暘州通信

日本の山車

●285 日本の山車 亀岡祭

2006年01月29日 | 日本の山車
京都府亀岡市
亀岡祭
亀岡市上矢田町
鍬山神社、八幡宮
祭礼は10月下旬

面降山の東麓に鎮座する鍬山神社の秋季大祭で、古くは旧暦九月一日から晦日までの1ヶ月間行われていた。鍬山神社より鍬山宮、八幡宮のそれぞれの御輿が御旅所に本祭まで鎮座される。鍬山神社の沿革を社伝にみると、和銅2年(709)に創祀されたといい、「延喜式」に記載されている古い神社である。祭神は大已貴命を鍬山大明神として祀り、
永万元年(1165)には譽田神(応神天皇)を八幡宮として併祀している。
9月29日には、藝に優れた人によって猿楽が上演され奉納されたようである「看聞御記」によると、丹波猿楽の本座としても隆盛をきわめたようである。
天正四年六月、明智光秀が桑田郡に入り、亀山嬢を築いたが、このとき鍬山神社の祭礼はことごとく廃止された。また、祭礼の廃止にあわせて神樂、くらべ馬、相撲、猿楽などの祭に関わる娯楽も一切癈された。しかし、明智光秀はこの六年後の天正10年6月2日、本能寺に織田信長を討ったが、つづく山崎の合戦では豊臣秀吉に破れたのはよく知られるところである。亀岡は秀吉の支配となり亀山城主には養子の羽柴秀勝(織田信長の四男)がはいった。その後歴代の城主は、神領を寄進するなど崇敬も厚かったが、岡部長盛が城主のとき、鍬山宮、八幡宮の社殿を造営し、慶長15年(1610)には猿楽が復興された。延宝9年(1681)亀山郷、長杉原守親の記述である、「丹波の國桑田郡矢田郷矢田社之祭法」によると、二十四日のところに、舟造、御鉾飾とあり、同日は樫舟をつくり、鉾を飾ったことがうかがわれる。舟造りとは興味ある表現で、樫舟をさす
「樫舟」は、船中に南社前の榊(賢木)をたて、十人の楽人が大鼓、笛、鼓で楽を奏し今様を謡い、曳く方向を操舵する木挺は四人、曳子は16名であったと記録されており、現在見られる舁山や山鉾よりも前に「樫船」とよぶ曵山があった。
杉原氏の写生図が、四季の祭と年中行事に転載されているが、その挿画には龍頭を掲げる船首、四輪の車輪を持つ、車輪は車軸を有するようで、船腹は幕によって覆われており、下部の幕は波幕いい、波模様が描かれている。その上を覆う幕には大きな鳥(鳳凰か?)が描かれ、唐破風の屋根を持つ御殿風の造りである。
 亀岡の山車の曳行記録である「引き山記」によると、鍬山神社の祭りは、表番と裏番があり、城主が在国の表番の年は、御輿や曵山を場内まで曳き入れて上覧に供し、城主が江戸詰めで裏番となる不在の年は、御輿のみ御旅所まで渡御され、曵山は出なかったとある。亀岡祭の山車は、舁山4臺、曵山6臺、飾山1臺(もとは曵山)の11臺がある。
江戸時代後期には各町内に鉾が造られ、巡行したようである。山鉾の曳き順は、京都の祇園祭と同じように籤引きによったといわれる。山車の囃子は祇園囃子で、口丹波の祇園祭として親しまれている。
 各組の山車記録をみると、稲荷山の御装束箱の箱書きに「寛延四年未年九月吉祥日」とあるのがもっとも古く、寛延4年は(1751)である。
高砂山の御人形箱ならびに道具入箱には「宝暦五乙亥歳九月」(1755)
三輪山の御装束箱に「宝暦七年丑九月寄寄附」(1757)。
八幡山は建造記録があり、
「宝暦十三年癸未年九月、新たに山を造営して八幡山と号奉(なづけたてまつる)とあり、いずれも9月になっているのはその年の祭に、はじめて用いられたことを示しているといえよう。
・八幡山
「山ノ下幕、木綿地藍染め鳩模様」
「水引幕、蜀甲に額龍文金襴」
「見送り、金更紗綴織、牡丹鳳凰文様綴れ様絽刺」(現在は前懸に使用されている)。
この三点は、建造時の記録にあることから、当初の物が今も使用されていることが明らかである。

・稲荷山
・羽衣山
・浦島山
・翁山鉾
・鍬山
・高砂山
・三輪山鉾
・難波山鉾
・八幡山鉾
・蛭子山
・竹内山鉾

[山車文献資料]
・丹波國桑田郡矢田社之祀記
・杉原家文書 樫舟の画が載る
・引山記
・旅籠町会議所所蔵文書
・祇園御霊会細記 全三冊、宝暦七年


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