たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

丹後半島のレイライン その 29 倭姫

2021-10-11 06:06:06 | レイライン
レイラインが分かると、今までわからなかったことの裏付けがある程度できるので面白いです。

そこから、現在ある情報と照らし合わせ考えているつもりです。

倭姫についてのレイラインで、今わかっているのは、坂田神明宮からですけど、それについても

現在言われているような「2年間奉斎した」ということは無いと思います。

それについては、今後説明していきたいと思います。


倭姫の、それ以前からの動きを考えてみたいと思います。

まず、生まれたのは、280~285年頃と推測します。283年にしましょうか。

母親は、サタヒコの姉のヒバスヒメ、父親は垂仁天皇です。

崇神天皇は、彦坐王が亡くなった弱みに付け入り、伊勢津彦を伊勢から追い出し、

ヒバスヒメを人質として奈良に連れて行ったと推測します。

しかし、以前にも書きましたけど、ヒバスヒメは聡明な人で、上手に垂仁天皇を操り

子の景行天皇、倭姫を彦坐王ファミリーに敵対心を抱かないように教育していたようです。


話を倭姫に戻します。

295年頃に奈良を出発しています。12歳ぐらいです。

日本書紀などでは各地を旅することになっていますけど、おいらが思うには、

奈良から直接「比沼麻奈為神社」に行ったと思います。

そこで、サタヒコそして、アメノウズメと一緒に暮らしていたのでしょう。

月の輪田でもわかるように、アメノウズメは、二人にすごく、かわいがられていたと思います。

何のために奈良から来たのか?

大国主とサタヒコの作った奈良の包囲網を解くための人質かもしれません。

もしかすると、大国主の妻になるとの約束があったかもしれません。(妄想です)

しかし、大国主はこの時45歳ぐらい。倭姫はまだ12歳。どう考えても無理だわなぁ。


それはさておき、アメノウズメ(丹波能阿治佐波毘売は、迦邇米雷王を生んだ後に

亡くなってしまいます。(295~300年の間くらい。)

サタヒコは、追悼のため籠神社を建て、そこに迦邇米雷王と共に移り住みます。倭姫も一緒でしょう。

さらに、300年頃には、大国主(サホヒコ、伊勢津彦)が亡くなります。50歳ぐらいでしょう。


ここからは、完全に妄想ですのでよろしく。
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サタヒコは、大きな鏡を作らせてそれを携えて、倭姫と共に出雲に行きます。

倭姫は巫女ですので、大国主の御霊をコピーして鏡に移します。(もう少しいい表現があるかもしれませんけど思いつかない)

その鏡と共に、籠神社に帰りそれを伊勢に祀る計画を立てます。

302年に伊勢に向かって出かけます。


飯野高宮神山神社に鏡、そして、丹波能阿治佐波毘売を祀ります。

304年に飯野高宮神山神社からの冬至の日の出のラインに内宮を建て鏡を祀ります。





同時に外宮を建て、そこに「丹波能阿治佐波毘売」を祀ります。

天照大神=伊勢津彦=サホヒコ=大国主になります。

豊受大神=丹波能阿治佐波毘売=アメノウズメになります。

これならば、サタヒコが伊勢に行った理由がピタリとはまります。

伊勢津彦の魂を伊勢に連れて帰ったのでしょう。

ですから、内宮も外宮もすんなり建てることが出来たと思います。

(伊勢津彦は伊勢の人には好かれていたのでしょう。)

そしてサタヒコはその地に、妻であった丹波能阿治佐波毘売も祀ったことになります。

倭姫の御陵は、外宮の御食殿の春分の日の、日の出のラインがある場所です。


この御食殿に、丹波能阿治佐波毘売が祀られていたのではないでしょうか。


さらに、御陵からの夏至の日の入りのラインには、斎宮の竹神社跡があります。


これが何を意味するのか分かりませんけど、伊勢津彦が最初にいたのはこの付近でしょう。















コメント
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