梅崎春生(1915~65)の小説に「侵入者」というのがあります。
ある日曜日。「彼」が茶の間でモリソバを食べていると玄関のブザーが鳴る。出てみると見知らぬ男が二人。住宅資料調査社写真班と名乗る二人はずかずかと家に上がり込み、あちこち写真を撮り始める。しかも、狭いだのモリソバが邪魔だのとケチをつけながら。「彼」はうんざりしながらもどうすることもできない。そして、この前電気屋に上がり込まれた時も同じだったことを思い出す。
あの時は玄関のブザーを無理矢理取り付けられたのだ。そいつときたら、玄関に出て行くなりこう言ったのだ。「あんたは何度僕に、ごめんください、を言わせるつもりですか?」と。そしてこの家にはブザーが必要だとまくしたて、さっさと取り付けてしまったのだ。
「彼」はそんな身勝手な「侵入者」に忌ま忌ましさを感じながらもそれに抵抗できない自分にも腹を立てるのです。それは、ほとんど借金で手に入れたその家がどうしても「自分のもの」と思えないことだけが理由ではなく、「彼」自身の性格によるものでもあったと思います。
「彼」がこの家に住むようになって3日目に、一人の植木屋が現れて「こいつはいい庭になりますぜ」と言うと、それから次々に新しい木を植えていくようになる。それはまたたく間に庭を覆い尽くし、しかしよく見ると木の種類がどんどん入れ替わっているのです。やがて、「彼」はある疑いを抱くようになる…。
もう少し下品にすれば(?)、筒井康隆の作品かと思うようなシュールな小説です。この小説は、「彼」の主体性のなさを皮肉ったもの、とされますが、今なら別の読み方もできそうな気がします。土足でどんどん入り込んでくる人々。それを疎ましく思いながらも、強く出ることができない自分に嫌気がさしながらも、どこかでそんな状況を心地よく感じているかもしれない「彼」。こんなとらえ方もできないでしょうか。
先週のドラマ「女王の教室」で、「だれも自分の領分に入ってきてほしくないのよ。誰も友だちなんかほしくないの」といったようなセリフがありましたが、確かにそういう人、そういう子どもたちが増えてきているようです。ドラマで「友だちなんかいらない」と言っていた女の子は親友を亡くしたことや母親に対するトラウマが原因のようでしたが、これといって明確な理由はないのに、殻に閉じこもり、自分を開かない子どもたちが確かにいます。あるいは、そこまでいかなくても、表面的には仲良く「見せる」ことができるのだけれど、実は本心を話せる友だちが誰もいないという子どもはたくさんいますね。
これでは決して「つながり」は生まれません。ときには、「侵入者」がいてもいいのではないでしょうか。「侵入」することを恐れていては、人間関係すら生まれない。「女王の教室」の「神田さん」のように、ズカズカと他人(この場合はクラスメート)に入り込んでいく「侵入者」。その違和感がもしかしたら新しい関係を築くきっかけとなるのかも知れません。
ある日曜日。「彼」が茶の間でモリソバを食べていると玄関のブザーが鳴る。出てみると見知らぬ男が二人。住宅資料調査社写真班と名乗る二人はずかずかと家に上がり込み、あちこち写真を撮り始める。しかも、狭いだのモリソバが邪魔だのとケチをつけながら。「彼」はうんざりしながらもどうすることもできない。そして、この前電気屋に上がり込まれた時も同じだったことを思い出す。
あの時は玄関のブザーを無理矢理取り付けられたのだ。そいつときたら、玄関に出て行くなりこう言ったのだ。「あんたは何度僕に、ごめんください、を言わせるつもりですか?」と。そしてこの家にはブザーが必要だとまくしたて、さっさと取り付けてしまったのだ。
「彼」はそんな身勝手な「侵入者」に忌ま忌ましさを感じながらもそれに抵抗できない自分にも腹を立てるのです。それは、ほとんど借金で手に入れたその家がどうしても「自分のもの」と思えないことだけが理由ではなく、「彼」自身の性格によるものでもあったと思います。
「彼」がこの家に住むようになって3日目に、一人の植木屋が現れて「こいつはいい庭になりますぜ」と言うと、それから次々に新しい木を植えていくようになる。それはまたたく間に庭を覆い尽くし、しかしよく見ると木の種類がどんどん入れ替わっているのです。やがて、「彼」はある疑いを抱くようになる…。
もう少し下品にすれば(?)、筒井康隆の作品かと思うようなシュールな小説です。この小説は、「彼」の主体性のなさを皮肉ったもの、とされますが、今なら別の読み方もできそうな気がします。土足でどんどん入り込んでくる人々。それを疎ましく思いながらも、強く出ることができない自分に嫌気がさしながらも、どこかでそんな状況を心地よく感じているかもしれない「彼」。こんなとらえ方もできないでしょうか。
先週のドラマ「女王の教室」で、「だれも自分の領分に入ってきてほしくないのよ。誰も友だちなんかほしくないの」といったようなセリフがありましたが、確かにそういう人、そういう子どもたちが増えてきているようです。ドラマで「友だちなんかいらない」と言っていた女の子は親友を亡くしたことや母親に対するトラウマが原因のようでしたが、これといって明確な理由はないのに、殻に閉じこもり、自分を開かない子どもたちが確かにいます。あるいは、そこまでいかなくても、表面的には仲良く「見せる」ことができるのだけれど、実は本心を話せる友だちが誰もいないという子どもはたくさんいますね。
これでは決して「つながり」は生まれません。ときには、「侵入者」がいてもいいのではないでしょうか。「侵入」することを恐れていては、人間関係すら生まれない。「女王の教室」の「神田さん」のように、ズカズカと他人(この場合はクラスメート)に入り込んでいく「侵入者」。その違和感がもしかしたら新しい関係を築くきっかけとなるのかも知れません。
NHKの「ファイト」くらいしかテレビドラマ見ないのですが、たまたま見たらナントモ言えん演出のドラマで見入ってしまいました。
「特別の存在」という気持ちをよく見てとれました。誰かにとって自分が、また、自分にとって誰かが「特別」でありたいんだと思います。何についてもたくさんの中から選択するコトのできる時代だから生まれる観念なのかなぁ・・なんて思いました。
そんな社会に慣れ切ってしまった「侵入者」の家主人は、逆にアイデンティティを失ってしまったように感じました。
イエスかノーか、ゼロか百か・・・なんて古いんですかね。。。
みんな「特別の存在」でいたいのですね。そうすることで自分のアイデンティティを確認したいのです。でも「人に認められる」ことでしか自分を確認できないのもなんだか逆に淋しいような気もします。「つながり」が大事と言いながら、言っていることがムジュンしてますが。
※同内容のコメント、1つ削除させていただきました。