◆00648 弘前ねぷた祭
□所在地 青森県弘前市
□祭は
□山車
山車、ねぷた。
弘前市に出るねぷたは大型の扇ねぷた、中、小型の扇ねぷた、それに若干の担ぎねぷたで、その数は七〇臺近い。
・茂森新町ねぷた同好会
・堅田ねぷた愛好会
・槌子ねぷた愛好会
・向外瀬ねぷた愛好会
・樹木ねぷた愛好会
・昭和町ねぷた愛好会
・下新町ねぶた愛好会
・桔梗野ねぶた友の会
・桜ヶ丘ねぷた愛好会
・槌子ねぷた愛好会
・西地区ねぷた親交会
・町ねぷた愛好会
・茂森津軽ねぷた愛好会
・鬼沢ねぷた同好会
・向外瀬ねぷた愛好会
・東目屋地区ねぷた愛好会
・富田清水町会青年部
・JR弘前駅前町会
・宮園連合ねぷた愛好会
・本町ねぷた愛好会
・新寺町ねぷた愛好会
・独狐ねぷた愛好会
・樹木ねぷた愛好会
・浜団ねぷた愛好会
・城北ねぷた同好会
・藤代ねぷた
・城南ねぷた愛好会
・境関町会 境関ねぷた愛好会
・弘前銀座街協会
・和徳町大通り町会
・三八町会 大浦町、蔵主町、長坂町、下白銀町の一部
・中野ねぷた愛好会
・小沢ねぷた保存会
・紺屋町ねぷた同好会
・土手町連合会
(順不同)
*企業、団体、こどもねぷたは除外
□汎論
弘前市の夏はねぷたが曳かれる。青森市のねぷたは【組ねぶた】とよばれ、立体的に作った人形が曳かれることから、【人形ねぶた】とも呼ばれるのに対し、弘前市は【ねぷた】と呼ばれ、形態も基臺の上に半円形の行燈を組み華麗な彩色がされる、後部には山車の【見送り】に相当する見事な額絵が描かれる。緻密で妖艶な美人画が多くその艶やかさはひとしおである。しかしねぶたに該てられる、【佞武多・ねぶた】は用いられないようである。
弘前城の南にある弘前市銅屋町には、弘前藩によって祀られた八坂神社があり、祭神はスサノオノミコト(須佐之男命)、クシイナダヒメノミコト(奇稲田姫命)、クサノヒメノミコト(草野姫命)、スガワラミチザネコウ(菅原道真公)を祭神としている。
同一境内には【最勝院】があり、簡単な塀で仕切られている。
もと大円寺別院・牛頭天王と称し、津軽藩が悪疫封滅の祈願所として篤く祀られてきた。明治の神仏分離令でへだてられることになった。
八坂神社は、銅屋町、桶屋町、鍛治町、新鍛治町、北川端町、南川端町の六ケ町会の鎮守であり、六ケ町産土神として敬われている。江戸時代の悪疫流行の説は、この八坂神社が行う夏祭が執行され山車が曳かれた。これが幕末から明治政府への明治維新以後に現在のねぶたへと次第に移行することになった。
□所在地 青森県弘前市
□祭は
□山車
山車、ねぷた。
弘前市に出るねぷたは大型の扇ねぷた、中、小型の扇ねぷた、それに若干の担ぎねぷたで、その数は七〇臺近い。
・茂森新町ねぷた同好会
・堅田ねぷた愛好会
・槌子ねぷた愛好会
・向外瀬ねぷた愛好会
・樹木ねぷた愛好会
・昭和町ねぷた愛好会
・下新町ねぶた愛好会
・桔梗野ねぶた友の会
・桜ヶ丘ねぷた愛好会
・槌子ねぷた愛好会
・西地区ねぷた親交会
・町ねぷた愛好会
・茂森津軽ねぷた愛好会
・鬼沢ねぷた同好会
・向外瀬ねぷた愛好会
・東目屋地区ねぷた愛好会
・富田清水町会青年部
・JR弘前駅前町会
・宮園連合ねぷた愛好会
・本町ねぷた愛好会
・新寺町ねぷた愛好会
・独狐ねぷた愛好会
・樹木ねぷた愛好会
・浜団ねぷた愛好会
・城北ねぷた同好会
・藤代ねぷた
・城南ねぷた愛好会
・境関町会 境関ねぷた愛好会
・弘前銀座街協会
・和徳町大通り町会
・三八町会 大浦町、蔵主町、長坂町、下白銀町の一部
・中野ねぷた愛好会
・小沢ねぷた保存会
・紺屋町ねぷた同好会
・土手町連合会
(順不同)
*企業、団体、こどもねぷたは除外
□汎論
弘前市の夏はねぷたが曳かれる。青森市のねぷたは【組ねぶた】とよばれ、立体的に作った人形が曳かれることから、【人形ねぶた】とも呼ばれるのに対し、弘前市は【ねぷた】と呼ばれ、形態も基臺の上に半円形の行燈を組み華麗な彩色がされる、後部には山車の【見送り】に相当する見事な額絵が描かれる。緻密で妖艶な美人画が多くその艶やかさはひとしおである。しかしねぶたに該てられる、【佞武多・ねぶた】は用いられないようである。
弘前城の南にある弘前市銅屋町には、弘前藩によって祀られた八坂神社があり、祭神はスサノオノミコト(須佐之男命)、クシイナダヒメノミコト(奇稲田姫命)、クサノヒメノミコト(草野姫命)、スガワラミチザネコウ(菅原道真公)を祭神としている。
同一境内には【最勝院】があり、簡単な塀で仕切られている。
もと大円寺別院・牛頭天王と称し、津軽藩が悪疫封滅の祈願所として篤く祀られてきた。明治の神仏分離令でへだてられることになった。
八坂神社は、銅屋町、桶屋町、鍛治町、新鍛治町、北川端町、南川端町の六ケ町会の鎮守であり、六ケ町産土神として敬われている。江戸時代の悪疫流行の説は、この八坂神社が行う夏祭が執行され山車が曳かれた。これが幕末から明治政府への明治維新以後に現在のねぶたへと次第に移行することになった。