たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

石座神社

2019-05-07 07:02:06 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、東三河一帯を支配したとされます。

ということは、猿投神社から三河の本宮山へ向かったのではないでしょうか。

前にも書きましたけど、「本宮山」という名前は犬山市にある大縣神社の「本宮山」と

同じ名前であることから

朝廷別王が、三河に来たことはかなり確率が高いと思います。

でも、その足跡がなかなかわからないのです。

今までのようにそれらしき神社が見当たらないのです。

どのようなルートを通ったか推測してみます。


猿投神社の南東に御船町と言う所があります。

もしかすると、そこで船を作って矢作川を下ったのかもしれません。



そして、岡崎から乙川を上り夏山川、男川(川の名前が代わっていきます)とさらに上り、

くらがり渓谷にたどり着きます。

その、くらがり渓谷を登りきったところが、本宮山山頂です。

そこには、砥鹿神社(奧宮)と、岩戸神社 奥の院があります。

当時、三河に行く道はまだなかったと考えます。

ですから、川沿いに進んだと考えるのが正解なのじゃないかな。

その川沿いにも、いろいろな遺跡があり、当時でも人が暮らしていたようです。


朝廷別王が率いる部隊は、そのような場所を通らなければいけないので、現地の人との摩擦を避け

川を遡っていったのでしょう。

どれくらいの時間をかけたのだろう?

ゆっくりならば、足跡として神社が作られると思いますけど、その痕跡が見当たらないのです。

単においらが探せないだけかもしれませんけど・・・

その中で、唯一それらしき神社がありました。

石座神社(いわくらじんじゃ)です。(愛知県岡崎市石原町宮ノ入3)




主祭神は火明之命








巨木も魅力的です







さらに、奥にも社があります。



階段を登ります




神紋なのでしょうか?十六菊かな?











矢作川からここまではおよそ25km。

頑張れば、一日で、移動できる距離です。

途中、中継基地らしき神社もありますけど、決定的な理由が見当たらないのでパスしました。


朝廷別王が率いる部隊は、ここの磐座神社を中継基地にして

本宮山に向かったと考えて良いのではないでしょうか。

何かある理由があって、急いでいるようにも感じられます。

レイラインについてですけど、現時点では、三河で見つけることができません。

おいらの能力不足かもしれませんけど・・・

それとも、レイラインを測量できる技術者が同伴していないか、時間がなかったということが

考えられます。



おいらは、この先、くらがり渓谷を歩いて登る元気も気力もありません・・・

本宮山には、本宮山スカイラインというすばらしい道があるので、

そちらから頂上に向かいたいと思います。

山登りは、こうでなくっちゃね!
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氷上姉子神社

2019-04-12 07:43:26 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン





祭神 宮簀媛命(みやずひめのみこと)

熱田神宮の創祀以前に草薙剣(三種の神器の1つ)が奉斎されたところと言われます



宮簀媛命とは誰なのか?これがわからないんです。

日本武尊の妃で、建稲種命の妹といわれます。

とりあえず、ウィキペディアをリンクしておきます



東谷山の尾張戸神社は、第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたと言われます

ですから、宮簀媛命は、彦坐王の後裔であることは間違いないのでしょう。

それと、兄の建稲種命の妻である玉姫は、おそらく朝廷別王の娘もしくは、孫と考えます。




元宮は、現在の神社の南側道路を挟んで反対側にあります


このあたりです


ほんの、数分で到着です





さて、レイラインです



元宮から夏至の日の出の方向






猿投神社です。


これも驚きましたね

これをどう考えるのか?わかりません・・・








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猿投神社 西の宮

2019-04-11 06:40:13 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン



東の宮を出てから、直接、西の宮に行く道があるようなので、そこを通ろうとしたのですけど

なぜか、通り過ぎました・・・

おいらの前をきれいな女性が歩いていたので、見とれてしまったのかも・・・



結局、東の宮入り口まで来てしまったので、そこから西の宮を目指します。

登山コースについては、こちらの方の書かれたものが非常にわかりやすいので、参考になります





到着



こちらは、人がほとんどいない!

なんで?

途中すれ違ったのは、ひとりだけ。

ここから、急な坂を登ります


到着です

ここにも、本殿の前に四角い場所があります。

でも、ここはレイラインの目的の場所ではありません。

おっと、その前にレイラインを見なければいけませんね。



驚きですね

夏至の日没のラインを白鳥塚古墳を通るように調整します




すると、きちんと深川神社も通ります



そして、計測地は



大碓命(オオウスノミコト)の墓とされる場所の前です



この画像を撮った地点付近だと思います

周りに木がなければ、目視で深川神社が確認できるかもしれません。



大碓命は、第12代景行天皇の息子ということになっていますので、時代が朝廷別王(みかどわけのみこ)

の、二世代後の人です。

ですから、このレイラインを計測した時点では、大碓命の墓はなかったことになります。

大碓命という人物も実在かどうかわかりませんけどね。

でも、猿投神社の主祭神(諸説あり)になっています。





とにかく、この猿投山は謎の多い場所です。

でも、このレイラインは、彦坐王の息子であった朝廷別王が、

この地を開拓したと考えていい証拠ではないでしょうか。




西の宮で、コンビニで買ったおにぎりで、遅い昼食を済ませ、その後、入り口まで戻ります。



残念ながら、お会いできませんでした・・・

同じ道を帰るのも退屈なので、さらに、南に行き猿投山を一周するように進みます。

途中、山神様が祭ってありました



何かあった場所なのでしょうか?


もうだいぶ疲れているので、寄り道は無しで猿投神社を目指します。



いろいろと、滝があるようです



ほとんど、人は居ないです

なぜなんだろうね?

駐車場が無いせいかもしれませんね。

  
到着~♪



この門を通ったのは、初めてです。

参道も長いです。


さすがに疲れました。かなり遠回りをしたので、17kmぐらいは歩いたでしょう。

毎日、5kmぐらいは歩くので苦にはなりませんけど、休日はやはり体を休ませたいです・・・

もう行かないぞ!

でも、ここは、きれいな女性が多いよねぇ・・・



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猿投神社東の宮

2019-04-08 11:11:55 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

本当は、行きたくないけど、暖かくなってきたのでしょうがなく出かけてみます・・・へへ;



近くの駐車場は、満車だろうなと思ったけどとりあえず行ってみます。

やはり満車。

遠くの駐車場に行ってもかなり車がありました。

午前11時出発!



近くの駐車場にあった案内図

水車があるそうな


途中、車止めるスペースは少しですけどありました。

でも、道が細いのですれ違いが難しいと思います。



歩くこと1時間

東の宮入り口です


なかなか、勾配の急なところが多いですね。

それでも、人が多い!

かなりの高齢の方も登っておられる

それに、女性の方も多い!

年齢も、若い方からお年寄りまでいろいろ。

トレイルランニングと言うのでしょうか?

そうした人も多いです。


到着です


東の宮


祭神はわかりません

隣にも



さて、もう一度地図を見てみましょう




矢印の場所はどこになるのでしょう?



神社の前に四角い場所があります




なんでしょう?

矢印の場所は、このあたりですね



神社側から見ると


木が視界を遮って、大目神社が目視できるかわかりません。

ギリギリ見えるかもしれませんね。

この四角い場所は何でしょう?

以前は、ここに本殿があったのでしょうか?

とにかく、この場所から夏至の日の入りを計測したのでしょう。

相変わらず、すごい精度です。

おそらく、この場所が猿投山での最初に落ち着いたところと思われます。




かなり坂道を登ったので、これで帰ろうかと思いましたけど、頂上まで800mとあります。

しょうがないので・・・行きますか・・・へへ;








さて、せっかくだから、西の宮にも行きましょうか。

つづく・・・です。
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大目神社(おおまじんじゃ)

2019-04-07 10:42:49 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


さて、深川神社から猿投山にどういうルートで行ったのか?

どこかに神社がないかと探したら、大目神社と言う所がありました。

とりあえず、出かけてみました







祭神は、

天忍穂美美命、天乃菩日命、天津日子根命、活津日子根命、熊乃久須毘命、多岐理姫命

一寸島姫命、多岐都姫命。

アマテラスとスサノオとの間で交わされた誓約で生まれた五男三女神です。

これは、深川神社と同じですね。

ということは、ここも国津神は追いやられ、天津神が崇められるようになったのでしょうか。

8世紀後半のことですので、それまでは、彦坐王ファミリーの後裔が

この地をおさめていたのでしょうね。

天井には


藤四郎神社


藤四郎とは?おいら、焼き物のことはさっぱりです・・・




さて、本殿の裏に行くと、



これって、古墳?



どうもそのようです。

円墳が削られているようです。

大和朝廷が来た時に削られたのでしょうか?

発掘はされていないので、すべて謎です。


レイラインはというと、驚きますよ。


これは、古墳の上を通るように調整しました。


そして


どこだと思います?


猿投神社東之宮からです。


でも、よく見ると東之宮よりすこしずれてますね

といっても、数メートルですけど

誤差の範囲なのでしょうか?

これは、現地に行ってたしかめるほかありませんね・・・

調べると、麓からかなり距離がある。猿投山標高629m・・・往復5時間?

行きたくない・・・










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深川神社

2019-04-04 07:24:35 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン


深川神社



愛知県瀬戸市深川町11番地









こちらは、奥の宮稲荷社



この鳥居の左側が古墳だったかと思います・・・詳しく見るの忘れました・・・





さて、朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、五社大明神社あたりから、水野川をさかのぼったと思います。



実際に、水野川に沿って川上に行ってきました。

途中、「道の駅 瀬戸しなの」あたりで分からなくなってしまいましたけど、地図を見るとその東側に深川神社付近へと流れる川があるので

おそらくは、そのような道筋を移動したのでしょう。




深川神社のHPより引用

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、

宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。

これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。

このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この国津神こそが、朝廷別王 (みかどわけのみこ)の関係する人々の後裔と思います。

ちなみに、天津神とは、天照大神などがいる高天原の神のこと。

大和朝廷に乗っ取られてしまったのですね・・・

ということは、彦坐王ファミリーは、大和朝廷ではないということになりますね。

彦坐王のことをいろいろ調べていくと、彼は、伊勢、美濃、尾張で囲む伊勢湾の地域を一つの国にしようとしていた

そんなふうに、感じます。

地理的に見ても、今までここで紹介してきた神社で、山頂にあるところはそれぞれ、

かなりのところが互いに目視できるのではないでしょうか。

もしかすると、狼煙とか、音とかで連絡を取っていたのではないかとも想像します。

それと、彦坐王は、この地において争いを起こしたという話が全く出てきません。

むしろ、婚姻によって関係を作っていくという方法で地域に溶け込んでいるようです。

金生山(岐阜県大垣市)、そして春日井付近で採れる「鉄」を利用することで、

さらに地域に根付いていったと考えられます。

伊勢で採れる朱(辰砂)も、その役目を持っていたのかもしれません。





伊勢湾を囲む彦坐王ファミリーの主な場所の地図です


地図を載せたいのですけど、google地図のマイマップはどうやっても載せられないので、

リンクしておきました。


さて、レイラインです

深川神社から



これを見たときは、「やった」と思いましたね。

白鳥塚古墳直撃!



こんな感じです


この事から、この深川神社は当時、重要な場所だったと推測されます。

もしかすると、朝廷別王は大縣神社を息子に譲り、自分はここに住んでいたのかもしれませんね。

でも、まだここから猿投神社に進んだようです。




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朝廷別王 (みかどわけのみこ)

2019-03-22 07:59:58 | 美濃、尾張、三河の神社とレイライン

父親は、もちろん彦坐王。

母親は、丹波之河上之摩須郞女 (たにはのかわかみのますのいらつめ)

 ちなみに、いらつめとは、若い女子を親しんでいう称のこと

ここでは、丹波之河上之摩須の娘ということでしょう。

丹波から、岐阜まで彦坐王の妻としてはるばるやってきています。

方県津神社に祭られています

その子たちは次の4人です


比婆須比売命 (ひばすひめのみこと)垂仁天皇の皇后

真砥野姫命 (まとぬひめのみこと)

弟比売命 (おとひめのみこと)

朝廷別王 (みかどわけのみこ)




朝廷別王 は、大縣神社の初代と考えます

奥さんは誰だろう?

一番可能性として高いのは、東之宮古墳に祭られている人の娘では?



東之宮古墳についてはこちら

この古墳は、前方後方墳なので、瑞龍寺山頂古墳

と同様、古くからのこの地方をおさめた人と思います。



ウィキペディアを見ると、朝廷別王は以下のように書かれています

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
穂国造(ほのくにのみやつこ・ほのこくぞう)は、古墳時代に宝飯郡に置かれ東三河一帯を支配した

ヤマト政権の地方官(国造)である。

ただしその実態に定説はない。この「国」は令制以前の国造国を指し、後の令制国とは異なる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

父である彦坐王は、東谷山の対岸にある、五社大明神社( 愛知県春日井市高座町1939)

に住んでいたと思います。



訪問したことがあるのですけど、画像が見つからない・・・

この付近、褐鉄鉱が取れるようです。

当時、褐鉄鉱から製鉄したのかそれとも、すず鉄からなのかはわかりませんけど、

製鉄をしていたのは確かと思います。

祭神に天目一箇神(天之御影命)があり、これは、製鉄・鍛冶の神です。

大縣神社にも祭られていました


大縣神社の西にある青塚古墳から見た冬至の日の出は、その五社神社のある高座山頂上付近を通ります。

ただ、これも少し誤差があります。



目視で場所を決めたのでしょうか?それとも、ほかの場所を示しているのでしょうか?

青塚古墳が誰の墓なのかはわかりませんけど、彦坐王と関係があることは確かでしょう。


朝廷別王が、三河の祖ということならば、ここから三河の宝飯郡に行ったことになります。

その先は、三河國一之宮 砥鹿神社(奧宮)ではないでしょうか?

山の名前も、大縣神社のある、「本宮山」と同じなので、朝廷別王が、砥鹿神社まで遠征した

ことは、かなり確立が高いと思います。




おそらく、その途中に滞在した場所には、猿投神社があると思います。




その他にも、いくつかの場所があるようです。

現時点では、まだ、猿投神社の山頂にはまだ行っていません。

寒いからねぇ・・・

まあそのうち、行きたいと・・・かなりきつそう・・・

さて、どうなるのやら。。。

また、それらの場所にもいろいろレイラインがあります。

順次、ご紹介していきます。
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