備忘録として

タイトルのまま

老子

2011-06-05 21:13:46 | 中国

 金谷治の「老子」を読むまで、道教は後漢末の五斗米道の道教教団や魏の世俗から超越した竹林の七賢人などから、現実離れした厭世的な思想という印象しか持っていなかった。老子の説く根本は”無知無欲”、”無為自然”である。でもそれは逆説的で、知識を得ることを否定しているわけではなく、何もするなということではない。何もかもわかった上で、枝葉末節を捨てて本質(道)に生きよということである。孔子の儒教が礼を重んじ形式に堕していくことを批判し、本質論を主張した。老子道徳経は、孔子の「論語」のように具体的な場面でどのように行動するかやどう評価するかを論じるのでなく、抽象的で哲学的で難しい。同じ老荘思想の流れにある列子は比喩を使った寓話・説話が多く庶民的で分わかりやすい。例えば老子に、国家を治めるには民に知恵をつけさせないほうがいいという話があるが、これは老子をきちんと理解しないと愚民政治をすすめているように捉えてしまう。本来老子が言わんとするところは世俗の知恵を超えたところの真の明知(自分を知るということ)に民を導いておけば政治はたやすいということである。為政者に対してもことさらに政治をするなとするが、これは何もするなということではなく何もしなくても済むような状態に予め手を打っておけということなのである。これは孫子の戦争の最善は戦わずして勝つというのと同じ考え方である。

上編 道教 

第一 世界の始源、道は名であらわせない究極の原理(無名=道=始源)

第七 天長地久 天も地も無心であるから悠久なのである

第十七 無為自然の政治 自然とは”おのずから然(しか)りで、他の力に頼らずそれ自体でひとりでにそうであること。儒教的な仁愛の政治も法家的な刑罰の政治もだめで民衆に政治を意識させない政治が最上だという。

第十八 大道廃れて仁義有り 儒教は真実なものが失われた結果生まれたものだ。

第二十 学を断てば憂いなし 末梢的な知識を増やし本質的なものから遠ざかることを戒める。

第二十二 企(つまだ)つものは立たず かかとを上げても長くは立っていられない。大股で歩いても遠くまでいけない。自分の才能を誇って尊大にかまえるものは長続きしない。無為自然の道を身につけた人はそんなことはしない。実力以上に背伸びをしたり、自己宣伝をしたりしても墓穴を掘るだけだ。

第二十三 曲なれば則(すなわ)ち全(まった)し 道を守って万事控えめにしていれば目的を達せられる。前章を受けた処世術。

第二十六 重きは軽きの根たり 軽挙妄動を戒めることば。

第三十三 自らを知る者は明智 自分で自分のことがわかることは、他人のことがわかるよりもすぐれている。他人に打ち勝つのは力があるからだが、自分で自分に勝つのは本当の強さである。

第三十七 道は常に無為 道は常に無名 道を模範とした政治論で、自然な全体の秩序からはみ出すものには、道の素朴なありようを持ち出して民を無欲の状態に導く。

下編 徳経

第三十八 上徳は徳とせず 徳の十分な人は無為を守り、ことさらな仕業をしない。仁愛の十分な人も無為。礼儀というものは徳、仁愛、正義が失われてからあらわれたものであり、そのような薄っぺらなものに身を置かず、道に従って実質を取るのだ。前出第十八の流れ。

第四十 大器晩成 大音希声 大象無形 ”大”ははかりしれない大きさのことで、大器は未完のままでいい、大音は無声に近い聞き取れないほどの沈黙の中に響く真実の声、大象(道)は形がない。大器晩成は大人物の完成には時間がかかる意で使われるが、それは老子の真意でなく出来上がってしまうと用途が限られ大器とは言えず、未完こそ大器としての特色がある。

第四十六 足るを知る 欲望の害の大きさ、満足を知ることの重要さが反戦とともに語られる。

第五十六 和光同塵 才知を隠し世間に隠れる。多言を戒める不言の教えである。

第六十五 愚民政治 前に解説した。

第六十七 三宝の徳 聖徳太子の十七条の憲法の”篤く三宝を敬え”は仏教の”仏、法、僧”であるが、老子では”慈(いつくしみ)、倹(つつしみ)、天下の先にならないこと”

第七十一 知りて知らずとする 孔子は”知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是知るなり”とする当たり前の教訓だが、老子は知っていることでも知らないとするのが上だとする。知ってるとか知らないとかを問題にするな。知を捨てて自らを道に近づけていくのだ。

第八十 小国寡民 陶淵明の”桃花源記”であらわされるユートピア。小国の無為の理想政治が大国に集合していく。

 史記列伝に老子伝がありその素性が記されているが、3つの異伝を載せている。司馬遷の時代にはその素性がわからなくなっていたということである。老子の実在を疑う説もあるらしい。金谷は戦国後期の思想界が活発な時期に老子の書物は作られた(老子その人が存在したとは言ってない)と考えるのが妥当だとしている。老子道徳経は、漢初(紀元前2世紀-司馬遷と同時代)の馬王堆墓で発見されている。そこでは上編と下編が逆になっていたらしい。

 孔子を読み列子・老子を読んで、今、荀子に手を出し頭の中が混乱状態である。さらに孟子、荘子、墨子に手を出すと、頭の中が百花繚乱、百家争鳴の収拾のつかない状態になるのは目に見えてる。列子や老子によれば、そんなことは些末なことで、仕入れた知識はどんどん捨てて和光同塵し道に迫ればいいのだ。でも、ブログを書くこと自体、多言を戒める老子の思想に背いているので道家にはなれそうもない。