三角縁神獣鏡が奉納されているそうです。
ということは、元々この地域に住んでいた人なのか?
それとも、ほかの地で三角縁神獣鏡を彦坐王から賜った人物がこの地に移動したか?
どちらかといえば、後者かと推測します。
この付近、当時はまだ陸地が出来つつある時期で、河川の氾濫があれば家など簡単に流されてしまうでしょう。
そのような場所に人がもともと住んでいたと考えるのは無理があると思います
地図を作製したんで載せてみます
さらに、西に進むと 諸鍬神社そして満成寺(黄色のマーク)があります。
このあたりは、あれこれ車で移動しましたけど、道が狭いので、駐車できず
前を通るだけになってしまいました。まあ、雰囲気はつかめましたけど。
さてそこはどんなところかというと、天保9年(1838年)に古船が出土したそうです
その古船の木片は、現在も残存しているようで、名古屋大学で、C14年代測定がされたとのこと。
材質は、楠の木。 複材刳船の構造を有していたと推測できると言われます。
詳しくはこちら
一部引用してみます
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、天保9年閏4月3日から同5日にかけて、中島郡(正確には海
束郡)の諸桑村の満成寺の裏辺にて、長さ11間2尺程、差口5尺余の大きな楠製の船
発掘、丸木を2つに割って中を則り抜いた船で梁木の穴もあり、「甚だ古代の物」
であるという。この船が発掘された場所からは、同時に銭や素焼の物が掘り出されて
おり、同月8日に再度発掘したところ仏像のごときものを出土したとある。
この発掘された古船は樟製で、史料によってやはり若干差異がみられるが、
およそ長さ60~80尺(約18~24メートル)、巾5~7尺[約1・5~2・]メートル)とい
う非常に大きな船で、前出の石井謙治氏らの研究にしたがえば、門式の複材刳船の構
造を有していたものと推測できる。
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時代について、木片の一つは、7~9世紀頃に新旧の各材を利用して造られた船の物
別の木片からは、弥生中期頃に造られた船の物と言われます
これが何を意味するのかは、どうもよくわからないみたいです。
pdfに書かれている図を見ると、300年頃の値が真ん中に来るようです。
でも、古銭が出てきたということはどうなんだろう? 300年頃には古銭はないでしょう。
やはり、7~9世紀頃の船でしょうか?
どうして、埋まっていたのか?
嵐で難破したのでしょうか? でも、木でできているから沈まないですよね。
それならば、地震による津波のせいなのでしょうか?
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