暘州通信

日本の山車

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一二

2011年02月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一二
 谷口與鹿の茶の湯の師匠は、中川吉兵衛であった。冬頭町にあった旧家、中川長衛門の分家筋にあたり、高山市(寺内)下一之町の屋臺、【布袋臺】の彫刻を始め、西之一色町の東照宮本殿に立派な四神を彫ったが、この彫刻は今は見当たらない。諏訪の和四郎こと、立川
和四郎の信頼が厚く、委嘱されて、各地の彫刻を手がけている。信州安曇野の有明山神社の
裕明門は【日光東照宮の用命門、信州有明山の裕明門】と言われるほど立派な建造物で、立川一門の彫刻が配されている。そのまえにある手水舎の工匠は、斐太ノ工・山口権之正で、中川吉兵衛の弟子だったといわれる。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一一

2011年02月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一一
 当初、谷口與鹿が伊丹郷町を訪ねたときは、伊丹郷町の猪名野神社の祭礼で曳く屋臺(山車)建造のためであった。しかし、與鹿が伊丹郷町をたずねたころは、すでに伊丹郷町の繁栄は峠を越して、経済が下向きに転じたときであった。その建造資金の調達が思うようにゆかなかった。しかし、酒造家の旦那衆との交わりが重なり、俳諧、茶の湯、音曲、絵画を通じ、また伊丹明倫堂の橋本香坡との交友が深まり兄弟以上となった。香坡の妻の静がまたよく面倒を見てくれた。静は上州沼田藩(群馬県沼田市)の平尾戟の娘で、香坡の父の坦翁が、沼田藩士だったこともあって迎えた妻であった。與鹿はそこで代用教員のようなこともしていたらしい。
 

◆00735 大富神社神幸祭(八屋祇園)

2011年02月04日 | 日本の山車
◆00735 大富神社神幸祭(八屋祇園)
□社名 大富神社
□所在地 福岡県豊前市大字四郎丸山田
□祭神
スミヨシオオカミ 住吉大神
ムナカタオオカミ 宗像大神
ハチマンオオカミ 八幡大神
□祭は四月下旬ー五月上旬。
□山車
山車(お山、踊車。舟山車)がでる。
お山
・本町
・上町
踊車
・前川
・下町
・八幡町
舟山車
・住吉
・明神
住吉、明神の両地区が隔年交替に出る。
(順不同)
□汎論
 大富神社の創祀は古く、延喜式神名帳が編まれたときはすでに存在していたはずであるが、記載が無く、延喜式式外社とされている。しかし当社の創祀はおそらく宇佐神宮より先であり、古くは宇佐神宮と称していることを考え併せると、宇佐神宮の前身は当社だった可能性があり、謂うなれば【元宇佐神宮】といえるかもしれない。
 商売繁盛に霊験あらたかと信じられていて、大阪方面では【大富屋】と名乗る屋号のお店を見かける。布施(東大阪市)にも大富屋さんがあってたいそう繁盛していたが、店主はやはり豊前の出身であった。

◆00565 宇島神社神幸祭(宇島祇園)

2011年02月04日 | 日本の山車
◆00565 宇島神社神幸祭(宇島祇園)
□社名 宇島神社
□所在地 福岡県豊前市宇島
□祭神
□祭は五月上旬。
□山車
宇島祇園祭の別名があり、御船車一臺山車(祇園車)五臺を曳く。
御船車(舟山車)
・蓬莱町(寶来町)
 宇島祇園発祥の町。 祇園車は明治四十一年の日露戦争戦捷を記念して二代目が建造された。
工匠は瀧川房造。彫刻は豊前松江の長松久米次郎。
初代の天祥丸は明治四十一年に中津祇園の竜王町へ譲渡された。今となっては惜しむ声もある。
町辻では音頭取りと歌い手らによって御舟謡が披露される。
祗園車(山車)
・魚町
祗園車は中津祇園の古魚町から譲り受けたものを曳いている。
 魚町は、かつて殷賑をきわめた中津街道の宿場町。
・神明町、元町
祗園車
工匠は不明。明治末頃の建造。欅材を用いた大振りで堅固な造り。
彫刻は浦島太郎他、豊前松江の長松久米次郎の作。
以前は神明町、元町とそれぞれに祇園車を出していたが昭和四十一年頃に元町の祇園車が廃されて統合になった。以後、両町合同で神明町の 山車を曳く。
元町は宇島の商人の町。神明町は中津街道の郭があって花街として栄えた。
・恵比須町
祗園車は二代目。明治末頃のに建造、詳細不明。
彫刻の波板の波模様は秀作。
恵比須町の通名を四町(よちょう)と言う。
・千代町
工匠は小嶋弥太郎・建造は大正十一年。
祗園車は宇島唯一の彩色車で華やかな印象がある。
天井絵は地元の日本画家矢野友山。
・八千代町
漁師が多い街で、祗園車の曳行も豪快である。
・長者町
長者町は祗園車はなく、神輿が出る。田川地方から譲り受けたとつたわる。
祭礼には宇島神社から堂山神社の御旅所まで御神幸があり、傘鉾が供奉する。
(順不同)
□汎論
 宇島神社は、宇島がかつて、【鵜ノ州(うのしま)】と呼ばれた地に創始された。
 鵜のほかにはだれもいない当地が港湾として開発されたのは、杉生十右衛門の建案が採用されたもので、さらにその着工から完成までを担当した。杉生十右衛門は門司の出身で、築港完成後は、小倉藩領の住民らに住宅を提供して中津小祝などから住民を招致し、商、漁業など海運の中心地として発展に至らしめた地域の恩人である。
 文政八年(一八二五)、小笠原藩主の笠原忠固が参勤交代の途中、宇島の築港工事を視察するため宇島沖合にさしかかったところ、大時化(おおしけ)となり、あわや難破の危機に瀕したが、このときその様子を見た蓬莱町らの住民は危険を顧みず十艘の小船を巧みに操り、藩主の御座船を無事湊に曳航して接岸させ、救出に成功した。この一部始終を見ていた藩主の笠原忠固は、いたく感激し、住民らに篤く禮を述べ、感状と下賜品があった。さらに、御座船を【天祥丸】と名付け、小笠原の三階菱の家紋をつける許可があった。蓬莱町(寶来町)は祗園祭にこの【天祥丸】を乗せた祗園車を曳いいたが、この山車は明治の末期に中津に譲られた。中津では今も大切に扱われていて健在である。