暘州通信

日本の山車

◆高麗人参(朝鮮人参) 

2011年02月26日 | 日本の山車 左甚五郎
◆高麗人参(朝鮮人参) 
 旅を重ねて常陸の國についた左甚五郎、ひとりの子供が眼を真っ赤にしてうなだれているのを見かけた。甚五郎は子供に近づくとやさしく声を掛けた。「悪さをして、お父っつあんにでも叱られたかい?」。子供はかすかにいやいやをした。「ふーん、どうしたのかな?」
 少年は聞かれるままに、ポツリポツリと話し始めた。
 なんでも父親は早くに世を去り、母親が細腕で子供を育てていたが、長年の苦労が重なり、ついに病床に伏すことになった。ここ数日はさらに元気が無く、気力も衰え、子供が作った重湯すら喉を通らぬらしい。そこで、今日は医者に診てもらったところ、よく保って今月一杯の命だろうと言われたと言う。「何とかおっ母あを助けて……」と頼んだが、医者は、高麗にある朝鮮人参を煎じて飲ませれば、あるいは助かるかもしれんが、手にいれる手段があるまい、不憫にのうと言い聞かせたと言うことだった。
 「飛騨の山奥には、高麗人参があると聞いたことがあるが、たとえ、飛騨に行っても探しだせるかどうかな……?」。
 これを聞いていた左甚五郎、子供に言い聞かせた。「おじさんがその高麗人参を手に入れてあげよう。でもひとつ約束をしてくれるかな。ここで見たこと聞いたことは今後人には話さないことだ。いいかな?」
 子供はこっくりうなづき、「うん、約束する」と言った。
 甚五郎と子供は山道を戻ると子供に目隠しをし、抱きかかえると、黄色の鶴(黄鶴)を呼び出し、ひととびに飛騨の山中に到った。そこで、黄鶴の背中からおりた甚五郎と少年は、瀧に沿った山道を登り、清流のほとりに生えている高麗人参(竹節人参)を三株掘り起こし、これを持ってふたたび常陸に戻ってきたのだった。早速綺麗に水洗いし、三日陰乾ししたあと、土瓶に入れて水を張り、三時間あまり煎じたものを、少しづつ母親に飲ませると、夕方にはようやく声も出るようになり、「ありがとうございます」とお礼を述べるのだった。少年お喜びようは一通りではない。
 それから七日もたつと、ようやく床の上に起き上がることができるようになったのだった。
 甚五郎は上下が赤と黒に染め分けられた種子を取り出すと、子供に、これを播いて育てなさいと言って立ち去った。
 子供は長じてから江戸に出て、「赤髭」とよばれる名医になったが、甚五郎との約束は生涯守りとおしたという。




◆かぐや姫の山車

2011年02月26日 | 日本の山車 左甚五郎
◆かぐや姫の山車
 左甚五郎は、下野の國を旅していたときある町で、山車の彫刻を頼まれたが、題が『日本昔ばなし かぐや姫』だと告げられて、たいへん悲しそうな表情になり、注文を固辞して立ち去ったと言う。組内では仕方なく別の彫刻師に頼んで彫刻してもらったのだが、祭礼の前日に落雷があり、山車は一度も曳かれることなく炎上してしまった。
 この話がいつとはなく各地に広がり、山車を作るときは「かぐや姫」を避けるようになった。
 江戸時代、飛騨高山の国学者田中大秀は、その話を聞いてたいそう不思議に思い、多くの文献を渉猟して解明に当たったが、ついにその原因はわからなかったと言う。近年のことは不明であるが、江戸時代に建造された山車には「かぐや姫」にゆかりのある山車は無いらしい。
 田中大秀はこれが機縁になって、名著と言われる『竹取物語 解』を著述した。