◆39778 武田信廣
武田信廣(たけだ のぶひろ)永享三年(一四三一)ー明応三年(一四九四)、は室町時代の武田氏の一族ともいわれ、若狭小浜(現小浜市)の大名だった武田信賢の子とされるが異説がある。
宝徳三年(一四二五)、二十一歳のとき若狭をはなれ、同年に三戸(現青森県)の南部光政のもとに身を寄せた。その後陸奥国宇曽利(現青森県むつ市)に移り、南部家から田名部、蠣崎の知行を許されて蠣崎武田氏を名乗るようになった。
享徳三年(一四五四)には南部大畑から蝦夷に渡り、上国花沢館の蠣崎季繁の食将(食客)となり、さらに季繁の養子となった。蠣崎姓
を名乗ったのはこのころのこととされる。康正二年(一四五六)には嫡男の光廣が生まれた。
康生三年(一四五七)に、アイヌによる和人武士館への一斉襲撃があり、コシャマインの戦いが始まった。当初は蝦夷十二館のうち一〇館までもが陥落する敗色の濃い戦であったが、信廣が大反撃に出ると、アイヌ軍は次第に敗退し、ついに勝利を得た。この功績により
信廣の地位は確立し杢之進 ( もくのしん ) 地蔵(室町時代 1462 年 寛正三年には勝山館を築城した。
その後子孫は次第に繁栄し、松前守護職につくことともなって姓を松前氏と改めた。江戸時代には松前氏は蝦夷を支配し、信廣は、その初代とされる。
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◇東北太平記の世界巻之部拾続き~
2008/2/10(日) 午後 3:45
... 次に新田左馬助代法師、浜中務、蠣崎信広が首次に中館左京介、蠣崎式部が首段々と打ちとる。 ... いはく康正二年五月より同三年正月まで渡り来る夷合せて十万百七十狄、此内 ... 国後、択捉、ウルップ島などの島の蝦夷 忍落=にんおち=逃げた。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/tranpo61qp/32232783.html
◇武田信広 ~北海道の戦国時代を先駆けた名将~
2009/2/1(日) 午後 3:28
... 宝徳三年(1452年)二十一歳の時に、家子の佐々木三郎兵衛門尉繁 ... 上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。このとき、蠣崎信廣と改めている。康正2年(1456年)に嫡男光広を生んでいる。 1457年にはアイヌ民族による ...
http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/9516805.html
◇箱館戦争史跡と北海道の城郭めぐり その4
2006/3/9(木) 午後 1:31
... 花沢館跡は、1443(嘉吉三年)、小山隆政の築城と伝えられている。段々に続く郭跡や ... 蠣崎季繁の娘婿で蠣崎氏を継いだ武田信広の子光広が松前の大館 に移るまで居城としていた。大手門や、城内発掘調査されており、整備されていた。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropiyon3309/29154736.html