およその数字ですけど、推測してみました
こちらを基本にした数字です。
彦坐王=丹波道主としています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/91/037e798263da0c390acffa58c069dda3.jpg)
たったこれだけのものを作るのに、かなり時間がかかってしまいました
しかもきちんとした裏付けがあるわけでもないしね
以前、倭姫は何歳では、282年生まれと書いていますけど、もう少し遅いと思われます
286年と変更しました。そうすると、16~17歳ぐらいに伊勢に行ったことになります。
まあ、大きな外れはないと考えます
でも、この中で一つだけ矛盾するものがあります
それは、「沙本毘売命 第11代垂仁天皇の后となる 292年」と言う所です
記紀では、垂仁天皇2年2月9日立后とあります
でも、彦坐王の子たちの年代から考えると、年齢が合わないのです
沙本毘売命は、垂仁天皇5年10月に亡くなっています。
その後、比婆須比売命が、垂仁天皇の后になっていることからも時代がおかしいのです。
おそらく、「沙本毘売命」という人物は架空の人と思います。
「沙本毘古王 謀反を起こす」と書きましたけど、こちらの方の説明がよくわかると思います
物語の内容を考えても、明らかに事実ではないなと皆さん思われるのではないでしょうか
したがって、「誉津別命」という人物も、架空の人でしょう。
それから、矛盾ではないのですけど、袁祁都比売命(オケツヒメノミコト)の足跡が全く分からないのです
しかも、彦坐王の母親の妹なんですよ?ほんとうかよ?
神功皇后の血筋なので、それに関係すると思われますけど、ここでは取り上げません。あしからず・・・
彦坐王の最初の妻である、「山代之荏名津比売」の「山代」は、
「山城」ではないかという説があり、その場所は「山城国」とすると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/bf/be6df6588f4e166c511a169e3d9f9d31.jpg)
赤いところがその場所です。京都ですね
そして、次の妻の沙本之大闇見戸売の親は、大和盆地北部の豪族です
その次の息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親は、天之御影命(天目一箇神)
御上神社の祭神です
最後は、丹波之河上之摩須郎女(たにわのかわかみのますのいらつめ)
倭姫のおばあちゃんです。
衆良神社 おいら、ここへは、まだ行っていません。
祭神は、父親の河上摩須
彦坐王が、四道将軍として丹波に遠征に来た時、妻になっています
水石亭主さんのブログにはその時の彦坐王の館の場所まで特定されています。
その場所が、元伊勢与佐宮つまり外宮の故郷ですね。
一般には、籠神社が、元伊勢与佐宮と言われていますけど・・・
まあ、ここではそれには触れません
さて、これまでの中で、息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親が祭神の
御神神社のレイラインを調べたら、驚きましたね。
最初は、偶然なのかと思い取り上げもしなかったのですけど、
では、見てみましょうか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/47/6dfc1e27753c8e11ddee15fa3575f2b0.jpg)
夏至の日没
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4c/f0f6c175ea67ad9a3fda13c6008f48d5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/59/3995d179e7a984c9446a2f1c8aaeb0dc.jpg)
数10mぐらいの誤差はありましたけれど、そもそも、
どこを起点にしたかもわからないので問題ないでしょう。
距離を測ったら、115km。
これが偶然でなければ、息長水依比賣と丹波之河上之摩須郎女は、姉妹もしくは、従妹の可能性が出てきます。
そうなると、今までわからなかったことがスッキリします。
たとえば、奈良で鏡を作っていた人たちの一部は、息長水依比賣と一緒にやってきた製鉄の技術者
もしかすると、丹波に居た伊福部氏の可能性があると思います
そして、丹波之河上之摩須郎女の居た丹波に玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という集団が
侵略してきたので、奈良の伊福部に助けを求めた。それが、彦坐王の四道将軍としての
丹波への遠征かもしれない・・・何の証拠もないですけどね。
もう一つ、妄想をすると、彦坐王の集団は、奈良には、山代之荏名津比売とその子が残り
沙本之大闇見戸売、息長水依比賣、丹波之河上之摩須郎女とその子たちと、一緒に居た兵
技術者などが、琵琶湖周辺、大垣の金生山周辺、そして岐阜に移動しています。
御上神社は、その移動の途中に出来たのかもしれません。
移動部隊の中には、レイラインの技術者がいたということは確実と思います。
次は、誰が伊勢に行ったのかを推理します。
こちらを基本にした数字です。
彦坐王=丹波道主としています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/91/037e798263da0c390acffa58c069dda3.jpg)
たったこれだけのものを作るのに、かなり時間がかかってしまいました
しかもきちんとした裏付けがあるわけでもないしね
以前、倭姫は何歳では、282年生まれと書いていますけど、もう少し遅いと思われます
286年と変更しました。そうすると、16~17歳ぐらいに伊勢に行ったことになります。
まあ、大きな外れはないと考えます
でも、この中で一つだけ矛盾するものがあります
それは、「沙本毘売命 第11代垂仁天皇の后となる 292年」と言う所です
記紀では、垂仁天皇2年2月9日立后とあります
でも、彦坐王の子たちの年代から考えると、年齢が合わないのです
沙本毘売命は、垂仁天皇5年10月に亡くなっています。
その後、比婆須比売命が、垂仁天皇の后になっていることからも時代がおかしいのです。
おそらく、「沙本毘売命」という人物は架空の人と思います。
「沙本毘古王 謀反を起こす」と書きましたけど、こちらの方の説明がよくわかると思います
物語の内容を考えても、明らかに事実ではないなと皆さん思われるのではないでしょうか
したがって、「誉津別命」という人物も、架空の人でしょう。
それから、矛盾ではないのですけど、袁祁都比売命(オケツヒメノミコト)の足跡が全く分からないのです
しかも、彦坐王の母親の妹なんですよ?ほんとうかよ?
神功皇后の血筋なので、それに関係すると思われますけど、ここでは取り上げません。あしからず・・・
彦坐王の最初の妻である、「山代之荏名津比売」の「山代」は、
「山城」ではないかという説があり、その場所は「山城国」とすると
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/bf/be6df6588f4e166c511a169e3d9f9d31.jpg)
赤いところがその場所です。京都ですね
そして、次の妻の沙本之大闇見戸売の親は、大和盆地北部の豪族です
その次の息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親は、天之御影命(天目一箇神)
御上神社の祭神です
最後は、丹波之河上之摩須郎女(たにわのかわかみのますのいらつめ)
倭姫のおばあちゃんです。
衆良神社 おいら、ここへは、まだ行っていません。
祭神は、父親の河上摩須
彦坐王が、四道将軍として丹波に遠征に来た時、妻になっています
水石亭主さんのブログにはその時の彦坐王の館の場所まで特定されています。
その場所が、元伊勢与佐宮つまり外宮の故郷ですね。
一般には、籠神社が、元伊勢与佐宮と言われていますけど・・・
まあ、ここではそれには触れません
さて、これまでの中で、息長水依比賣(おきながのみずよりひめ)の父親が祭神の
御神神社のレイラインを調べたら、驚きましたね。
最初は、偶然なのかと思い取り上げもしなかったのですけど、
では、見てみましょうか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/47/6dfc1e27753c8e11ddee15fa3575f2b0.jpg)
夏至の日没
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4c/f0f6c175ea67ad9a3fda13c6008f48d5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/59/3995d179e7a984c9446a2f1c8aaeb0dc.jpg)
数10mぐらいの誤差はありましたけれど、そもそも、
どこを起点にしたかもわからないので問題ないでしょう。
距離を測ったら、115km。
これが偶然でなければ、息長水依比賣と丹波之河上之摩須郎女は、姉妹もしくは、従妹の可能性が出てきます。
そうなると、今までわからなかったことがスッキリします。
たとえば、奈良で鏡を作っていた人たちの一部は、息長水依比賣と一緒にやってきた製鉄の技術者
もしかすると、丹波に居た伊福部氏の可能性があると思います
そして、丹波之河上之摩須郎女の居た丹波に玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という集団が
侵略してきたので、奈良の伊福部に助けを求めた。それが、彦坐王の四道将軍としての
丹波への遠征かもしれない・・・何の証拠もないですけどね。
もう一つ、妄想をすると、彦坐王の集団は、奈良には、山代之荏名津比売とその子が残り
沙本之大闇見戸売、息長水依比賣、丹波之河上之摩須郎女とその子たちと、一緒に居た兵
技術者などが、琵琶湖周辺、大垣の金生山周辺、そして岐阜に移動しています。
御上神社は、その移動の途中に出来たのかもしれません。
移動部隊の中には、レイラインの技術者がいたということは確実と思います。
次は、誰が伊勢に行ったのかを推理します。
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