年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

紅葉の中で

2016-11-20 00:00:00 | Weblog
  色づく木々の中でフト思うことがある。
 つい半年前に見たこれらの木々は浅緑、薄緑の新緑であったものがもうすぐすればすべて葉っぱを捨て去り真っ裸になることの自然の営み、移ろいのことである。

 多くの人は4月の新緑に春の目覚めを映しこみ、5月に嗤う山を見ながら近づく夏の気配を想う。そして木々の生い茂る葉っぱの影を求める夏が来れば、心地よく吹く風による葉擦れの音を聴くときに一瞬の涼を身体よりも頭のほうが求めてしまう。



 この夏に亡くなられた秋田の農民詩人・むのたけじさんは朝日と夕日の違いについて「詞集たいまつ」のなかで、朝陽は真っ直ぐな直線の光で射るようにやって来る。そして夕陽はボンヤリ柔らかく周りを温かくする光り。確かそのような違いを言われていた。
 昨日は弟と父親が眠るお墓に参った。そこから見る瀬戸内海の夕日は西の空全てを朱く染めることは自分の小さな時からのいつもの風景であった。この場所で同じこの光景を見ている宗教学者の山折哲夫さんは、ここは浄土だと話していたのを講演で耳にした。

 と・・すると夕陽の落ちる海ではなく、紅葉する山の時期も。これも浄土かもしれない。見るものをぼんやりと温かくするような。夕陽が海の下に落ちてもしばらくは西の空は赤く染まったまま、でも朱く染まる紅葉は落ちると木々の骨格をさらけ出す。恥ずかしくもなくおのれの裸の姿を現す、だからなんだろうか、夕陽を見る人は沈黙ししばし見入る、対して紅葉は、たいていの人は感嘆符をつけ喋る。そのような違いを想う。もうすぐ真っ裸にさらけ出される木の真実の姿を見る前の興奮だろうか・・・。

 奥さんは、今夜東予港からフェリーに乗り東花園のケアハウスに居る母親に会いに行った。