暘州通信

日本の山車

◆03117 山鹿須賀神社祭

2011年02月01日 | 日本の山車
◆03117 山鹿須賀神社祭
□社名 山鹿須賀神社
□所在地 福岡県遠賀郡芦屋町山鹿
□祭神
□祭は七月中旬。
□山車
山車(山笠)が一臺出る。
□汎論
 幕末期には既に出ていたといわれる。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
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◇鴨居『須賀神社祭礼』…宵宮その弐
2009/7/28(火) 午後 4:20
... 毎年七月のお祭は『須賀神社』の祭礼だそうです。 毎年お邪魔してるのに最近まで知りませんでした。 宵宮の『宮入』時間が近づいたので神社に向かいます。 各町内の神輿・山車がぞくぞくと集合してきます。 私のお世話になる『宮原町内会』の宮入です。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yasu_10henbok/60066497.html


◆05751 高田神社祭

2011年02月01日 | 日本の山車
◆05751 高田神社祭
□社名 高田神社
□所在地 福岡県遠賀郡遠賀町虫生津
□祭神
□祭は七月中旬。
□山車
山車(山笠)
子供山笠が一臺でる。
□汎論
 遠賀郡は相撲の盛んな土地で、高田神社の秋のおくんちには奉納相撲が行われる。
 長崎県、佐賀県に行われる【おくんち】は当地にまで及んでいる。

◆05750 老良神社祭

2011年02月01日 | 日本の山車
◆05750 老良神社祭
□社名 老良神社
□所在地 福岡県遠賀郡遠賀町老良
□祭神
□祭は七月中旬。
□山車
山車(山笠)一臺が出る。
□汎論
 老良神社の名称は【老良】の地名による。老良は古くは【老楽の里】とよばれていたのが次第に転じたといわれる。ヤマトタケル(日本武尊)西征の伝承があり、ヤマトタケルはこの地で
キヌタヒメ(砧姫)を娶り妻とした。のちに、キヌタヒメは夫が東征の途中怪我が元で死去したことを知り、これを悲しみ一社を建立したのが当社の創祀だと伝わる。
山笠は一時期橇に載せて曳いたといわれる。








◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 九

2011年02月01日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 九
 戦国時代有岡城に一世代を築いた荒木村重が滅んだあと荒廃していた伊丹は、近衛家という公卿の所領となった。大名の所領地を藩というのに対し、【摂領】という。
 大陸からもたらされた麹(こうじ)をつかった醗酵技術は小豆島(香川県)の醤油となり、紀州湯浅(和歌山県)、房総(千葉県)へと伝えられいまも、他の追随を許さない定評を得ている。
 越前に伝わった醸造技術は、東大寺(奈良県)の僧らにより、味噌が醸造された。この醸造技術を応用して酒が醸造されたが、酒の醸造家に大和屋、大和田屋などの屋号が多いのは
苑ゆえだといわれる。
 摂津池田(大阪府池田市)に伝わり、丹波から、天王七曲がりの急坂を越えて、酒を醸造する御倉米が届き、丹波杜氏が訪れた。
 四条派の画家で知られる松村呉春、松村景文の兄弟を生んだ池田は酒の町であり、いまも【清酒呉春】は、容易に愛飲かに届かない銘酒として知られる。
 池田の繁栄は次第に伊丹に伝わった。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇呉春
2007/3/22(木) 午前 0:07
... 名を中国風に松村呉春と改名しました。後に京都・四条に戻った松村呉春は四条派画家の祖として晩成しました。前半は傷心で過ごし ... 織物技術伝承のために渡来した織姫姉妹に由来 ... 呉服の里に現存する最期の池田酒醸造元 呉春】  呉春は五月山 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tamada20060320/30428086.html

◆03122 伊豆神社祭

2011年02月01日 | 日本の山車
◆03122 伊豆神社祭
□社名 伊豆神社
□所在地 福岡県遠賀郡遠賀町島津 
□祭神
イツモメノカミ 伊豆能売神(伊都能賣神)
□祭は七月中旬。
□山車
山車(山笠)一臺が出る。
□汎論
 伊豆神社の創祀は不明である。祭神のイツモメノカミ(伊豆能売神)は、『古事記』には記述があるが、『日本書紀』には見当たらない。イザナギノミコト(伊邪那岐命)が黄泉國(よみのくに)から戻ったとき、黄泉の穢れからマガツヒノカミ(禍津日神)が生まれたが、マガツヒノカミのもたらす禍を祓うために、カミナオビノカミ(神直毘神)、オオナオビノカミ(大直毘神)それにイズノメ(伊豆能売)が生まれたとある。イズノメ(伊豆能売)は神として扱われていない。
 『延喜式神名帳』には、出雲國出雲郡の「神魂伊豆之賣神社」が記載されるが、祭神にイツモメノカミ(伊豆能売神)の名はない。
 推論になるが、日氏から海神族(綿津美氏)にかけて、完成した古代神道祭祀は大和政権の確立以後、『古事記』、『日本書紀』をはじめ、皇統神道に移行しているが、この段階で古代祭祀で祀られていたであろう神々が消滅している。
 イツモメノカミ(伊豆能売神)は出雲國の成立に関わる神であったはずだが大和政権にとっては不都合な神として排他された疑いがある。
 全国にイツモメノカミ(伊豆能売神)を祀る神社は存在しないと記述されている例を見るが、当社の祭神は正しくイツモメノカミ(伊豆能売神)である。
 おなじ福岡県水巻町にも伊豆神社があるが、祭神はヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)、タマヨリニメノミコト(玉依姫命)、シオヅチオジノカミ(鹽土老翁)他で、イツモメノカミ(伊豆能売神)の名は無い。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 八

2011年02月01日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 八
 黄檗山 萬福寺
 京都府宇治市木幡(こわた)にある、黄檗山萬福寺は、隠元隆禅師(いんげんりゅうきぜんし)が六十三歳のとき、度重なる徳川幕府の招請にこたえ、承応三年(一六五四)に中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺から来日し、万治四年(一六六一)に開基された巨刹で、山門を一歩はいるとそこには、九万坪といわれる広大な敷地には、中国風の整然とした伽藍が並び身の引き締まる思いがする。
 本尊は弥勒菩薩であるが、豪快に笑う布袋和尚が本坐に座る。中国では布袋和尚は中国に現れた虚空蔵菩薩とする思想があるからである。
 江戸時代の俳人、菊舎尼は、

   山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄

 と詠んでいる。
 昭和四〇年のはじめころ、正月に訪れたときには、写真家の土門拳氏が凍てつく堂内で本の撮影に取り組んでおられた。
 この地に萬福寺の建立が決まったとき土地は、近衛家の所領であった。幕府は近衛家に対し代替地を用意した。それが伊丹郷町である。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 七

2011年02月01日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 七
 岸和田は、丹波國出石(兵庫県)を領した小出秀政の死後、その子、小出吉政のとき岸和田に転封となった。以後、小出秀家、小出三尹へと家督が引き継がれた。この小出三尹
のとき、【陶器藩】初代藩主として一万石で封じられた。三尹は、秀政の四男である。以後、小出有棟、小出有重、小出重興と続いたが小出重興には子供が無く、陶器藩は四代で断絶した。
 陶器藩初代藩主の小出三尹は、金森宗和の茶道の弟子であり、その妻の菊は、高山城主金森可重の三女であり、宗和の妹にあたる。金森可重が岸和田の警備にあたって以来続いていた圓がむすばれたのであった。陶器藩の過信には、宗和流の茶をたしなむものだでてきたのも当然といえよう。
 陶器藩という名称は珍しいが、和泉国大鳥郡陶器庄(大阪府堺市)に陣屋がおかれた小藩である。