暘州通信

日本の山車

●135 谷口與鹿 長崎滞在

2006年01月03日 | 日本の山車 谷口與鹿
長崎滞在
長崎にいたとき竹根で作った亀がなかなかの出来であった。 水に浮かせると手足で水をかいて泳ぐという趣向のものだったという。
しかし、與鹿の滞在した宿舎がまだわからない。滯在したのは長崎の曹洞宗寺院か? あるいは、香坡とはおなじだったか? 橋本香坡は浄土寺にほぼまちがいない。「時雨松」という松があったと記している。この寺の山手裏側に、亀屋社中の建物があった、建物といっても粗末な小屋のようなものだったらしい。ここが、坂本龍馬の長崎海援隊の拠点であった。香坡と龍馬の交際がはじまる。

 亀屋社中は近年まで建物が残っていた。昭和五〇年代に荒廃があまりにひどいので取り壊したそうである。石碑がたてられている。近年になって、復元建築され、坂本龍馬、その交際があった人たちの遺品が展示されている。
 長崎への旅は、伊丹で建造する屋台の緋羅紗、懸装品(タペストリ-)、装飾品の下見と、仕入先の選定、唐様の策定にあった。

崇福寺
萬福寺
諏訪神社

中国様式を親しく見聞するためであった

與鹿と香坡は中国から渡海していた、後藤春卿とであう。

丸山花月に遊ぶ。

稲佐山に登る。

この寺の山手裏側に、亀屋社中の建物があった、建物といっても粗末な小屋のようなものだったらしい

ここが、海援隊、坂本竜馬の拠点であった
昭和五〇年代まであったが荒廃がひどいので取り壊したそうである
今は石碑がたてられている
 與鹿の長崎への旅は、伊丹で建造する屋臺の緋羅紗、懸装品(タペストリ-)、装飾品の下見など仕入先の選定、唐様の策定と、高山からの注文品をえらぶことにあった。

●134 谷口與鹿 西遊

2006年01月03日 | 日本の山車 谷口與鹿
嘉永五年(一八五二)五月二十七日に母安子を、同じ年の三カ月後には父の担翁を失い、さらにいま、四年後の安政三年四月十五日、妻益子の野辺の送りをすませると、香坡はたちまち孤独の身となった。さぞ無常にさいなまれる日々であったろう。妻の遺品を主治医の吉田三柳、下女の松らに分け与えるとのこりはすべて売却し、両親、妻の墓、それに生きて自分の墓である生壙を建て、碑文には、

(表)橋本静庵の墓
(裏)名通字大路号香坡俗称半助 上毛沼田人 父担翁 
   母渡辺氏 性不喜仕進 放浪文酒 徒住伊丹
   安政丙辰十一月 営生壙於考妣墓前 欲無累後也

 と記す。

 仕進を喜ばなかったとわれるが、これは沼田藩士であることともに、伊丹にあって、明倫堂の教授であったこともまたおなじであったのだろう。
いたずらに伊丹にすむというのは。放浪文酒を好むとは與鹿の生き方そのままではないか。安政四年(一八五七)の四月、橋本香坡は與鹿とともに九州・西遊の旅に発った。橋本香坡の通行手形が残っているので、まずそちらを先に紹介する。

宗旨證書の事

近衛殿御家領
播州川辺郡伊丹昆陽口村
橋本半助

右は拙者の旦下にして御法度の宗門等に毛頭これなく候この度諸国遊歴をまかり出て候。万一病死などいたしそうらえば、其の処の御法にとりて葬り、その段確かなる便をもって、当寺はお知らせくださるべく候別に飛脚お差しには及ばず申し候。
それよって件の如し。

安政四年丁巳四月
京百万遍 知恩寺末
播州伊丹
法巌寺 印

諸国
寺院並御役人中

前書のとおり相違これなく候、国々御関所相違なくお通しくださるべく候。以上

右村
庄屋 新右衛門  印

とある。庄屋 新右衛門とは白雪の小西新右衛門のことである。

橋本香坡が九州旅行中の身辺を記述した詩集「西遊詩稿」が残されている。次の書き出しで始まる漢詩がつづく。

伊丹 香坡橋本半助著

丁巳首夏将西遊。留別伊丹諸子

すでに衣をひきてとどむる妻はなく
孤剣瓢然として遠遊をなす
幾歳雲を望みし篭裏の鶴
今朝絆を脱す厩中の□馬
二親の墳墓の離恨に悩む
諸友の・・>HAI酒杯物愁を消す
旧を懐い恩に感じ腸断たんと欲す
この郷我においてもまた並州

妻を昨年の四月になくし、ちょうど一年、子どももなくもう係累はいっさいなく
このたびにでるのを止める妻もいない
篭の中の鶴のように何年この自由の空を思ったことだろう
いうなれば、絆の説けた厩の中の赤馬と言うところか
しかし、両親の墓を離れることはとてもつらい。
伊丹の諸友たちと酒を酌み交わしていると、別離の愁いも消えてゆく。
しかしおもいかえせば、伊丹十九年の生活は、腸をたつおもいである
この伊丹の町は私にとっては、上州沼田と全く変わらない同じふるさとなのだ。

舟にて浪華を発して二十二日には下関についた。

風が生じまたやめば、舟足は早く、また遅く。
雲が多い。また開けば山は見えまた隠れる
摂州の洋上から見る新緑の季節
まことに元章の水墨画を思わせる

順風に帆をかければ波は静かで
舟にすわる人たちは、座敷にいるのとかわらない
見ず知らずの人達と笑って談し、
冗談をいっているのを聞いていると
今日の同乗者はみな兄弟のような親しさである

雨天となって港に舟をつなぎ
晴れるのを待つ間と
一人窓によって外をみれば
新樹が雨の山に煙っている
しかしそれもすこし見飽きてきた

煙雨は嘗章蕭々と海鹿を呼ぶ
曲州や横たわる島は日暮れの中にぼんやりとしている
舟は備前の西南の港に泊まる
灯火は林に隔てられて見え隠れしている
(この日十五日下津井にとまる)

この十五日は妻益子の祥月一周忌の命日に当たり
香坡と與鹿はこの瀬戸の下津井港で故人をしのんで杯を重ねた

浪華を立つ時伊丹の友人からはなむけにもらった四斗だるの丹醸
港の漁師に一壜与えたら目の下一尺もある魚を3匹もくれた。
この魚を早速膾にし、羹に煮れば、酒は佳し酔臥すれば
山海は復た目に新しい。
今丁度、上関を過ぎた所である。

この「元昭の水墨画を見るようである」といったのは、舟の上で與鹿が琴を弾いていたのであろう。
與鹿の弾く琴が顧元昭の霊和琴(玉堂琴)、浦上玉堂がそっくり写してつくった浅水琴であったためで、中国の故事「知音」にならい、與鹿を伯牙に見立てている。

波は泊まっている舟をうち一晩中鳴りきしんだ。
舟の箱枕は揺れ動いて眠る事ができない

ふと詩興がわいたので
梶にもたれて座りなおし、月明りに吟じてみた。
(この夜は潮が悪く舟は出立できなかった)

雲や峰は東に走る山陽道
煙る海の西に開ける筑紫州
萍跡すでにきたる千里の外
阿弥陀寺畔の新愁動ず

瓢遊、新愁に動じ感じて一作する
下関の阿弥陀寺町にある「赤間神宮」は、平家一族と安徳帝をまつる一見お伽話の竜宮城を思わせる、美しい朱塗りの神社である。
神域の一隅には「七盛塚」といわれる資盛、敦盛、知盛、経盛、有盛、教盛、時子ら平家一門の墓と、小泉八雲の小説で知られる「耳なし芳一」の像があって、平氏の夢の跡を今に伝えている。
深い木立にかこまれた薄暗い霊域には、香烟がたちこめ、。鬼気迫る幽玄な気に充ちている。
阿弥陀寺はもと寺院であったが、明治期に赤間神宮になった。すぐ前まで海がきていたというが、次第にうめ立てられて、今は社前が広くなっている。

この地を訪れた梁川星巖夫妻は

阿弥陀寺杳としていずれのあたりか
海気濛々として水天につく
夜半火来たって鬼馭を聞く
雲中柁響いて商船を見る
凄涼たる破廟、荒山の雨
剥落せる残碑古路の煙
あまつさへ白楊の疎影は冷ややかにして
悲風吹きわたる御裳川
この御も濯川は、二位の尼、時子が安徳帝を抱いて入水する時辞世に

いまぞ知る御裳濯川の流れには
   波の下にも都ありとは

と詠んだ川で、下関を流れる。

小屋瀬で同行の肥前茂木、玉臺寺の
某上人と別れる
定めて知る三世の好因縁
陸は肩輿をともにし、海は舟をともにす
教派分かれに臨んで再開を期す
玉臺山上、月は天に明かるし

空と海は遥か靄によって上下に分かれる。
長門と豊前の間にある満珠、乾珠の二島にはさまれて潮の流れは早い。
これから先また千里。
しかし鎮西の山は、もう船窓から手の届く近さである。

筑前の路上

駅舎の竹の駕篭は席も簾もゆがんでいる
滑ってすべるぬかるみの道
衣服が風雨に濡れるくらいは気にいていられない
座ってみる松のみどりに鮮やかな藤の花が映える

この詩作は、星巖の旅をおもいだしている。

梁川星巖も九州にはいり博多に向かうとき雨に降られた
このとき、

雨に阻まる

客窓連日雨蕭々。
座して残暑を擁し寂寥を送る
得を見る覇家臺の道。
泥深くして三尺、人の腰を没するを。

旅の雨はわびしいものである

東西ではなかなか言葉が通じない
かれこれ意志の伝わらない問答をしているよりも黙って座っていると、早蝉の越えに混じって松風の律が聞こえてくる

海に沿い小山を越えると、
赤土は霞のように海に連なっている
ふと悪臭が鼻をつくので気がつくと
このあたりの人家で燃やす石炭の煙である

筥崎神廟

万松は海を抱き、波はめぐるごとく渦をまき
あたかも青函玉鏡寒のようである
文徳の武威はとこしえに輝き
一神廟は三韓をにらんでいる

頼山陽が箱崎にてつくった詩は

廟門岌業長瀾に面す
仰ぎ見る彫題碧湾を照らし
とこしえに神威によって戎狄を伏す
新羅、高麗は指揮の間

太宰府神廟

おそれ多くも咎をうけた大賢
鐘声瓦色、当年を想う
風雷自ら示す菅公の徳
誰道冤を訴え上天に祈る

観音寺

千里を飛ぶ梅、一夜の松
痴人、夢をはなせばまた何によりてか
観音寺の内にその日を憶う
今はただ偲のみ、その韻々たる雨中の鐘の声

太宰府より三日もかかって越した高い山も肥前、佐賀にいたると道も低平になっ
た。
一面の麦畑が続き、おりからの風に波のごとくうねっている。
一箇所、高くなって木の繁っているところが佐賀城である

嬉野駅温泉

さすがに名湯、三度も入ると足も軽く、長旅の疲れを忘れる。
まことに心身さわやか。

朝仙岳

柄崎駅にあり、二峰対峙して、奇秀飛ぶが如し

肉眼でみる岳は
誰ぞ知るこれ二仙なる
相対して談ずるは何事ぞ
まさに朝、上天に謀るを

宝満山に高橋公を懐かしむ

山、宰府の後にあり、高橋紹運戦い守に、士卒一りとして敵に降るものなし

大村を封内をすぎ、見るところを書す

満山は黄色く麦が稔り、雲隣に雲が連なっている。
農力は充分で、国は貧しくない
きっと、これは藩宗の礼を譲するところなのだろう。
旅人の馬をひく人、牛をひいた農夫にいたるまで、
行き交う人はていねいに頭を下げて通る。

麦稔る大村藩をすぎ、ここからまた海路の人となる
彼杵から舟に乗って長江についたが、その舟の中でのこと。

たまたま漁船に乗って港をでた
竿でわたる大村湾
水は思わず掬ってみたくなる青さ
むこうに見える山は、
これはもう誰に聞かなくてもわかる
いうまでもなく雲仙である

夜浦上の農家に投宿す

今夜は浦上の農家泊り

藁を敷いただけの寝床には布団はなく
なかなか夢を結ぶどころではない
心尽くしで出してくれたこの浴衣だが
夏というのに、なんという寒さ
窓に貼った紙は全部破れてしまっており
夜空の明かりが入ってくる
幾つかの星が枕の上に瞬いている

豊前、筑前、肥前を経て長崎にはいる

客船で小倉についたのは朝だった。
筑前を経て肥前まで何日かかっただろう
巨海にしばし目を奪われてなんど足をとめただろう
奇山にであうごとに人にその名を尋ね
またその地の食事は珍しく美味である
僻土の人たちは人情が厚く、
行き到って、きわまるのは、華の地
万家は画のようで、舟の明かりが波に漂っている


●133 谷口與鹿 八幡鳳凰臺彫刻

2006年01月03日 | 日本の山車 谷口與鹿
 鳳凰臺は八幡氏子大新町の屋臺。
 工匠、谷口延儔、(與鹿の兄)。彫刻谷口與鹿。浅井和助が手伝っている。
 下臺の獅子は高山の屋臺彫刻中最大のもので、水中の獅子、岩上の獅子、牡丹を白木のままにしている。「高山市史」には工匠與鹿とあるが、鳳凰臺記録に大工與三郎とあって與鹿の兄の作である。「乱獅子渡浪の図」の彫刻は與鹿である。
與鹿が高山にあったとき、京都南禅寺庭園の「虎の子渡し」を参考にしたといわれる。
 この彫刻を與鹿が作ったことについて、疑問視する意見がある。
当時、與鹿は高山を離れていたことから、屋臺研究家は、この彫刻については與鹿の作ではないと否定してきた。屋臺組の主張する意見の分かれるところであるが、與鹿の作でないと否定する、その最大の根拠とするのは與鹿が高山にいなかったことである。
 屋臺組のひとをはじめ、屋臺を愛するいわゆる屋臺きちがいは、一片の疑問も持たないが、史実の裏付けにとぼしく、屋臺組に伝わる「與鹿の作である」という言い伝えだけでは、やはり歯切れが悪くならざるを得なかった。
「この彫刻は、與鹿の作か? 否か?」鳳凰臺組の人たちが、與鹿作であることを主張するのに対し史家はその不在をもって否定する。
 筆者は、與鹿が高山に帰った「寥郭堂文庫資料」を示して、鳳凰臺の彫刻は與鹿が作ったことを証明した。 ところが、あらたに與鹿の手紙が見つかり、その文に、「急いで帰国しなくてはならなくなった……」とあることが、また新たな論議を呼んだ。「高山には帰ったが急いで(伊丹に帰国)しなくてはならない」とあって、「與鹿には鳳凰臺の彫刻はできない」という新説である。
 この新説は、いろいろな方面で引用されているが、誤りである。
與鹿は「飛騨の国のひと」であって、「摂津伊丹のひとではない」。手紙は伊丹から高山に宛てたもので、「急いで帰国……」とは、伊丹から高山に帰国することをいう。
 たいせつなことなので、きちんと訂正しておくべきである。
繰り返すが鳳凰臺の「乱獅子渡浪の図」は谷口與鹿の彫刻である。
付随するが、上町屋臺「五臺山」の獅子も與鹿の作である。一部に諏訪の和四郎とする説があるが、これも誤りである。