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恋を推進する件

(私は既婚者なので)恋をするとか非難轟々となりがちだが、心の中身と実行は別と考えたらいいのではないか。簡単にいうと既婚者でも職場の異性に「片想い」をしようということ。

私事で申し訳ないが嫁は大事だ、愛してると存在だ。でも必ずしも性的に魅力があるかと言うとそうでもない。大事に思っているけど恋してるわけではないのだ。職場でも取引先でも「愛らしい」女性にくらっとすることはある。まぁ恋をするかもしれない序曲なわけだ。そして本当に恋をするかもしれない。で、これって悪いことなのかしら。魅力的な女性とお話をしてドキドキするのは楽しいんだよねぶっちゃけ。

先日、コーチングとやらの講義と実務を受けた。ふーん、私はとっつきにくい外見をしているそうだ、それでもって私は解放的な性格とは程遠く、自分から知らない人に声かけができない、だめじゃん。

それでも「いいなぁ」って女性はいるわけで、片想いくらいはしてもいいんじゃないか。それが出社の源泉にもなるし。モテ男君はそれからステップアップして家庭に、、、とか起こるのかもしれないが、普通は不倫や浮気は男性から持ちかけることが多いであろうから感情の上での片想いを幾らしても事件は起こらない。

と開き直って、恋をしたい、別にターゲットは居ないけど。でも鑑賞に堪える女性とかは居るし、その女性と昼飯をたまに食うと華やかな気分に浸れる。これもちょっとした恋だ。だれもが実践しているとは思うけど。

男性で「堅物」というのは本質的には存在していないと思う。であれば、自制の効いた恋をしてもいいと思うことにする。

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できる人は謝罪できる人、だと思う

標題の件、単なる主観と言うか根拠の無い仮説なんだけど。

個人的なことながら読めは謝罪をしない、謝らない。自分が悪いとは思っていないんだろうなというのは百歩譲って分かるけど、連れに不快な思いをさせたとしても「私が悪くなければ」謝らない。謝って不快な関係をリセットした方が得だと私は思うのだが世の中そうで無いらしい。過去には「wood君は謝るので偉い」と褒められたことすらある。それはどうでもいいけど、相手がある関係においてなんらかしらの行動を協働するには相手に不快の念を与えるのは不利なのだ。自分が悪いかどうかではなく、相手が不快かどうか、その原因が誰にあるかということ。

簡単な例を挙げると電車が遅延して私が待ち合わせに遅れたとしよう。この場合、私には全く責任は無いのであるが、連れは私が来なかったことで不快になる。ここで「電車遅れちゃって」で済ますと連れが不機嫌になる場合もある。遅れたのは電車かもしれないが連れにとっては私が遅れた事実には変わり無いからだ。そして私が謝罪しないことにさらに連れが不機嫌を増幅することもあろう。この時「遅れてゴメン、電車が遅れちゃって」と言えばどれだけ違うか。言い訳野郎と謝罪君の違いだ。ここで連れが不機嫌になるのはおかしいとか、そんなことでは何も変わらないという御仁はこの際ほうっておく。

前置きはこの程度で

「できる」とぼかしているのは仕事を含めた人間関係だけではなく議論なども相当する。仕事での潤滑材もこの謝罪を素直に言えるかで違うような気がする。私個人でもなにかあった(先輩の手を煩わせた)際、素直に「申し訳ない」と言える人のほうが好感が持てる、下手すれば謝罪の出来ない奴は「馬鹿」か「仕事ができない」と判断する。そしてその謝罪は精神的な負担を除けば無料なのだ。そして精神的な負担は前述のように後から「謝罪しない方」が効いて来るので、謝罪はして損はないのだ。もちろん揚げ足取り的に「裁判では謝った方が悪い」という説もあるかもしれないがそんな例は私の生きている限り一度も無い。

これが顧客との関係であれば素直に受け入れられると思うのだがいかがでしょうか。しかし、顧客といえども基本的には対等な契約関係なので顧客に出来る事は全ての関係者・取引先にしても全然損は無い。若い人がプロジェクトを仕切れば、経験したことが無い部署からの突っ込みや、経験豊富な人からの突っ込みも多数あろう。これを主張と相反すること、論理の不備を分けて考え、後者についてはきちんと謝罪しなければプロジェクトは紛糾するであろう。

そもそも論であるが、「謝罪」を屈辱と感じているならそれは誤りだ。謝罪は関係者への精神的なしこりをほぐす行動だから。仮にあなたが関係者・取引先のミスにより不快な念を生じて、謝罪されなかったらどう思うか?また謝罪があればどう思うでしょうか。謝罪をされたから下にみるということは無いと思う。なので謝罪は無料で相手をほぐせるツールなのだ。謝り過ぎるとうざったいけど。

少し話を進めると、blogなどで議論を行うときも論理のズレを指摘されても謝る人をほとんど見ない。なのでお互いが議論の修正を出来ず、違う次元の主張を言い合っているだけで噛み合わない。議論のズレを認める、論理が不備があればそれを認める(=謝罪する)がなければ議論などできないのだ。そして強烈な論理で場を仕切る事は見たことがあっても、がっぷり四つに議論が展開されているのを見たことが無い。

これは「謝罪」=「負け」という一大勘違いと、感情に起因するプライドがそう判断しているのであろう。しかし謝罪の効能は相手が拒絶の感情を持っているとき、議論が出来る状態へ引き戻すツールなのであるから積極的に活用しない手は無い。もう一度言うが「自分が悪い」という観点に立つのではなく「相手が不快になったか」という観点で考えるべきだ。そして身近にそれで失敗した人は掃いて捨てるほどいる。先人の失敗は学んで損は無い。

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クルマって高いよね

車はそこまで金かからないよ~T/O

こういうのって価値観の問題だよね。首都圏で駐車場を借りると固定費が¥1万円/週なんだよね(ガソリン代やメンテ費用の変動費は除く)。クルマの費用効果~だめリーマンの思考法(古い記事でスマソ)

1万円/週というのは徒歩圏で全てを賄える私にとって(買い物にクルマが必要ない)はタクシーの方が安いし、月に一回レンタカーを借りてもおつりが来る。買い物でクルマが必ずしも必要なければコンビにでもタクシーの方が安いのだ。

もっとも「現所有のキャッシュ」をもったいながって使わないという悪弊もあるのだけれど。クルマがあれば気軽にレジャーに行けるがクルマがないと家に閉じこもるとか。

固定費が4.5万/月では変動費である通勤のガソリン代を払ってもらっても全く関係ないのだ。週に1万円あればあんなこともこんなこともできるよね。

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科学原理主義者(?)に因縁を付けられた件

疑似科学批判批判はお「前の態度が気に入らない」~インターネットください

上記のエントリーで過去のエントリー原理主義って迷惑だな~だめリーマンの思考法を名指しで批判されたので言い訳を。このエントリーを簡単に説明すると原理主義が聖典を金科玉条にしているため議論が成立しないことを嘆いたもの。例えば「聖典を守るため」に本末転倒な論理を展開したり、「聖典を批判された」から脊髄反射して見当違いな議論に陥るとかだ。科学にも触れているがそこはキモではない、繰り返すと原理主義社は聖典と言うか原典を批判されると議論が噛み合わなくなる点である

あらためて批判されたことを咀嚼してみよう。ちなみにkuro05氏エントリーはあまりにも短く批評に耐えないので無視する。拙blogとmichiaki氏のエントリーを軸に進めていきたい。

ちなみにmichiaki氏は

>たとえば、はてブの新着エントリーをチェックしていると、アメブロやヤフーやgooあたりで「水が」とか「自宅出産が」とか「ゲーム脳が」とかうっかり書いてしまっているエントリに対して、“ニセ科学”のタグが付けられて容赦ないことばが浴びせられている、ということがある。そういうのを目にするといつもぼくは、うーん、と唸ってしまう。いい、とは思えないから。

と言っているように上から目線で罵倒することに違和感があると述べている。これには私も賛成だ、世の中にはグレーもいっぱいあって、多くの人にはクロとグレーの差が分かり辛い複雑な世界を科学で簡単に割り切ろうとする原理主義的な脊髄反射には違和感を感じるのだ。それは過去のエントリーで直接的では無いが述べてきた。私の主張と共通するのはPRM氏も看破したように態度への違和感だ。

PRM氏がエントリーで触れている4つの疑似科学批判の主張は

1.自分自身は批判対象(例えば水伝など)自体には何の興味もないか、もしくは信じていない
2.人が何を信じて何を主張しようと自由
3.その批判行為に意味・効果があるとは思えない
4.批判する行動自体が気に入らない(目に余る)

このうちmichiaki氏と私への批判は4.しか当たらない。1~3はどさくさ紛れに当てられたという印象だ。私はPRM氏の言うところの態度を問題にしているのであって、また世の中専門を正しく知る事はとても難しい上、商品は業界の大人の事情が存在する。しかもその態度は必ずしも科学的に正しくないことも多い(3.も該当するかもしれないが本筋とは関係ないと判断した)。

PRM氏は少なくとも私の問いかけを

1.元から態度の問題である
2.疑似科学自体には興味も知識もないので印象でしか語れない

と述べる。1.は合意できるのであるが、というかそこが問題であることはスルー。そして関係ない2.が入り込んでいる。

態度が失礼なだけならともかく、間違った批判も多く見受けられる。疑似科学批判批判も豪快に釣られた件~だめリーマンの思考法、参考)インチキ科学報道に釣られそうになった件~だめリーマンの思考法

 

ちょっと話を外れるとこのような罵倒する傾向(PRM氏のエントリーではなくはてなブックマークのこと)、これはまさしく原理主義者の行動ではないかと思うのだ、まさしくこのエントリーに合致する物だ。科学が金科玉条なので内容を吟味せずに脊髄反射する、科学と言うデリケートな問題を簡単に(誤って引用し)人を罵倒する、批判は許さないという態度。また脊髄反射しているので本来の幹の主張とは別の枝葉末節を突付くとか。あえて文の本題を読まないのか読めないのか。これでは原理主義者と言われてもしょうがないと思うんだよね。

なぜこの話にこだわるかと言うと「商品」を扱う大人の社会では原理的に黒・白で割りけれない現実がある。釣られた件で述べたように科学は簡単で無い上に企業のニーズに大学が阿る場合もある。商品の効能はグレーだ。「真っ黒を批判しているのであってグレーは関係ない」と言うのであれば、私の一連のエントリーは私の業界例を念頭に主張しているので全くもって正当である。というか厳密な科学的な良心によれば国民の大多数を裏切っている事は間違いない。逆を返せば付加価値とはそんなものだ。

付加価値を機能と情緒に分ければ情緒の付加価値のほうが圧倒的に高いであろう。機能はすぐに陳腐化するがそうであっては困るので情緒に訴えるのだ。パソコンですらそうなのだからそれ以外の商品がどれだけ情緒にカネを払ってもらうかに日夜努力をしているかは知らないというのでもあるまい。そんなに世の中甘くないのだ。

まとめ:上から目線の疑似科学批判は間違いも少なくなく、原理主義的なので(バイアスがかかり)文章の読解力も低い。その態度はいただけない。

フォントサイズが場所により違うのは意図していません、切り貼りでこうなってしまいました。そこはスルーでお願いします。読みにくいですね、調整します、近日中に多分。

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医療トラブルは絶対に無くならない

飲酒運転の厳罰化は本当に為になるのかなぁ?かなり疑問。飲酒運転をさせないためにはシステム化を検討する、その1つが厳罰化なのは理解できるけど、そうではない方法もあるのではないか。飲酒運転の厳罰化は例えば二日酔いで捕まったら職場は首で懲役、こんな恐ろしいことを望んでいるのであろうか。それよりは賠償金の高額化、例えば物損であれば、賠償金額を被害金額の○倍を認めるとかでも、飲酒運転の撲滅は可能だと思う。ようは「飲酒運転をさせない」システム作りがキモであり、犯人を追い詰めることが目的で無いと思う。私なら二日酔いで人を引いてしまったら逃げる。被害者を助けても出頭しても会社を首になって家庭が崩壊することが自明であれば極小さい可能性でも逃げるほうが得だ、被害者が死のうが知ったこと無い。それよりは出頭した方が得であるシステムを構築した方がいいじゃないか。

2/22日経朝刊25面に「患者の目」というコラムがある。都立広尾病院事件の被害者遺族である永井氏がコラムを執筆している。これがどうにもダメなのだ。

抜粋は彼の主張をスポイルするだけでなく牽強付会になる可能性が高いのでここでは述べない。

しかし彼の主張では医療事故を解決するどころか蔓延するであろう、ようは医療事故を解決するためにはどのようなシステム作りが必要かと言う最も重要なことが抜け落ちているのだ。どんなに再発防止を願ってもなんの解決ももたらせないであろう。彼は医療の側が不誠実だと説く、しかし同時にクレーマーに言及していてそのクレーマーは医療側が創り出したような表現は、解決になんらかしらの意味があるのか。もちろんクレーマーで医療側が困っているのは無視だ。双方にインセンティブをもたらせるシステム作りと言う観点が無いのだ。彼は何故「システム」に言及しないのか。

彼は医療に倫理を問うている。ここに全ての間違いが集約されている。倫理は手続きのルールなどの上位に来ることが無い上、個人個人で厳密ではない。また医療の場合、倫理を持ち出すと大多数の患者の倫理の方がおかしいのは容易に想像が付く、倫理に不誠実な奴らの為にこちら(医療側)が倫理に誠実である必要は見出せない。彼は医療側に「ごまかさない」「隠さない」等を求めているが、それを倫理に訴えて解決すると思っているなら、、、。遺族は感情的になりがちであろうけれども、医療側が隠さなければ何でも解決するという主張には苦笑いというか、経験が生かされて無いのねと思ってしまう。

もう少し噛み砕いて「システム化」と言うことを説明しよう。

例えば、刑法は「××をしてはいけません」というだけでなく「それを犯した場合△年以下の懲役」になることを明記することでシステム化している、そしてそれでも犯罪は起きている。また独禁法など経済犯でも「犯罪が露見した時の課徴金」を定め、これだけではインセンティブが弱いので一番に申告した場合のペナルティ軽減を定めている。システムで犯罪を起こしたら損だというシステムを構築しても「捕まらなければ得」だという人間が後を絶たないという事実をご存知なのか。倫理に犯罪抑止を求めても意味が無い事は自明なのだ。なぜ医療にだけ倫理を求めて解決すると思っているのであろうか。

このように倫理に頼まなくても損得を考えれば皆が自然に守るようなルール(システム)作りが必要だということだ。彼は医療側にだけ倫理を求める。これがどれだけおかしいことかわかるのかしら。そして刑法犯がなくならないように、それでも医療トラブルはなくならない。そして彼の主張するユートピアは永遠に訪れない。

 

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福島は床屋には洗髪設備が必須な件

県、洗髪設備義務化へ~yomiurionline

洗髪設備の義務はメリットがあります(根拠なし)。少なくとも福島県人は床屋でのサービスの均質性と安全性が担保されます(均質性はサービスの選択性を排除していますし、安全性の根拠はありません)。他人の髪が飛び散るのは労働環境にも好ましくありません(洗髪してもカットの時点で飛び散るだろ)。感染症が発生しては遅いという発言(根拠なし)も可能性を考慮すると暴論とはいえません。「()は筆者が揶揄してます。」

以上はネタですが、福島県議会は賛成多数で採択されたらしいけどそんな議員を選んだ福島県人の自業自得だね。既得権益や公共投資など利益誘導を信条とする政治家しか居ないからそうなったのであろう、そしてそれを選んだのは県人だし。請願に忠実な議員を選出していてうらやましい。

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犯罪遺族が死刑を望む報道の価値

私は死刑廃止論者だ、冤罪が否定できない捜査・尋問方法を用いているだけで理由は十分だ。そういったバイアスがこのエントリーにはあります。

星島被告に無期懲役判決 江東区マンション女性殺害事件(朝日新聞) - goo ニュース

星島被告が望んだとされる死刑を押しのけて地裁は無期判決を下した。ここでかなり違和感があるのは「被告が死刑を望んだ」と「遺族が死刑を望んだ」という点である。犯罪に対する刑期は論理的であるべきで、被告本人の感情・遺族感情で流されるべき性質ではない。であれば遺族が「死刑を望んだ」かどうかは一切量刑に関係ないはずだ。ところが報道は遺族の主張を報道する。

仮に遺族が「犯人が死刑であろうとなかろうと被害者は帰ってこないので犯人の刑期に興味が無い」と言えば量刑が変わるのであろうか?また犯罪遺族が死刑を望む声明は概念的には私刑(リンチ)とどのような差があると言うのか?被告本人が「自分が死ねば全て済む」と思っているのであれば罪と罰のギャップはどう埋めるのか?究極のところ犯人が死ねばそれで済むのか?

もちろん遺族の感情として死刑を望むのは理解できる。しかしそれは「感情」の成分だけで論理的ではない。いつぞや介護に疲労した人が親を殺したという事件があったと思うが、同列に「殺人だから死刑」ということになるのか?それとも遺族が居ないから「感情」成分が存在しないため執行猶予でもいいというのか。

繰り返すが遺族が犯人に対して許せないのは理解できる、しかしそれがなんの意味があるのか。犯人が死んでも被害者は帰ってこない、犯人に死刑を望むのは私刑の一形態であると思うのだ。私刑を認める社会であればこれは戯言だが、法律上私刑は認められて無いのだ。言うまでも無く死刑は遺族の感情をなだめる以外の効果は無い(ことも無いが、費用とか)。

嫌な表現だが「遺族が極刑を望む」というのが私刑を求める一形態であるとすればそれを報道するのは違和感がある。不法行為を煽っているという違和感だ。

「死刑を望む」という遺族の発言の報道を過剰に行うのはなんの意味があるのか分からない。私刑報復を奨励しているのかしら、国家を当てにするより仕事人を雇った方が精神的にスカッとしまっせ、みたいな。マスコミは売れる記事を書くのが仕事だから「売れればいいのだ」と言われれば「はい、そうですか」と思わざるを得ないが。

 

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中川財務相の更迭要求は適正か

中川大臣のVTRはかなりやばい。単なる酔っ払いではなく、薬の影響やら精神の健康に疑問符がつくような有体だった。重責に耐えられないのか、単なる一過性の症状なのか分からないけれど、朝になっても体調は戻って無い事は確かであろう。

でだ。中川大臣の記者会見の体たらくをまたもや野党は政局にした。人の健康に気を使うのではなく、「責任だ」みたいな。TV朝日の報道は酷かった、健康問題を任命責任だとあげつらう民主党との共同戦線ぷりに笑える。あの記者会見がかっこ悪いのは認めるとして「かっこ悪い」以上の何かはあるのか?中川氏が財務相の重責を担えなくて辞任するなら分かる。しかし、あの程度の失態を問責決議案で論(あげつらう:らしい)うのは異常。健康問題やそこらで党首討論などを逃げたてた小沢氏の言葉は水素よりも軽いと思うのだ。

もうひとつ愚痴を言うと何故麻生氏は中川氏を守り切れなかったのか。中川氏の辞任の理由が健康問題として処理するのであれば納得できるが中川氏は閣僚会議の空気を読んで辞任を決めたと言っている、一方麻生氏は「健康上の理由だと聞いている」と述べた。あーあ、麻生氏は職を賭して仕える上司では無い事が判明した。守るのであれば守る、辞めさせるのであれば配慮をする、その両方を麻生氏は面倒見なかった。

これらは自民党の失態であって、日本の失態では無い。体調が悪い閣僚の任命責任を問われるのは過去現在存在しない。まぁ党首本人が消えたことは近々であったような気がするが。その病欠野党々首はまたもや政局に持ち込もうとしている。

 

なんか頭の中が整理できていないのでだらだらしてきた。

中川氏には罷免に相当する失態があったのか?野党は追求したいようだが何を追及するのか?政権はそれを追認したようだがよく理解できん。

 

2/18追記:中川大臣がアルコール依存症という説が多い、行動履歴を見ても説得力がある。

参考:「中川辞任劇」はマスコミの自作自演~木走日記

メディアの見識中川さん問題に関して~Chikirinの日記

 

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牛丼と卵ご飯

昨日はカニスキを食した。嫁が蟹をほじるのが苦手で料亭のように鞘剥きをして供する。出刃があれば慣れると脚の削ぎ切りはお手の物。昨日は生のズワイが無くてボイルであったがまずまずでかいのが安く手に入り(1杯1,000円)、ボイル物で我慢。

昆布出汁をとり調味した(昆布出汁C5、薄口大1、酒大4、塩小1)後、食さない蟹の足先などの部分を切れ目を入れて出汁として投入。その後野菜が煮えたら蟹脚を各自投入。〆は蟹雑炊だ。美味い。

本題に戻ります。私は卵ご飯が好きだ、でもちょっと変わっているらしく白身を抜く。あのべちょべちょ感が嫌いなのだ。黄身のまったりした感じだけを食したいのだ。殻を割って白身を除去し、黄身だけを飯に乗せ、醤油を垂らしてかき混ぜる。黄身の濃厚な味と醤油の塩気がマッチして、「卵ご飯はこれじゃなきゃ」と思う。

思えば修学旅行を初めとした友人との旅行での旅館朝食でわたしのような行動に出た者を見たことが無い。かなりのマイナーだ。白身を捨てるのがもったいないという意見もあるのだが、白身を捨てたことにより何かを追加するわけでも無いので問題なしであろう。もちろん罪悪感も一切なし。

で、この卵ご飯を牛丼弁当に応用するのが良いのだ。店で牛丼を頼むのではなく、牛皿と飯が2階構造となっている牛丼弁当(マツヤの場合)を家に持ち帰り、飯は(白身抜きの)卵ご飯をつくり、上から牛皿を載せるのだ。これが美味い。飯はまったり加減で、牛のみ・飯のみ・アンサンブルのオールOKなのだ。白身入りの卵ご飯では牛皿の汁とでべちゃべちゃになることは予想されるので避けた方がいい。牛皿とのコラボは白身抜きの卵ご飯で無いとありえないであろう。

当然応用もある。「白身抜き卵ご飯」はべちゃべちゃしていないので具材の載せへの耐性がある。佃煮は定番過ぎるが、カレーでもなかなかのもの。

みなさんお試しあれ。

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相模原市の区名が恥ずかしい件

相模原市の区名が決まった(相模原市行政情報)、緑区・中央区・南区だ。んだけど、区名を募集していたのだが、その結果は載せられず(11/25の議事録はあるがアンケートの結果は記されてない)、抽象的な他市にもある区名からの選択の結果このようになったらしい。地名は全く無視だ。どこが特徴のある街づくりなのか、看板から違うことを証明してしまった。またその抽象的な方角または瑞祥地名選択に至った径はスルー。

第六回(11/25)の議事録を読むと区名を地名にする気は無かったようだ。例えば緑区には津久井区はどうかとある。旧津久井郡(津久井町・城山町・相模湖町・藤野町)を吸収したので面積は大きいが、市の窓口は橋本という市内で一番乗降人数が多い駅橋本にある。橋本は大山街道の宿由来の名前で地名として新しくは無い。橋本住民に配慮したことが明記されている。まぁ橋本区でも津久井区でもいいとおもうが。

さいたま市騒動の前に大宮市に住んでいたがあれほどDQNは無いと思った。埼玉はサキタマであり、もう少し上だし、純正の地名で無いから平仮名なのかと。まぁだからといって「ださいたま」をストレートに実行することも無かろうにと思ったものだ。

 

議事録では東京都のように区名で住所が分かることも重要との認識も持っているが、結局他市と同じ区名もやむなしと言う結果になったようだ。他市との区別と言う利便性や特徴よりも住民感情を優先したということか。また会議の際にアンケート結果の資料がある事が伺えるが公表されていない。

緑区などと言う名前は横浜・千葉・さいたま・名古屋を見るまでも無く最も恥ずかしい区名だが分かってんのか?まぁ最強の緑区はゲットできそうではある。 

 

まぁ平仮名でないだけ良かったと思うべきなのか。

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やっぱ二院制の方がいいんじゃね

政治学も法学も勉強したことも無いので知識も無く、その方面の論理トレーニングを受けているわけではないので、論理が無茶苦茶だと思うがそのまま便所の落書きを書き散らす。

麻生劇場は小泉劇場とは違った意味で面白い、いやぁ面白がっててはいけないのでしょうが。小泉氏でなくても呆れます。郵政民営化で衆議院議員の2/3を取ったのを忘れてるんでしょう、しかも総務相だったということも。

為政者でもこのような勘違いが起きる。しかも問題があっても引き摺り下ろす方法は無い。ということは様々なチェック機能を国会に仕込むのがコストはかかるが妥当な方法なのであろう、二院制が要不要を議論されている件。

世論や国会を見てると(1)衆議院を握った方が強い、(2)直近の選挙で勝利した方が有利、(3)衆議院で2/3をとれば圧倒的有利、(4)衆参の両方で過半数を抑えると圧倒的有利という図式が浮かび上がる。今までは(4)のケースが多かったわけだが政策論争を不毛にしないためには(1)、(2)も重要な観点だ。今まさに自民党が風前の灯らしいが、独裁体制で意見ばらばらの民主党に(4)の状態を握らせて大丈夫かとも思う。ことあるごとに政局に持ち込もうとする民主党はせいぜい(1)か(2)程度の政権担当能力しかないとも思える。しかし前回の参議院で過半数を握ってしまったので(1)(2)共に有り得ない。それでもパワーバランスを配慮する事は可能であろう。

これが一院制ともなると(1)~(4)のパワーバランスが存在しないことになる。4年に一度の選挙で全て決まり、さらに総理が阿呆だと困るわけだ。民主党(別に自民党でも同じだけど)に一旦政権を預けるともうチェックというかバランス機能が機能しなくなるわけだ。これではおいそれと民主党に政権を任せられない。逆に言えばねじれ国会であれば安心して民主党に政権を預けられるわけだ。仮に民主党が無茶をしても衆院選は4年に1回、参院選は3年に1回なので、次の選挙が衆参どちらでも(2)の論理でブレーキを利かす事が可能になる。

国民が合理的であれば(1)~(4)でバランスよく配置することが可能になる。また社民党や共産党のようにチェック機能を組み込むことも可能であろう。

民主主義に効率を求めてはいけないのかもしれない。チェック機能をいかに作動させる仕組みづくりの方が効率に勝ると。選挙は国費を浪費するし、国会議員が多すぎれば歳費はかかるが与党の暴走を抑えるコストと見做すことが出来る。さらにジャーナリズムとネットの言論の多様性が心もとないのだから余計に感じる

 

2/18追記 こんな意見もあるようです。参議院は不要ではない!与党の一院制導入に反対する~DIAMONDonline

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科学の正確さに馴染めない件

私はニュートン力学をこよなく愛している。f=maは最高に分かり易いと。でもこの式の意味するところはmが一定だとするとf→∞の場合aは無限大になるわけで、ということはその物体の速度vは無限大になる。しかしこれは観測された物理現象と矛盾する。まぁ古典力学ってやつはこんなものだ。

こんな厳密には正しく無い式でも違和感無く利用しているのは私が工学部機会工学科出身なのだからではないか。機械科は原理式に極めていい加減で(古典力学さえも)、物理学科とは対極をなすようなところがある。例えばすぐに近似式に当てはめようとするし、級数分解して上位2項から下はぶった切るとか普通。なので物理学的な厳密さよりも扱いやすさの方を優先するのだ。

仕事で実際の商品を企画するに当たっても、品質を担保するにも統計学を駆使することになる。統計学は論理的な事象を扱うので理論的な事は究極的には関係ないのだ。クレーム対策には原因の仮説を提唱してそれを論理的に証明するというステップを踏むことが多い。仮説は理学に基づいた機序を用いて立てるが、その担保は統計学に依存している。およそ理学的でない。

工学部出身(これは大きく括りすぎか?)の連中はこのような思考回路なので科学的な正しさは一切眼中に無いのだ、工学的な正しさは必要だけど(例えば古典力学)

科学的な正しさを追及することに違和感を持つのはこの辺りにありそう。機械科は好んで近似式や古典力学を用い、科学的に正しく無い方法で物事を解決する知恵を望まれているからなのだ。だからといってとんでもを許容しているわけでは無い事は一連のエントリーで述べている通り。

そして一連のエントリーで述べている通り、商品情報のグレーゾーンは広大で「コラーゲン」に釣られそうになったのは述べたとおり。とんでもは純度が高くブラックだという意見もあるが業界には真っ黒な商品もいっぱいあって、多分業界ではない素人には区別はつかない。科学に精通している人でもグレーとブラックの境目は分からないであろう、素人にはいわんやおやである。

科学リテラシーは重要だと思うが専門が変われば分からない事は多数であり、「俺は科学に詳しいぜ」的なノリはかなりかっこ悪い。と思うのだ。

 

それでも質量と荷重という概念の違いを理解できないのには憤慨したりもする。

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公務員は無駄遣いをしているか

昨日の続きです。今回はお金の件。

過去に道路特定財源でマッサージチェアだの麻雀パイを買っただの、関連団体が昼食補助を受けていたと批判を受けていたがその批判はあまりにも真っ当でない。だいたい民間でも手当てや厚生施設があるでしょ。そんなどうでもいいことを批判しているから批判耐性が付いてしまい本当の汚職と現実真っ当な境目がなくなってしまう。みなさんも住宅手当を初めとした手当てや組合とのもたれあいの厚生施設、慰安旅行の援助など貰ってるでしょ。慰安旅行の補助を貰うという事は会社のカネで旅行に行き、酒を飲んでるという事実を無視してよく言うよ。もうちょっとましな公務員批判が出来ないものか。

昨日はいわゆる「お役所仕事」というものは理由があり、迅速性を期待できない代わりに間違いを起こさないような究極の文書主義だと述べた。

次によくある批判は「公務員は無駄遣いをしている」というもの。これもまぁ否定は出来ないであろう、市役所程度の小さな組織でも保健課が、教育課が、環境課が公園予算をお互いに申請して通ってしまったというような話はごろごろしている。ではそれに対するチェック機能は無いかといえばあるのだ。それが前回も述べた文書主義の利点だ。だからこそぞろぞろと出てくるのだ。ようはチェック機能が働いているのでまともと言うことを証明しているに過ぎない。

現代ではWebで文書も公開されているので、政党や民間団体が監視可能なのだ。また市長は市民がリコールも出来る。原則的には無駄遣いを起こさせないようにすることも行政には織り込まれている。「誰にでも分かる無駄遣い」というものが存在するのであれば、文書をチェックしてマスコミや議員に訴えればいいのだ。

「公務員は無駄遣いをしている」と言う批判は実例を挙げて告発すればいい話なのだ。公務員を信用できない理由にはならない。マスコミが連日そのような事例を報道しているのでそういうものだという思い込みに過ぎないのだ。

と思っていたら、国と地方に眠る14兆円を吐き出せ~NBOnlineが出てた。記事ではNPOが2重3重の行政が存在し、仕事を棚卸することで財源が浮くと主張する。これも公開された文書を日々チェックをしたのでこのような記事が書けたのであろう。

縦割り行政の弊害も有るかもしれないがそれをチェックする機能が備わっているのだから「公務員は無駄遣いをする」と決め付けられるのもおかしいのだ。

しかし、特別会計だけは別物だ。また漢検などの財団法人も然り。共通するのは財務が公開で無いこと。先に述べたチェック機能が働かないところに問題がある、こんなところにびた一文でも税金を投入するべきではない(と言い切るのは大げさだけど)。昔は財投などと言うとんでもない存在があったが小泉氏がぶっ壊してくれたおかげで相当風通しが良くなった。

またもと国営企業の民営化への妄信も見受けられる。民営化は資本に対する配当を株主がチェックする。非合理的なところに投資をしたり、意味無く現金(株式等金融資産)を溜め込んだりすると配当に回せと株主からチェックが入る。国が株主であればそのチェックが働かないので赤字にならなければいいという経営感覚を誘発したり、黒字は従業員に還元して配当に回さない恐れがある。株主のチェックの働かない民営化なんぞくそ食らえだ。例えばNEXCOなどはグループ会社でSAなどの運営を委託しているが国が株を持っているから出来る暴挙なのだ。そして彼らが天下り先であるグループ企業に発注するのを倫理的にはともかく法的には問題ない。彼らには利益よりも大事な物があり、利益を求める存在もないからだ。いや官僚は天下り確保の為に国有民間企業の不正を見逃しているかもしれない。

問題なのはチェックできるかどうかであり、その仕組みが整っているかと言うこと。整っていれば個別に告発すればいいこと。チェックできなければ仕組みの問題なのでそこを問題にすればいい。個別ならともかく漠然と「公務員は無駄遣いする上に、仕事が遅い」などのように「公務員は○○」と言ってもなんの解決にもならない。

 

公務員は首にならない上、独特の雰囲気があるようで大阪府などを見ても真面目にという感じがしないこともない。それには首長を替えて改革すれば良いだけの話であって、公務員の自助努力に期待するほうがアホというもの。無駄遣いをするか、仕事が遅いなどとは本質的には全く関係ない。

日本の未来が見える村~NBOnline

**NBOnlineの記事にインスパイアしたわけではないが被ったので利用させていただく。単なる言い訳だけど。

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公務員に効率を求める矛盾

標題の件、私は公務員ではないので妄想のネタです。

常々思うのは業務の文書化の効率性における妥当性だ。ISOを取れば大きい会社では専任の人が1人では無いであろう、ISOの基本的な考え方は文書化であり効率よりも間違いを恐れる。効率化を急ぐ余り現場での意思決定は間違いを引き起こすことがあり得る。効率化やスピードは間違いや意思決定を冒すリスクと反比例するのだ。

少し具体的に考えよう。品質の一定しない製品を作っている現場の課長が歩留まり向上のために仕様を少し変える権限を持つとする。すると生産性を重視する余り、本来仕様に求められている性能をスポイルするかもしれない。またユーザーが「これは頼んだ製品と違う」とか言われかねない。また現場の課長が大チョンボしたときの責任の帰結が分からなくなり組織が制御できなくなる。

小さい組織であれば現場の課長は読み誤らないであろう、しかし関係する部署が多くなると開発途中にも突っ込みたくなる「それでは売れない」と。製品の仕様やコストの掛け方、設備投資は多くの部署に影響が出る。その進行が透明で無いと、間違いや流行の変化を指摘できない。そのためにも文書は必要なのだ。しかし文書化はコストや時間がべらぼうに掛かるのは事実。

文書を滑らかに通すために根回しも必要になろう。いきなり奇抜な提案をするのではなく、根回しをしてその奇抜な提案を理解してくれるかを小出しで反応を調査して、そのままの仕様で行くか少しマイルドに調整するかという判断が製品を上市するには必要であろう。各部署における整合性も必要なので各部署向けのペーパーも必要だ。

要は間違いがなく、間違わないと理解させ、他部署にも得だとアピールし、かつ誤謬が無いことが重要な場合、文書は非常に便利なのだ。

もうお分かりであろう、公務員は文書化の権威なのでこのようなことが行われていることが想像される。省庁や役所のWEBサイトには文書が盛り沢山で、非常に親切だ。そして矛盾があってはならない。

公務員に効率性を求めるなら、これらの文書に対する正確性や誤謬はスポイルされなくてはならない、というか両立は無理。

この文書化によって間違いや税金の無駄遣いが分かるシステムになっている。だからこそ議員や民間団体が文書により無駄を指摘できるシステムが構築されている。公務員に仕事のスピードを求める事はこれら文書化を否定することであり、透明性をスポイルする主張と言わざるを得ない。また各部署の整合性を重視するので予算がもう既に要らない状態になるのは仕方が無い。文書でやると言った以上やるしかないからだ。公務員の知見で勝手にやらなくていいのならそれはもっと困ることになるであろう。

「予算を使い切る工事」という批判もある、効率が非常に悪いと。しかし予算と言う性格上均等に使い切るのが良いのか?年度末に地震などの災害がでても「もう予算がないから」で放っておいてもいいのか。地震が特別だというなら、道路に穴があいても「もう予算使い切りました」という理由で放っておいてもいいのか。家計でも不備の事態を想定して貯金をするものだが、役所の予算は単年度なので年度内貯金が必要、そうすると工事が年度末に集まる必然性があるというもの。優先度の低い仕事は年度末に回すという知恵なのだ。

上記はアルバイトを半年でもすると分かるような気がするのだがどうであろう。あまりに程度の低い公務員批判は公務員の批判耐性が付くだけであり、モラルを下げるだけだと思うんだよね。

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護憲派が残念な件

僕は昭和40年代生まれでがちがちの「平和憲法賛美」を教育されてきた。高校ぐらいまではそれを真剣に信じていた。まだ革命戦士の生き残りが大学で見れたのだが平和憲法至上主義という概念はそれでも理解できなかった。

そして最近のインターネットで情報を得られる時代になり益々「護憲派」に論理性が乏しいことが暴露されてくる。例えば経済学大好きな人は経済学が理論的であればあるほど、実験にて整合性が取れていれば取れているほど「私の言う事は正しい」オーラが出てはいるが少数派である事は理解しているらしく、対応としては謙虚だ。政治の方針にいくら理論で効率的でも選挙で負ければ意味が無いわけで。

しかし護憲・非戦派は理論が美しく、陶酔し易いらしく論理闘争が極めて下手糞。理想論として美しいのは理解できるけれども「現実はちゃうやん」という指摘にあまりにも無防備なのだ、そして理論的な美しさがあるが故に論理闘争を避けると言う現実がある。

旧護憲派としてはこれではいかんと思うわけだ。

平和憲法が論理で負けてもいいじゃないかと思う、より現実的な平和を理想論で語るということがあってもいいんじゃないかと。それには現護憲派は弱すぎると言うか憤死しろと言うレベル。要は九条が原典化してしまい、原典化と言う事は宗教になっちゃったのだ。九条ならびに日本国憲法が原典化したので原典であることを目的化した論理が跋扈していると感じるのだ。それはまさしく宗教だ。

世界平和の基準は60年前とは違う、そしてその技術(法の運用等)が固定化している時点でナンセンスと断言しても間違いでは無いであろう。平和に対して「日本国は侵略戦争はしない」という点だけを見て、世界平和に貢献できなければ平和を語る資格が無いというものだ。九条派はそういった自己矛盾を内包している。

既に九条・護憲派にとって「平和」は陳腐化している。そしてそれを受け入れるべきであろう。論理の原点が間違っていると認識すべきであろう。また彼ら自身で「平和」の定義や平和へのプロセスの方法論を真面目に考えるべきであろう。彼らはあまりにも考えなさ過ぎた。リベラルには期待している。でもこの爆弾を抱えたリベラルには政権を預けられない(小沢氏は保守本流だとしても)。

彼らは①国民が期待していることを実現したいのか、②自分たちのパラダイスを作りたいのか?が良く分からない。自分たちのパラダイスを作りたいのであれば少数派閥に甘んじていればいいと思うし、国民のもやもやを解決しようという高尚な趣旨があれば国民の言葉に耳を傾ける必要があると思う。護憲原則主義で議席を減らした社民党は多数の国民を説得しようとするのかということ。

ちょっと妄言。私自身はサヨクの考え方は割と好きだ。なのでだからこそ現実的な論点で論争を行って欲しいというか、理論構築をして欲しいものだと思うのだ。少々のぼろがあっても理論の美しさでカバーできるのに(現在は全然出来て無いというか馬鹿丸出し)。

本当に残念なんですけど。

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