朝廷別王 (みかどわけのみこ)は、東三河一帯を支配したとされます。
ということは、猿投神社から三河の本宮山へ向かったのではないでしょうか。
前にも書きましたけど、「本宮山」という名前は犬山市にある大縣神社の「本宮山」と
同じ名前であることから
朝廷別王が、三河に来たことはかなり確率が高いと思います。
でも、その足跡がなかなかわからないのです。
今までのようにそれらしき神社が見当たらないのです。
どのようなルートを通ったか推測してみます。
猿投神社の南東に御船町と言う所があります。
もしかすると、そこで船を作って矢作川を下ったのかもしれません。
そして、岡崎から乙川を上り夏山川、男川(川の名前が代わっていきます)とさらに上り、
くらがり渓谷にたどり着きます。
その、くらがり渓谷を登りきったところが、本宮山山頂です。
そこには、砥鹿神社(奧宮)と、岩戸神社 奥の院があります。
当時、三河に行く道はまだなかったと考えます。
ですから、川沿いに進んだと考えるのが正解なのじゃないかな。
その川沿いにも、いろいろな遺跡があり、当時でも人が暮らしていたようです。
朝廷別王が率いる部隊は、そのような場所を通らなければいけないので、現地の人との摩擦を避け
川を遡っていったのでしょう。
どれくらいの時間をかけたのだろう?
ゆっくりならば、足跡として神社が作られると思いますけど、その痕跡が見当たらないのです。
単においらが探せないだけかもしれませんけど・・・
その中で、唯一それらしき神社がありました。
石座神社(いわくらじんじゃ)です。(愛知県岡崎市石原町宮ノ入3)
主祭神は火明之命
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/c4/3025d2a22f25db896896cd92cb621188.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/a6/01f2f6c7c4d21618580c004cebdeaecb.jpg)
巨木も魅力的です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/86/8a2202cadc3d56cd9151dc84a3b107b2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/b6/e40f54b06d57542539d4d4745412a9e5.jpg)
さらに、奥にも社があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/19/5e49f7a050354db57e67dacc246c6387.jpg)
階段を登ります
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/0d/f48bcb0d6b979af2af0047028d54d1c9.jpg)
神紋なのでしょうか?十六菊かな?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/ca/3f4fa6d16292666c6b8a45a1b4de425f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/c6/9f2ff1c913a0a04adeba1aca9efa2630.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/8c/77e519b45cb72f8ce177b6c68066ae68.jpg)
矢作川からここまではおよそ25km。
頑張れば、一日で、移動できる距離です。
途中、中継基地らしき神社もありますけど、決定的な理由が見当たらないのでパスしました。
朝廷別王が率いる部隊は、ここの磐座神社を中継基地にして
本宮山に向かったと考えて良いのではないでしょうか。
何かある理由があって、急いでいるようにも感じられます。
レイラインについてですけど、現時点では、三河で見つけることができません。
おいらの能力不足かもしれませんけど・・・
それとも、レイラインを測量できる技術者が同伴していないか、時間がなかったということが
考えられます。
おいらは、この先、くらがり渓谷を歩いて登る元気も気力もありません・・・
本宮山には、本宮山スカイラインというすばらしい道があるので、
そちらから頂上に向かいたいと思います。
山登りは、こうでなくっちゃね!