暘州通信

日本の山車

◆左甚五郎 陸前の観音 二

2011年02月25日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 陸前の観音 二
 「そのお嬢様と言うのが先ほどまでここでわたしと話していたあの娘さ、可愛い姪じゃが、どうにもならん。田畑、山林などかなりの財産もあったのじゃけれど、いまはそれも七年のあいだにすべて売り払ってしまって、今はもう何も残っておらん。可愛そうに母親は心労で旦那のあとを追い、娘は縁談も流れ、いよいよ女郎に身売りするしかないと言って別れを言いにきたとこさ」。
 「ああ助かった」と言って喜んだ農民らは、慰めの言葉を掛けるところか寄り付きもせず、たまにみちであっても顔を背けて通るという浅ましさ。
 左甚五郎は眼に涙を浮かべて聞いていたが、聞き終わると姐さんに言った。
 「それは気のどくにのう、せめてわしが供養に観世音菩薩を彫刻してあげよう、いや、わしは飛騨高山の左甚五郎というもんじゃ」と名乗ったから茶店の姐さんは飛び上がるほど吃驚した。「わ、わ、わたしが娘の、い、い。家まで案内します」
 数日して、観世音菩薩が彫りあがった。姉、弟、茶店の姐さん、それに甚五郎の四人で、非業の死を遂げた夫妻の七回忌の法要を勤めることになった。左甚五郎の彫り上げた観世音菩薩をまえに。位牌をならべ、しめやかに法要は進んだが、娘が焼香し、鈴をたたき手を合わせ、ふと観音さまを見上げると、観世音菩薩はにっこりと微笑まれたのだった。次に弟が手を合わせると、やはり、にっこりとお笑いになる。茶店の御姐さんはその霊験に恐れ入ってしまった。
 このようなうわさが広がるのは早い、話を聞きつけた近在の人々が仏への供養志をつつんで尾舞藺するようになった、これがやがて、ご領主様の耳にも入り、御参りに来られることにませなった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿