備忘録として

タイトルのまま

飛鳥寺

2008-04-21 00:31:08 | 古代
4月16日の新聞に、今韓国で発掘調査中の王興寺が、飛鳥寺と深い関係にあることがわかってきたという記事が出ていた。塔の構造や出土品、瓦の文様が似ていることや、飛鳥寺がかつて元興寺または法興寺と呼ばれていたという寺名の類似性もある。王興寺は出土した舎利容器に刻まれていた文字から百済王の命により577年に創建されたことが判明したそうだ。

日本書紀の法興寺関連記事を列挙すると、
1.崇峻天皇元年(588年)に百済からたくさんの学者、役人、寺工、鑢盤博士(ろばん)、瓦博士、画工らがやってきた。
2.同年、始めて法興寺を創る。
3.崇峻3年に山で寺の木を切る。
4.崇峻5年に法興寺の仏堂と歩廊を立つ。
5.推古天皇元年(593年)に仏舎利を柱の礎のなかに置く。
6.推古4年に法興寺の建設が終わり、慧慈(えじ)と慧聡(えそう)の二人の僧が法興寺に住む。

577年の百済の王興寺の建設に携わった技術者集団が588年に来日したことは明白だろう。
法興寺の伽藍配置は下図(Asahi.comより)のように塔を3つの金堂が取り囲んでおり、日本では他に類がないユニークなものである。


ただし、百済の王興寺の伽藍配置は金堂が一つでこれとは異なる。法興寺の伽藍形式は、高句麗の都(平壌付近)で発掘された清岩里廃寺と同じだという

ここで注目すべきは法興寺に住したという二人の僧で、慧慈は高句麗から、慧聡は百済から推古3年に法興寺の落慶のために来た。その後二人とも日本に留まり聖徳太子の家庭教師となり、太子と慧慈は法興6年推古4年に伊予に湯治に出かけたりしている。

発掘調査による百済や高句麗の寺との類似性と文献による高句麗と百済から来た二人の僧の記述から、飛鳥寺(法興寺)は明らかに百済と高句麗の協力によって建てられたと言える。

ここまでの話は、梅原猛が自著”聖徳太子”第3巻第3章で述べていることで、百済の王興寺の発掘は彼の説を裏付けた形になる。

その後の法興寺に関する話として、推古13年(605年)に仏師の鞍作鳥(くらつくりのとり)が丈六の飛鳥大仏をつくり、本尊として奉納された。法興寺の落慶は推古4年であり、大仏が奉納された推古13年まで本尊がなかったのかということが問題になっている。日本書記には、大きな丈六の仏像を金堂に入れるのに鞍作鳥の工夫で入口を壊さずに納めることができたということが記されている。梅原は、落慶時には別の本尊があったのを、飛鳥大仏に変えたという本尊交代説を提唱している。本尊の交代は、法興寺という寺の性格が蘇我氏の氏寺から天皇の官製寺に変わったことを意味し、本尊交代は聖徳太子が主導したと述べている。このころから、蘇我馬子と聖徳太子はそれまでの密接な同志という関係から距離を置いた微妙な関係に変わってきたという。





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