暘州通信

日本の山車

●315 日本の山車 唐津祭

2006年01月31日 | 日本の山車
佐賀県唐津市
唐津神社祭
佐賀県唐津市
唐津神社
祭は11月上旬
山車は曳山で14臺ある。
・刀町
本座、赤獅子。文政2年(1819)9月建造。工匠、石崎嘉兵衛。塗師、川添武右衛門・中町
本座、青獅子。文政7年(1824)9月製作。工匠、辻利吉。塗師、儀七
・材木町
本座、亀と浦島太郎。天保12年(1841)9月建造。工匠、須賀仲三郎。
・呉服町
本座、源義経の兜。天保15年(1844)9月建造。
・魚屋町
本座、鯛。弘化2年(1844)9月建造。
・大石町
鳳凰丸。弘化3年(1846)建造。
・新町
本座、應龍(飛龍)。弘化3年(1846)9月建造。塗師、小川次郎兵衛。
・本町
本座、金獅子。弘化4年(1847)8月建造。工匠、石崎八左衛門
・木綿町
本座、武田信玄の兜。元冶元年(1864)9月建造。工匠、紅屋・近藤藤兵衛。
・平野町
本座、上杉謙信の兜。明治2年8月建造。工匠、富野式蔵。塗師、須賀仲三郎。
・米屋町
本座、酒呑童子と源頼光の兜。明治2年9月建造。工匠、吉村藤右衛門、近藤藤兵衛。塗師、須賀仲三郎。
・京町
本座、珠取獅子。明治8年10月建造。塗師、大木夘兵衛。
・水主町
本座、鯱。明治9年11月建造。工匠、富野棋園。塗師、能登輪島(石川県輪島市)笹谷宗右衛門。
・江川町
本座、七宝丸。明治9年10月建造。塗師、須賀仲三郎。
・紺屋町(途絶)。
本座、黒獅子。安政6年からー文久2年にかけて建造されたが、廃止されて現存しない。



●313 日本の山車 宇原神社祭

2006年01月31日 | 日本の山車
福岡県京都郡苅田町
宇原神社祭
福岡県京都郡苅田町馬場
宇原神社

祭は10月上旬
山笠は14臺がでる
・雨窪
・西町 幸友会
・本町 立志会
・中町 中町中央会
・上町
・堤区・長畑区 光國会
・浜町区
・港区
・馬場
・南原 浮殿会
・集区 一心会
・尾倉区 貴船会
・与原上区 明神会
・与原下区 白庭会

●312 日本の山車 小倉八坂神社

2006年01月31日 | 日本の山車
北九州市小倉北区
八坂神社祭
北九州市小倉北区
八坂神社
祭は7月下旬

 山車は江戸時代に山・鉾があり、多数が神幸に加わったが、現在5臺が保存され、一部が飾山となっている。いまは大人組、少年組、一般(企業など)から、およそ80臺ちかくの多数の太鼓山車が盛大に曳かれる。山車太鼓は、無法松の一生で打たれ全国に知られる。有名な乱れうちなど多数がある。
山車は、大人組、少年組、一般にわけられ、大人組は高校生以上が参加する。
町内は、
・船場町
・古船場町1、2丁目
・堅町
・京町1丁目
・魚町1丁目
・魚町2、3丁目
・魚町4丁目
・中島本町1丁目
・中央銀座
・高田町
・西鍛治町1丁目
・京町銀天街
・堅町本町
・大門町
・大門1丁目
・金田仲通り
・米町1丁目
・且過町
・宝町
・末広2、3丁目
・長浜東
など
少年組は中学生以下で構成される。 一般は、九州電力、国立小倉病院、井筒屋などで町内組以外である。

●292 岐阜市長選に学ぶもの

2006年01月30日 | 行政・司法問題
■空洞化する岐阜市街。柳ヶ瀬、ハルピン街の寂れようはいったいなんだ? ■退行するばかりの産廃処理問題。■沈滞する市民意識。■いまや「日本の産廃捨場」となりさがって「ゴミは岐阜へ持っていけ!」の大合唱。嘲笑される岐阜市。■帰死回生をかけた「政令都市指定」もボツ。わるくなる一方の岐阜市。その舵取りをしてきた現職市長。■県連まっぷたつのお家騒動で収拾もつかない自民党。■この自民党と連立する公明党の節操のなさ。相乗りした民主党の愚行。■民主党支持候補はなぜ立てられなかったのか? 細江氏に、「自民党に乗り換えるなら民主党は支持を辞退する」となぜはっきり言わないのか? この疑問を市民は「利権がすてられない」からだとみてしまう。これは、岐阜県知事選でも論議された。肝心なところでいつも内輪もめばかして、自民党と戦って政権をとることができず、小について、大を忘れる。政治家なら反省すべきである。万年野党に甘んじるならそれもいいが。
■注目された市長選挙で、岐阜市民は結局現職の再選をえらんだ。■新候補との一騎打ちとなった市長戦だったが、投票率と開票結果に岐阜市民の総意を見た。■投票率をみるとシラケた選挙だった。これは予想されたとおりだった。■細江氏は前回投票との得票差をみれば、その支持は激減した。■高田氏は善戦した。細江氏の票からあと1万5千票もぎとれば当選できたはず。なぜできなかったか? ■及ばなかった理由は①実力未知数。②市民の歓心をかうため手段を選ばなかった。③共産党の支持はマイナスだったことがあげられよう。岐阜市民には共産党市長を戴く風土が成熟していない。■高田氏の呼びかけも岐阜市民の目には、たとえば、実現の可能性もないのに①産廃全量撤去。②路面電車の復活などをもちあげた。まじめに取り組めばこの二つで岐阜市財政はまちがいなく破綻する。理念よりも人気取りが先行してしまった。実現の見通しもおカネの出所も示さないご機嫌とりの政策論は地に付いていなかった。市民には「例の言うだけで行わない、共産党の大風呂敷」としかうつらなかったようだ。せめて、無所属で戦えば投票率はあがり、支持票も伸びただろう。共産党候補の烙印を押した高田氏に次回の期待はない。
■市民派・無所属の候補を立てられなかった岐阜市民の不甲斐なさも責められよう。■産廃処理問題は、善商には期待できない。岐阜市にも経済的能力はない。しかし岐阜市民の税金のみをあてにすべきではない。ここにいたっては、衆議院国会議員をとおして「産廃は国の、東海地方の問題」と現実的早期な処理資金の捻出を図るべきだった。■早いうちから「国はいっさい知らない」といわせてしまったのは新国会議員が「画餅」、「張子の虎」である証拠。しかも佐藤・野田両氏は細江氏についてしまった。「呉越に魏蜀まで乗った泥船・細江カチカチ丸」の前途は多難。はたして4年もつか?
■結論。市民派・無所属の市長候補を立て、三つ巴戦で戦うべきだった。
■「緑したたる金華山、水清冽の長良川」と全国に知られる誇り高い岐阜市の現状はあまりにも情けない。■平成の竹中半兵衛はいないのか?
■話し変わって「汚職まみれの高山市政」。■こちらも市民の意識は岐阜市以下。前回選挙も真剣に高山市を考える市民派の市長候補が出なかった。■共産党候補が出てかなり批判票を集めたが、当選には及ばなかった。しかし現職支持者は激減した。■ことし9月は高山市長選挙も行われるはず。■いまの岐阜市を他山の石として。清廉な市民派市長の登場が望まれる。■新しく町村合併した新・高山市長選は三つ巴戦で戦うべきである。どうなるか?

●285 日本の山車 亀岡祭

2006年01月29日 | 日本の山車
京都府亀岡市
亀岡祭
亀岡市上矢田町
鍬山神社、八幡宮
祭礼は10月下旬

面降山の東麓に鎮座する鍬山神社の秋季大祭で、古くは旧暦九月一日から晦日までの1ヶ月間行われていた。鍬山神社より鍬山宮、八幡宮のそれぞれの御輿が御旅所に本祭まで鎮座される。鍬山神社の沿革を社伝にみると、和銅2年(709)に創祀されたといい、「延喜式」に記載されている古い神社である。祭神は大已貴命を鍬山大明神として祀り、
永万元年(1165)には譽田神(応神天皇)を八幡宮として併祀している。
9月29日には、藝に優れた人によって猿楽が上演され奉納されたようである「看聞御記」によると、丹波猿楽の本座としても隆盛をきわめたようである。
天正四年六月、明智光秀が桑田郡に入り、亀山嬢を築いたが、このとき鍬山神社の祭礼はことごとく廃止された。また、祭礼の廃止にあわせて神樂、くらべ馬、相撲、猿楽などの祭に関わる娯楽も一切癈された。しかし、明智光秀はこの六年後の天正10年6月2日、本能寺に織田信長を討ったが、つづく山崎の合戦では豊臣秀吉に破れたのはよく知られるところである。亀岡は秀吉の支配となり亀山城主には養子の羽柴秀勝(織田信長の四男)がはいった。その後歴代の城主は、神領を寄進するなど崇敬も厚かったが、岡部長盛が城主のとき、鍬山宮、八幡宮の社殿を造営し、慶長15年(1610)には猿楽が復興された。延宝9年(1681)亀山郷、長杉原守親の記述である、「丹波の國桑田郡矢田郷矢田社之祭法」によると、二十四日のところに、舟造、御鉾飾とあり、同日は樫舟をつくり、鉾を飾ったことがうかがわれる。舟造りとは興味ある表現で、樫舟をさす
「樫舟」は、船中に南社前の榊(賢木)をたて、十人の楽人が大鼓、笛、鼓で楽を奏し今様を謡い、曳く方向を操舵する木挺は四人、曳子は16名であったと記録されており、現在見られる舁山や山鉾よりも前に「樫船」とよぶ曵山があった。
杉原氏の写生図が、四季の祭と年中行事に転載されているが、その挿画には龍頭を掲げる船首、四輪の車輪を持つ、車輪は車軸を有するようで、船腹は幕によって覆われており、下部の幕は波幕いい、波模様が描かれている。その上を覆う幕には大きな鳥(鳳凰か?)が描かれ、唐破風の屋根を持つ御殿風の造りである。
 亀岡の山車の曳行記録である「引き山記」によると、鍬山神社の祭りは、表番と裏番があり、城主が在国の表番の年は、御輿や曵山を場内まで曳き入れて上覧に供し、城主が江戸詰めで裏番となる不在の年は、御輿のみ御旅所まで渡御され、曵山は出なかったとある。亀岡祭の山車は、舁山4臺、曵山6臺、飾山1臺(もとは曵山)の11臺がある。
江戸時代後期には各町内に鉾が造られ、巡行したようである。山鉾の曳き順は、京都の祇園祭と同じように籤引きによったといわれる。山車の囃子は祇園囃子で、口丹波の祇園祭として親しまれている。
 各組の山車記録をみると、稲荷山の御装束箱の箱書きに「寛延四年未年九月吉祥日」とあるのがもっとも古く、寛延4年は(1751)である。
高砂山の御人形箱ならびに道具入箱には「宝暦五乙亥歳九月」(1755)
三輪山の御装束箱に「宝暦七年丑九月寄寄附」(1757)。
八幡山は建造記録があり、
「宝暦十三年癸未年九月、新たに山を造営して八幡山と号奉(なづけたてまつる)とあり、いずれも9月になっているのはその年の祭に、はじめて用いられたことを示しているといえよう。
・八幡山
「山ノ下幕、木綿地藍染め鳩模様」
「水引幕、蜀甲に額龍文金襴」
「見送り、金更紗綴織、牡丹鳳凰文様綴れ様絽刺」(現在は前懸に使用されている)。
この三点は、建造時の記録にあることから、当初の物が今も使用されていることが明らかである。

・稲荷山
・羽衣山
・浦島山
・翁山鉾
・鍬山
・高砂山
・三輪山鉾
・難波山鉾
・八幡山鉾
・蛭子山
・竹内山鉾

[山車文献資料]
・丹波國桑田郡矢田社之祀記
・杉原家文書 樫舟の画が載る
・引山記
・旅籠町会議所所蔵文書
・祇園御霊会細記 全三冊、宝暦七年


●282 日本の山車 知多岡田祭

2006年01月29日 | 日本の山車
知多岡田祭
知多市
岡田神明社
祭礼は4月下旬

・日車 里組
創建は元禄2年(1689)。正徳4年(1714)。延享2年(1745)に改修されている。現在の山車は4代目で建造は嘉永から文久にかけて行われた。工匠は藤田佐右門、藤原雅房。彫刻は文久3年、瀬川治助重光により、檀箱は龍虎、蹴込は黄石公が張良に兵書を授ける段、持送りは龍、太平鰭は狛犬となっている。前山人形は「三番叟」。上山本座人形は「悪源太」。大幕は「羅紗地緋色」。下幕は赤の絹地に牡丹透かし模様が入いる。追幕は緋色羅紗地に牛若丸と天狗を刺繍する。

雨車 中組
創建は文化から文久年間。彫刻は文化11年、瀬川治助等一門による。檀箱は鬼、狛犬、菊花、波濤を彫る。
塗師は文化11年、大野弥兵衛。
からくり人形戯があり、上臺人形は綾渡り。前棚人形は三番叟、弥津志、おやま。
水引は茄子紺地に火炎龍を刺繍する。大幕は緋色羅紗地。下幕は木綿綾織茄子紺と白地縦幅縞」。

・風車 奥組
建造は、天保から文久年間。彫刻は文久元年、福田吉佐衛門、藤原宗雅。塗師は与三右衛門と二男の与助。前山人形は、舌出し三番叟、春駒。上臺人形は文字書き。
大幕は「紺色羅紗地」。下幕は「赤絹地に牡丹透かし模様入り」。


●281 日本の山車 掛川祭 1

2006年01月29日 | 日本の山車
掛川祭
五百余年の歴史があるといわれ、三年に一度大祭が行われる。
掛川の屋臺は37臺で「御所車型」。
屋臺囃子は、「屋臺下」「大間」「雨垂」、「昇殿」「鎌倉」などがあり、また、屋臺離合際は、「徹花(鉄火)」を打ち、囃子のはじまりとおわりには必ず拍子木が打たれる。

◇仁藤神明宮
祭礼は10月上旬
屋臺6臺
・新町
昭和27年の再建。工匠は角皆与一、加藤恒吉。
・喜町
嘉永2年(1849)京都で購入したとの伝承がある?。掛川ではもっとも古い屋臺。
・塩町
文久元年(1861)の創建。上内田の上板沢を経て桜木の小山平に譲渡された。
昭和27年の再建。工匠は鈴木寛一、他。
・旭町
昭和27年の創建。工匠は牧野雄平他。
・神明町
はじめの屋臺は、昭和26年、桜木の田中より取得したものを曳いた。新屋臺建造で菊川町の上倉沢に譲渡された。
・仁藤町
明治21年の建造。工匠は土屋音吉、林伝蔵、田嶋芝吉。

・道神町
小獅子。昭和42年創建。

下西郷八四
◇・龍尾神社
祭礼は10月上旬
屋台18臺
・松尾町
昭和60年10月再建。工匠は安間宇太郎、安間紀雄、伊藤文好、斎木里視、岡本茂、松浦典弘。それまで曳いた屋臺は菊川町長者原に譲渡された。
・城内
大正9年10月建造。工匠は高橋善平。
・北門
昭和23年建造
工匠は藤浦静雄、杉村芳雄。
・大手町
明治20年に建造された袋井市新町の屋臺を大正六年に取得。
・連雀町
大正12年建造。工匠・障子は飯塚源三郎。
・肴町
平成九年再建。15年に漆塗。工匠は寺田正、寺田忠広。先の屋臺は大正9年の建造だった。浜松市都田に譲られた。
・栄町
平成9年再建。工匠は河原崎逸雄、他六名。彫刻は伊藤章晴。
・紺屋町
弘化5年(1848)に建造。昭和25年まで曳いたあと、西山口の成滝を経て菊川町の横地下組に譲られた。
昭和25年再建。工匠は赤堀茂吉、他二名。彫刻は伊藤章晴。金具は八木銅工。
・研屋町
明治15年建造。工匠不詳。昭和54年、永井啓五郎により改修。

・中央一丁目
昭和54年新調。工匠は二瀬川の山本富男。
・緑町
大正12年の建造。3代目にあたる。工匠は松浦伝吉、大浜浜吉。車工匠は永田一郎。彫刻、松本利三郎。塗師は松本与作。
・中町
幕末ー明治初期の建造。明治6年に二層式を三層改造。掛川市では唯一の三層屋臺。
彫刻は権江茂師政、号あるの高村他之助。
・西町
昭和30年再建。工匠は西町の大谷定平、松本昭、河本真一、牧野武。彫刻は江坂鐘平、江坂兵衛。旧臺は倉真五区に譲渡。
・十王
大正10年建造。工匠は高橋平四郎、土屋源三郎。
・下俣町
昭和27年建造。工匠は中島金次郎、鈴木新吉、村松義正、松浦秀吉、加藤政冶。彫刻は早瀬利三郎。
・下西郷(谷の口町、中宿、柳町、天王町、下西郷、下垂木の各地区)
昭和53年建造。工匠は平島の戸塚。彫刻は伊藤章晴、早瀬広、中山量策。

・城北町
昭和54年建造。工匠は平島の戸塚。彫刻は伊藤章晴、早瀬広、中山量策。
障子は杉浦恒雄他。塗師は村上。
・弥生町
当初の屋臺は昭和55年他の地区より取得したが、新臺建造により菊川町に譲渡。
昭和59年の建造。工匠は安間宇太郎、安間紀雄、伊藤文好、斎木里視、岡本茂、松浦典弘。彫刻は伊藤章晴。
・城西
昭和24年の建造。工匠は本間増吉。彫刻は藤浦静雄、杉村芳雄。昭和61年大場常平によりさらに彫刻を補った。

下俣南745-1-18-8
◇利神社
祭礼は10月上旬
屋臺五臺
下俣町、
・中央二丁目
昭和53年10月建造。工匠は石田嘉男、松浦建二、山崎章司、鈴木孝司、石田久男。車工匠は小栗新太郎(磐田・西之島)。障子は石田英司(二瀬川)。
・中央三丁目
桜木の新田から取得し、一年曳いたあと菊川町の奈良野へ譲渡。昭和53年に再建。工匠は小栗新太郎。彫刻は早瀬広、早瀬文子。
・十九首
昭和27年の再建。工匠は宮沢仁三。彫刻は早瀬利三郎。
・小鷹町
昭和53年の建造。工匠は宮沢仁三、他2名。
彫刻は早瀬広、早瀬文子。

大池二二九九
◇池辺神社
祭礼は10月上旬
屋臺6臺
・二瀬川
大正4年建造。工匠は村松邦平。
・七日町
先代屋臺は昭和56年の建造。
平成5年再建。工匠は安間紀雄。
・鳥居町
平成11年の建造。工匠は安間紀雄。
・秋葉通り
昭和22年、底抜屋臺に始まり。昭和51年、森平より屋臺を借りて曳いた。昭和53年建造。工匠は小栗新太郎。彫刻は早瀬広、早瀬文子。
・上屋敷
はじめは荷車を改造したものだった。
昭和56年に建造。工匠は竹下悦男、竹下藤男、鈴木秀行。
・秋葉路
平成五年に取得。
秋葉路は、平成四年自治会が発足し、同8年に池辺神社の氏子となった。
工匠は小栗新太郎。彫刻は早瀬広、早瀬文子。


大池850
◇白山神社
祭礼は10月上旬
屋臺1臺
・橘町
平成9年の建造。工匠は小栗新太郎。彫刻は早瀬広、早瀬文子。

大池772
◇津島神社
祭礼は10月上旬
屋臺1臺
末広町
先代は昭和24、5年ころ高山より取得した。そのあとの行方は不明。
昭和27年の建造。工匠は小西弥喜吉、岩崎才一。彫刻は中山量策。塗師は村松貞吉、村松菊郎。

長谷1632-2
・貴船神社
祭礼は10月上旬
屋臺1臺
・長谷
先代は明治期に建造された。屋臺の新調にともない譲り渡し、いま本郷東の子供屋臺として曳かれている。
昭和53年の建造。工匠は長谷の鈴木貞夫。彫刻は早瀬広、早瀬文子。金具は仁藤の鈴木辰雄。

●279 日本の山車 ドイツケルンの山車

2006年01月29日 | 日本の山車
ドイツケルンの山車
ケルンの山車は、2月下旬のカーニバルで曳かれる。カーニバルはキリスト教の重要な行事である復活祭の40日前、断食の期間に入る前に行われる無礼講の祭で、バラの月曜日にパレードがあり、趣向を凝らした山車が町を練る。
他のライン地方でも行われる。


◆左甚五郎 引接寺山門の龍

2006年01月29日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 引接寺山門の龍
山口県下関市中之町

寺の前は海で、山陽道から九州へわたる交通の要所で船番所もあり、江戸時代には宿場町としてたいへん賑わった。深夜夫が急病で医者を呼びに向かっていた妻女は、いきなり闇からきりつけられたが、横から飛び出してきたものがあって危うく危難を避けることができた。あくる日引接寺の山門から地が滴っており、龍が二つに切られ手いるのが目撃されて、妻女を救ったのは、水を飲みに出かけた龍だということがわかった。
昭和20年7月2日、下関大空襲でここでも龍は神通力を発揮し、山門を守ったので
、引接寺は焼けたが、山門は被害を免れたのだという。
この山門は、昭和58年下関市の文化財に指定された。