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原発の価格優位性

今後原発が衰退するのは間違いないと思われる。なので逆張り理論を考えてみる。
このエントリーは政治的な環境を無視した論理で論じていることを御留意願います。

まず、背景であるが地形的な問題もあるのであろうが、やらかしたのは東電だけであるという事実である。柏崎原発も福島第1も。一方東北電力の女川原発は問題なく休止したとの事だし、過去もんじゅや東海村など開発機関、当人である東電、原発を持たない沖縄電力を除く8電力会社で問題は起こっていない。今回も東電の体質を指摘されているので、原発反対グループが東電の隠蔽体質を加速させたという仮定で論じてみる。

(原発反対グループの趣旨には違和感があって、例えば「絶対安全」というような要求をしていると理解しているがそもそも存在しない絶対安全を要求すれば嘘をつくか誤魔化すかという回答しか得られないに決まっている。当然情報の開示やそのプロセスも慎重にならざるを得ないであろう、そういうのが身に染みてると感じる。当然の帰結である。さらに最近は検査装置の高精度なのでなんらかしらは検出できる。)

まぁ日本も世界の趨勢は脱原発ということであろう。途上国ではなく科学技術立国『日本』がやらかしたのだから。

 

一方で原発の発電コストは安くないという意見もある。ちょっとソースを忘れたけれど揚水発電(=電池)のコストが反映されていないという趣旨にはそうかもなと感じた。
ということは火発に需要が殺到することになる、石油・ガス・石炭だ。多分それは世界的な分捕り合戦で、石油価格高騰を招くであろう。当然電力単価は上がることになる。

 

火発の相対的競争力が落ちれば原発の相対的競争力が上がる。今回の問題は東電の問題なのか原発の問題なのかを検証する必要があると思われるが、仮に東電の問題であれば東電を解体すればいいことだ。そうでなければ各原発は地震の揺れ以外に津波要素を勘案して付帯設備の再設計をすればいい。この問題を人災だとするとすれば他の原発は生かすべきであろう。
逆に人災でないとするのであれば、設計基準の見直しをしなくてはならないであろう。

 

かなり脱線。

関東人は節電を割りと徹底的にして計画停電を阻止している、ところが本質的には電力が足りないのは明白だ。夏の通勤電車が自然換気とは絶望感が頭によぎる。
この計画停電を実施するにあたり電力価格に市場原理を導入すべきという声がある。まぁ関東の電力はそれで足りるかもしれないけれど関東の電力が地方の3倍になれば工場が逃げ出す、それこそ市場原理。なんかなぁ。

 

話を元に戻す。割と東電を除くと原発は安全であるという見解も可能である。オペレーティングや(外野が結果的に望んだ)隠蔽体質の問題だったりと。例えば浜岡原発では「地震による被害」というのを心配してるけれど、実質地震の被害は柏崎の付帯設備だけでその対応をとれば問題ないという結論が導き出せる。また津波による被害を再検証して問題であればとめればいいし、問題がなければ続行・新設で構わないはずだ。

標題の件、火発コストが上がるのであれば原発コストは相対的に下がる。
理由:世界的にfukushimaが注目されているらしいけど、それにより原発の価格優位性が上がるのであれば今現在で計画を遺棄する必要は無いと思う(凍結や延期は当然だと思う)。

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被災者はどこに住むのであろう

あの瓦礫の山を見て復興が大変だなぁと思ったのだが、ふと彼らはあそこにまた住むのかという疑問がわいた。

 

日本では以前から台風・噴火・地震・津波と数多い天災が見舞う地だ。そんななか人口密度が結構高く、天災にめげずに国土の開発・改修を行ってきた。そんなことは出来るはずはないのだけれど、天災の起き易い地形・地所があって、やはりそこには昔から人が住んでいる。今回は未曾有の天災であったが三陸地方は明治三陸沖地震をはじめ400年で15回以上も津波が来ている(Wikipedhia使えねぇなぁこっちを参照)。26年に1回津波が来ている計算で、直近では1960年のチリ地震が有名だ。

津波とは違うのかもしれないけれど「島原大変肥後迷惑」という語がある。雲仙普賢岳の噴火は記憶に新しいが、あんなもんではない被害があった、死者15千人でうち津波の被害が1万人だそうだ。

論理で冷たくあしらえば「なんでそこに住むの?」ということになるのだが、、むなしい。というより過去の記録から天災の少ない地域は不滅の京都くらいか。さすが「京の都」。太平洋沿岸は津波と台風による高潮・洪水があるし、関東も震災や富士山噴火とか、九州・四国は水不足と台風に毎年怯えるし、北陸より北の日本海沿岸も雪害や津波・地震がある。安全な地域などほとんど無いということに愕然とする。むなしい、、。

 

よく「想定外」を非難する向きがあるけど、何か設計するには何かを想定しなくてはならない。例えば飛行機の機体にかかる荷重の安全率を100倍見積もると多分重くて飛べなくなる、だから飛行機は乗らないというのも簡単だ。また、100km/hの速度で衝突しても安全な車を設計することも出来るであろう、それはクラッシャブルゾーンを大きく取った馬鹿でかいクルマになる。震度10、津波20mに耐える住宅も設計上は出来るであろう、、、全てコストの問題なのだ。

僕が大学に入学した最初の専門授業は材料力学では家の梁の太さやエレベーターのワイヤーの太さなどの計算をさせられる。これはコストと安全のバランスを取るためであり、それを無視すればコストがかかるだけでなく、先に述べた飛行機やエレベータのワイヤーの太さ・長さのような問題は「不可能」という解が出る(エレベータのワイヤーも自重を自分で支えるので極端に大きい安全率は設定できない)。「想定」があって始めて妥当な安全率があるのだ。もちろん想定や安全率が間違っていることがあっても不思議ではない。しかし「想定を超えても安全を」というフレーズには設計という概念が欠落している。想定(含む安全率)が存在しない限り設計が出来ないからだ。

 

話を元に戻すと、三陸地方は100年に1~2回は大津波が来ると考えた方が良いと思う。ここで考え方なんだけど「津波に耐える街づくり」か「津波を避ける街づくり」の選択をしなくてはならないと思う。
「津波に耐える街づくり」とは津波が来てもびくともしない基礎を持った高層鉄筋コンクリート、流されてきた瓦礫が建物を守るように広い道路などのイメージだ。多くの小学校が津波に合いながら助かった事例を想定している。低地に戸建ては設けず全て鉄筋集合住宅にするということだ。
もう一つの「津波を避ける」とは高地に住むということだろう。北海道太平洋沿岸では高地に団地を作って、漁師は沿岸までクルマで通うという地勢的リスクを避けるモデルがある。高地に山地を削って住むということだ。

彼らがどんな選択をするのか分からない。見守ろうと思う。

 

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スーパークールビズというか夏季商戦の雑感

そういえば1980年代は通勤電車にエアコン車が普及してきた時代であった。子供心に電車がエアコン車だったらラッキーとか言う世代。営団はトンネル全体を冷やし、車両の窓は開けましょうという時代、しかもインバーターとか無くて抵抗器で速度変化を行う時代。くそ暑かった。エアコンが普及し終わったのは1990年代であろうか。

まず間違いなく今年の首都圏の夏は通勤電車が過去に戻るであろう、ひ弱な通勤戦士が絶滅した現在、体調不良続出なのかもしれない。そういえばそもそも夏ばてという言葉の真実性が無くなって10年以上経つけど、夏ばてが増えるのかも。

3/25の日経朝刊では夏場に1500万kW足りないとのことなので、「涼」をどれだけ演出するかということである。ネクタイはおろか開襟シャツで許してよって感じだし、半袖シャツを着て肌が密着するのも嫌だし。どうせ職場も労働基準法ぎりぎりの26~28℃設定にするんだろうし。座席に扇風機は必要だね。

 

そうなるとデオドラント商品や洗濯商品が増えるとか、シーブリーズや制汗剤や洗濯洗剤、他にも扇子やハンカチ、いろいろと商機はある。衣料・下着だって汗染みが目立たないとか、一層クールとか。涼しい寝具もいいかもしれないし、スタミナ食品もありか。商機はあるのだ。

関東という日本の人口1/4を抱えた地域で消費志向が全く変わる可能性が高いということである。今は消費がしょんぼりしているのかもしれないが(先週の全国POSを見ると案外そうでもないのでびっくりした、逆に言えば関東・東北でたった1/3なのね)、今まで必要だったものとこれから必要なものが違うので消費が増える可能性は高い。

 

どうも23区主要地域と鉄道は計画停電の影響は無くすのであろう。となれば通勤は今までどおりである、まぁ妥当な決断であろう。逆に言えば23区外に工場があって、商品の生産に24h以上かかる産業は大変というか壊滅であろう、例えば醸造系の納豆などだ。

 

前記事でスマートグリッドの推進(非効率な小力発電の分散化)しかないと述べたがどうもアゴラが先に言及されていたようだ。まぁ彼はメーターで何とかなるとの指摘なのでちょっと異なるが。
それでも総発電量を上げないとならないであろう。市場経済派が「電気の値段を上げて調整すべき」と述べているが、僕も基本は同じ。スマートグリッドと小規模発電を推進するのであれば、高コストの小規模発電よりも電気代が高くないとそのインセンティブは存在しない。非効率小規模発電で乗り切るという判断であれば、電気代は発電代より高くなくてはいけない。

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スマートグリッドが加速される

今後原発の建設はおろか再稼動も難しいであろう、また一方で第3回国際エネルギー閣僚会議で石油火力発電所の新設禁止が盛り込まれている。3/25日経には冬までに電力の供給が段階的に5500万kwまで増やされるとあった。

基本的には発電所は増えないので根本的には電気は好きなだけ使う時代は終わった。燃料電池のエネファームがコスト的に合うかどうかは分からないけど。例えばブレーカーのA(アンペア)で基本料金を改定するとか電力量単価を上昇させることでスマートグリッドを加速させるしかないでしょう。産業でもコストを勘案しながら自家発電は行われるでしょう。効率は多分ものすごく悪くて、でも停電リスクを考えると、、、どこぞの後進国状態である。

スマートグリッドは電力網の高機能化という概念だけど、初期コスト運用コストが半端ない。太陽光発電や燃料電池は馬鹿しか相手にしないレベルであろう(参考)。もちろん全世帯で政府補助は有り得ないので東京は世界一電気代が高い事態となるであろう。代替案がないのだからそれこそ仕方が無い。
そしてスマートグリッドは壮大な無駄遣い(効率が悪い)の可能性があるのであるが、無いものは仕方が無い。計画停電でエネファームが止まってしまっては本末転倒なので電気メーターにそれこそスマートグリッドが装備されるであろう。計画停電ではなくエアコンを使っている世帯の電気をピンスポットでぶち切るとか。

 

脱線。今夏はピーク時で1500万kW足りないらしい。計画停電は頻度にしろ時間にしろものすごく多くなることは当然予想される。多くの老人と乳児が死ぬのではないかと心配する。スーパーでも病院のロビーでも図書館でもいいんだけど24時間体制で避暑地を作らないと去年以上に人が死ぬのではないかと心配する。スマートグリッド化でピンスポットで電気の供給量をコントロールすると死人が出る可能性もあるのだ。

 

日本は50Hz/60Hzと電気エリアが分断されているので日本全体で合理的な姿を選ぶことは無理だ。東日本が60Hz化する機会と捉えてもいいのかもしれない、インバータがここまで普及したら。首都圏3千万人のGDPはそれは大きくて電力で経済活動が阻害されるのはそれこそ国難である。

 

日本というか首都圏は非効率なスマートグリッドを推進するか、電力周波数を統一するかの2者択一を迫られている。東北電力でも原発を再稼動できるかどうか分からない状況なので東北電力からの横流しは期待できないであろうし。
それこそ政府は「見通し」を語るべきだと思うんだけどまぁその雰囲気はゼロである。ということはなし崩し的にスマートグリッドに移行することになる。

マンションや新興団地はスマートグリッド化というより燃料電池による発電プラントを購入することは比較的簡単なのではないか?そういうビジネスがあっても良いと思う。
電気代は高くつくけど安心を買えるし。初期費用も戸建てでは負担が高くても集合住宅やエリアでの購買であれば色々と融通が効きそうだし。

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マスコミや政府・東電をいじめるより理解すること

NET界隈でマスコミや政府・東電に対する不満があるのは理解できるんだけど、NET界隈が自己閉塞していると思う。というのはmassという大衆伝達が基本であり、自ずから優先度が決まる。マスコミが何社あろうがその優先度は変わらないはずで、斬新な切り口を求めた一部の記事が賞賛を浴びることになる。マスコミはビジネスで社会奉仕ではないので優先度の高い順番に放映することになる。優先度から漏れた地域は報道されないのは必然である。

このような気分を生んだのはアンサイクロペディア(栄村大震災~アンサイクロペディア)の記事である。記事ではマスコミ批判がベースになっていると思われるが、それは当然でそのことを憤っても仕方が無いと思う、その筆者もそれを理解しているからこそアンサイクロペディアに投稿したのであろう、アンサイクロペディアだからこそのGJなのであろう、ウイキペディアンへの批判は秀逸である。

 

僕はこのようなNETに記事を投稿することで注目を引き付けるという作業はとても重要だと思う。僕は動画というのはほとんど見ない(エロでも)、サムネイルを見るのは数十秒だけど、動画を見るのは数分かかるから。その写真ですら数枚見て移動はよくあるわけだ、動画を見るのであれば10秒程度にまとめてないとという感じ。
しかしNETで個別に報道できるのはすばらしいと思う。個人でも写真でも動画でもちょっと見易くすることによって報道ができる、まぁyoutubeはユルイ報道サイトなのであろうと。

ということは危機を感じている人は個人が報道できるということである。先のアンサイクロペディアは文章力で引き付けているし、写真や動画でも構わないわけだ。当然であるがアップロードした人が読み易く編集する必要はなくて、他の誰かがやればいい話。

 

NET時代の今日、「マスコミが」と嘆く必要は全く無い。マスコミが悩むのと全く同じで切り口やセンセーショナルな演出をすれば世間は注目してくれる。あっ、自己撞着に陥るかも。マスコミだってその程度の知恵はあるわけで市井の賢者が編集した記事は誰が読むのかと、、、、。

それでもマスコミに無視された栄村や南相馬市とかもっと地味で被害が大きい自治体はNET時代での訴求が出来ると思う。実際に出来てるし。

 

 

無名で、でも面白い記事を書いている記事を紹介するというか、何人が着目しているかというポータルサイトが欲しい気がする。今は「はてな」しかないというのが私の実感で、google newsみたいな技術で何か面白いことはできないであろうか。まぁマクロビやホメオパシー等のインチキが閲覧サイト上位を占めてしまう可能性はあるのであるが。

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科学リテラシーとやらは期待しない方が健全な件

今回の震災で基準値に対して『量』という概念での報道が多かったように思う、非常に前進したように思う。まぁその結果マイクロシーベルトとミリシーベルトさらには毎時ミリシーベルトやベクレルとか単位が乱れ飛んでるけど」。

僕は単位厨で、単位とは次元を表し、次元とは時間単位なのか総量なのかとかが一目で分かるシステムだと理解している。次元が明確であれば要素(距離・時間・質量)の何がどれだけ効くかが明白なのである。例えば放射線のことは詳しくないけれど距離の2乗に反比例するというような説明があったが単位を見れば明白なのだ。なので単位にはうるさくて、表記が正しくない文書は書いた人が単位(次元)を理解していないと私は理解している。
僕の言い分が正しければ質量をKgと表記するのは単位への冒涜で、単位系そのものへの理解が乏しい可能性が高いと思っている。ちなみに質量を表す単位はkgで『k』は接頭語のkなので小文字だ。このような質量を『Kg』と表記する人は理系にも多くて、文系理系関係ない。

「あなたの家から職場(学校)まで何キロですか」とか「あなたの体重は何キロですか」とか「今日は最高速度何キロで走りましたか」という『キロ』は全て意味が異なる。距離と重量と速度だ。

なんとなく分かっている単位だと曖昧で問題ないけれど、厳密な問題や非得意分野での問題は「量」と同時に「単位」が問題になる。量を語る上で単位が必要不可欠だからだ。

 

ちょっと脱線。物理・機械系以外では質量という概念を理解するの難しいと思う、理解できなくて当然である。手のひらにある物体の「重さ」というのは物理的には重量とか荷重という単語で説明できることであり、質量は感覚的には存在できない。現代では質量を基本単位としたSI単位系を日本も採用しているわけであるが、このやっかいな「質量」とやからから逃げられない。(ちなみに質量に重力加速度を乗じたものが荷重であり、1kgf(いわゆる1kgの重さ)・9.8Nと表記される、めんどくせー)

質量とはある意味概念であり計測できない。僕の世代では中学校で質量が1kgで、そのときの荷重が1kgwであると覚えさせられた。これは古くから用いられている工学単位系の概念の方が分かりやすく、工学単位系では質量ではなく、重力(荷重)・距離・時間で工学的な説明をしていた。一般心理としては質量よりも重量(荷重)の方が便利なので工学単位系が尊重されていて、両方が併記されて現在に至る。ところが学術的には質量という概念の方が便利なので工学単位系は排除されつつある。

例えば「1kgの重さ」というのは学術的には存在できない。多分「9.8Nの荷重」という表現になると思う。

 

さらに脱線。
このSI単位系は学術的・計算するには非常に便利なんだけど実生活には全く役に立たない。例えば質量1kgの物質を保存する容器は「(地震などは別にして)9.8Nに耐えうる容器であること」が求められる。設計現場と実生活現場で感覚として相互理解が無い。

 

閑話休題。

単位だけでもこの程度の問題がある。例えば問題となっている健康食品の含有量単位がmg/粒かμg/粒か知らんけど、生物屋と物理屋では概念が著しく異なると思う。
「理系」で括れないのだ。

大卒(高等教育)理系ですら概念が一致できない問題を一般人に「科学リテラシー」とやらを求めるのは酷だと思う。
僕は機械(物理)屋としては、化学式の「基」であったり「元素」に着目しすぎるのは良くないのはわかった、大卒技術屋であってもその次元なのだ。

 

結論じみたこと。私を含めた一般人に「科学リテラシー」を期待するのは余りに高度である。一方で報道は「報道言語」での誤解を無くす努力をすべきである。(例えば物理屋の私は放射線の原理までは理解できたけど、動物実験における安全性評価法の判断基準はほとんど理解できなかった。まぁそんなもんだ。)
なのでマスコミは他紙を先んじるのではなくて「理解し易い正確性」を基準にして欲しい。その対極の先生はA新聞で電波を飛ばしまくっている。単位を理解できないことは理系でも恥ずかしくないし、というか業界が異なれば理解するのは難しいであろう。

 

ヒント:断定された記事はまず間違いである、断定する根拠が無いから。理系は数量で判断する傾向がある、検出されることは問題ではない。基準値との整合性の問題である。
基準値作成には過去のいろいろな思惑があって厳しい判断基準を求められている農作物は多い。また外国の基準値が日本の基準値よりも厳しいことも多い。噂のヨウ素であるが、ヨウ素は基本的に毒であり、海藻を多く食する日本人は基準値が著しく引い。水銀摂取量とかも日本人は非常に多いと思う。そんなことを気にすること自体が理解できない。

 

なので暇な人はベクレルでもシーベルトでも毎時シーベルトでも次元を考えてもらいたい(Wikipedia先生にgo)。例えば1kmは距離の単位で、1km/hは似てるけど速度の単位。単位時間当たりというのは次元を考えるに重要な要素なのだ。

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政府特需に対する雑感

金町浄水場から放射性ヨウ素が基準値以上検出されたらしい、疑問なのは全ての元素や農薬の検査を水道局は行っているのであろうか?野菜も同様で全ての項目を平時に検査しているのであろうか。ちょっと勘ぐると非常時なので検査したら検出したということなのか?何故かというと平時の値が報道されないから。例えば放射線量はモニタリングポストで時間軸での発表があり、原因と結果が合理的であるという感じがした。放射線量が増えたから危険を煽る報道がA新聞を始めとするゴシップ紙に多い印象があったが(A新聞がゴシップ紙という意味ではないです)。以前と比べて成長したのは「量」という概念が導入された、あくまで基準値の何倍という報道姿勢は評価できる。

 

それでもuneyamaさんとかいろいろ言いたいことがあるのではないかと思う。是非うんちくを聞きたいけれど公務員なので発言は許されないであろうな。

 

どの報道も基本的には買占め等をあおる報道であった。日本には高級紙というのが存在するかは分からないけれど政府発表をセンセーショナルな見出しで訴える傾向がある、まぁそうでないと売れないのでそのこと自体を批判する気は無い。駅売りの夕刊紙は特にその傾向が高い。違和感があるのがA新聞と系列であるが、ゴシップ紙(誌)の方が営業成績がよいのであろう。マスコミといえども営利団体なのでそのこと事態は批判に値しない。

 

政府(行政)が情報を小出し丸投げなのは、「あのとき言わなかった」という批判を恐れてのことだという僕は理解している。例えば今回の牛乳・葉物(のわりには当初ホウレン草と一部に限った)の放射線量の発表だ。行政が基準があることに気付き測定し、結果を発表したという事実だけの時系列だ。だからこそ半日遅れで葉物全般が出荷停止になったのは検査結果が追いつかなかったのであろう。

発表の目的は国民の安全性でもなく、産業の保護でもなく、行政府(中央・地方)の責任からの保護であることは明白である。その必要十分条件はマスコミに踊らされた市民側にある、その被害はレーザービームで返って来る、要は行政を過剰に疑う雰囲気があり、行政発表に踊らされるということだ。まぁいまさら言っても仕方が無いのでモラルの徹底で乗り切るしかない、特効薬は無い。

 

日経を真面目に読んでいないのだけれど、株価が上がった企業は多いであろう。カップラーメン特需の日清食品HDは関西基盤の企業で震災の被害は企業HPでは確認できない、まぁうはうはであろう(その割には株価は上がっていないなぁ)。他にはトイレットペーパー特需で四国拠点の大王製紙は、、、落ちて戻したようだ。
震災で上がった企業はどこだろう?東証1部1週間上昇ランキングで言うとまぁ納得の建設業だ。

 

マスコミは政府・行政が発表したことは報道する(義務ではないと思うけど)のが仕事なので、報道する。報道する以上、目立って顧客満足を得ることがお仕事であろう。政府はそれを知っていて自分たちのエクスキューズのために発表しているとしか思えない。高官が口頭で発表するのではなくて、長くなっても文書で配布するほうがいいような気がするのだが。技術にど素人の文官が口頭で発表するメリットが分からない。もちろんチームで練った結果を政治的な判断での発表であれば理解できる。

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報道のタブーについての雑感

地震酔いなのか、揺れてるのかどうかはいまいち自信が無くて水槽を確認する毎日です。水槽は震度計ですね。

 

情報の中身はtextに起こされた情報というのもあり、写真や映像というのもある。報道協定があるのか、textでは「遺体が打ち上げられてる」と伝えるが映像・写真では報道されない。もちろん遺族感情をかんがえるととかエクスキューズがあるのは理解できるんだけど、「生<なま>の現場」を報道するのであれば淡々と事実を伝えるのが好ましい。その点では人権を厳密に感じなくて済む海外メディアは残酷なまでに事実を伝える。確かに遺体を映像として流す倫理の問題はあると思うけど、「事実を忠実に伝える」ということに徹した方が良いと思う。

遺体安置所の写真がニューヨークタイムズに載ってるぞ~ニュース2チャンネル

悲惨さをことさらクローズアップするのではなくて、淡々と自衛隊の活動を報道するとかで良いと思う。震災直後は瓦礫の下の生存者を助け出すことだし、1週間も経てば遺体の収容がメインになるのは当然で、その先は瓦礫の撤去で、今日のNHKでは写真やアルバムなどを個別回収して思い出を被災者に返す作業を報道していた。確かに感動するというか泣ける映像であった、一方で自衛隊員の活動を淡々と映像・写真で伝えるメディアがほとんど無いことに違和感を感じる。マスコミが情報の取捨選択をするのは当然だろうけれど、偏りすぎていると感じる。逆に遺体を報道しないと真の被害は見えない、壊れた建屋は復活可能な資源である。津波の被害の映像・写真はそれはそれは大変だろうけどある意味「お金」の問題である。遺体はお金の問題ではない、だからこそ報道すべきだと思う。政府は震災を「お金」の問題だと理解するべきである、しかしそれだけでないことをJapan Mediaは何一つ伝えていないことに違和感を感じる。政府と一緒にお金の問題として処理している。

 

一方で原発関連は相変わらず活発で、死人が出るかもしれないけれど所詮お金の問題なので面子が跋扈している。今ここでの原発問題は原子炉の冷却でそのことは理解できる。放射線の問題は風説流布と同等である。対策を打っている最中に責任問題に言及するのは現場の士気を減らすだけだ。

報道の規制を行うべきだとは思わない。ゴシップ紙が売り上げのために煽るのは結構。NHKをはじめとする大手マスコミが3流ゴシップ紙の先陣を切っていることが問題なのだ。技術的なことは役所と東電が行うとスルーすればいいことをいちいち専門家に解説させている。事故の犯人探しもうんざり。速報で犯人探しをしてなんの役に立つのかさっぱり分からない。政府の対応は後からきちんとすればいい。

そういえば阪神淡路大震災の総括はきちんと行われたのでしょうか?

 

結論ですが、自治体職員(役人)や消防隊員・自衛隊員の行動を淡々と報道すべきである(そのことをべつにTVというメディアには希望しないけど)。報道陣が取捨選択を行わざるを得ないことは理解できる、しかし日本の報道をみていると報道上の倫理があって、その倫理に沿って報道されているように見える。それは取捨選択の最たるもので事実を伝えていないのとイコールである。また復興しつつあるエリアの報道も不可欠である、センセーショナルに報道すると宮城県全体が気仙沼であるとは思わないけどそのように報道されている、しかも報道姿勢は偏っているわけで、それは報道統制の類かと思う。

 

 

以下雑感。

新聞で役に立ったのは日刊工業新聞。工場の被疑状況や素材の短期展望を述べていた。日経当てにならないなぁという感じ。業界内でPPと紙が足りないと噂があった。特に紙は会社の中で風評がたったほどであったが日刊工業を読めば「アホなことを言ってんな」と達観できた。一方PPは本当に足りないらしく、色調のクレームは受け付けない覚悟が出来た。

報道では消費財メーカーの被災を伝えていたが、容器などの部材メーカーも被災が大きい。設備が復旧しても計画停電が痛い。移管できるメーカーは西に生産移管を計画しているとのこと。

 

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ドラマ雑感

「ほうれん草」だけが出荷量を下げていると噂を聞きました。デマというか風評って本当にあるんですねとびっくり。まぁ関東の販売店ではある特定の品目が欠品に近い状態らしく、該当メーカーはうはうはですね。ティッシュやトイレットペーパーなどの製紙メーカーは東北で少なからず被害を受けたでしょうから(だからこそ供給不足がデマった、または富士宮の地震も影響しているか)、儲かってはいないのでしょうけれど。同時期ソースは無いけれど釧路王子製紙の倉庫が一杯になったので生産を止めたとあった。

不謹慎なんですけど、震災特需はあるはずで、勝手に想像すると、生産基盤が西のメーカーは強そう。そのなかで日清食品などは買占め、家庭在庫補充、まぁ買占めの対応企業そのものであり儲かってるんだろうな。自動車産業の部品工場の被災が故にトヨタが生産を見合わせている報道があるが電機メーカーの生産調整報道は余り聞かない。松下王国は関西だもんな。

 

今更ながらドラマの雑感。今連休で溜まった録画を見切れて居ないなかでの雑感です。

 

パクリはなかなか。

香里奈の学園モノはゴクセンのパクリだし、松下奈緒の刑事モノはガリレオのパクリだ。前者は以前非難されていた非合法組織の取り扱いや、暴力シーンの問題はクリアされていて進化しているんだけどコピーはオリジナルを超えられないのは事実なんだろうなという出来であった。視聴率は苦戦してるらしい。主役キラーの臼田あさみは大した役は与えられていないので問題は起きていない、ただし破壊力は高い。単に生徒役が大政以外は不細工すぎるだけのような。

松下奈緒もパクリが見え過ぎてどうしても比べられてしまいます。女子力というかカップリングとしてして藤木直人×松下奈緒とでは、福山雅治×柴崎コウの目力は強力的であり、柴崎は「外交官黒田」でも好演していて、まぁ勝負にならないと思われます。

スクールもリメイクの類でしょう。

 

江もだめだめ、もう辞めました。秀忠に辿り着くまでに辞めてしまいました。

女性を大河ドラマの主人公に据える場合、本人の功績か配偶者の功績をいわゆる人生の流れで説明するのでしょうが(高台院とか、最近では山之内一豊婦人とか)、江姫が語れることは徳川秀忠しか無いはずで信長の姪ということは事実なんでしょうけれど意味は感じられません。脚本(かもしくは原作)が悪すぎです。

 

閑話休題。主役ヒロインを食う1.5流女優の存在感を注目していしまいます。今クールで言うと言うまでも無く、臼田あさみです。海猿では海の家で働くアルバイトで、おまけにヒロイン加藤あいは蓮っ葉で、完全にヒロインを食っていたわけですが、今回も食い散らかしまくりです。香里奈・松下奈緒を完全に食ってます。香里奈は前回ドラマで岡本玲にかなり食われているのでかなり頭にきているでしょう。
もう一人は柴崎コウでしょう。1.5流という表現はかなり失礼なわけですが、前クールのガリレオと今回の黒田で、「主役より、、、(両方おっさんなわけですが)」と思わざるを得ない存在感を感じます。
僕の希望は加藤夏希が名乗り上げて欲しいですね。

逆に言うとヒロインを食えなかった(期待を踏み外した)のが武井咲と大政絢でしょう。戸田が大人・シリアスへの脱皮が失敗している中での武井のアレですし、大政も臼田に完全に持ってかれてる。

 

まぁ僕は「演技力」という概念がよく分からないので存在感や役との合致度でしか判断していないわけですが、もし演技力という概念で注目しているとすれば志田未来さんですかね。前回はドラマは原作由来と思われる主人公のうざさに落ちましたが、あの年齢でよく主婦を演じられたと感心しました。

あとは石原さとみのキャラモノ(霊能者)もなかなかでしたかね、あのコッ恥ずかしい霊能演技に共感を覚えます。

 

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直径と単位にまつわる雑感

僕の半径10mだけの問題かもしれないけれど、直径を表すφ(ふぁい)の取り扱いにいろいろ小言がある。

図面では「φ5」とか書く、読むときは「ご[5]ふぁい(ぱい)」だ。そのせいか5φという表示がわりと多い、かなりむずむずする。

僕は単位厨とされる機械工学科出身で、属しているのは化学業界、かつ単位という概念がない生物屋多数。
(そういえばミリシーベルトとマイクロシーベルト、マイクロシーベルト/毎時等での次元を無視した上に単元を無視した混乱っプリは理解できるんですけどありえないです。)

話を元に戻すとJISでは直径記号(unicode2300付近だった気がする)を「マル」と称すること原点らしい(Wikipedia)。本来はマルで、使い易い方便でφ(ファイ)が幅を利かせ現在に至るらしい(その後JISも認めた)。それでも50φというような文書への記載はすごーく違和感がある。たしかに読み方はそうなんだろうけど。例えて言うなら「家から駅までの距離は1ケイエム(km)」と表現されるのと同等。はいやはり私は単位厨です。

 

ちょっとだけ単位厨を擁護します。単位というのは非常に重要でキャベツ1kgと1gでは発注する際に大きな差が生じます、単元を間違えるとえらい損をします。また次元も重要です。例えば50㌔という表現は重量なのか速度なのか距離なのか、とにかく文章の前後を読み解かなくては何を言いたいのかさっぱり分かりません。体重200kg(㌔)の小錦と最高速度200km/h(㌔)のポルシェとどちらが有用なのでしょうか?まぁ意味が全く無いわけです。

ここに挙げた「重量なのか速度なのか距離なのか被曝量なのか」というのが次元そのものであり、って言っても単位厨しか意味が伝わらないよね。単位厨は無次元数に美意識を感じるかもしれない、というか一般の人に無次元の美意識を伝えるのは相当に困難だよね。(蛇足ながら例えばレイノルズ数とかヌセルト数とかマッハ数だ。)、次元厨はそれはそれで活躍の場がある(ミリ[m]とマイクロ[μ]の違いとか。

 

ちなみに機械屋が単位のことが大好きな理由は次元要素である。例えば荷重の単位はN(ニュートン)で、組立単位をばらすとkgm/sec^2である。理解できないと思うけどその荷重を下げるには質量(kg)を下げるか、距離(m)を下げるか、いやいや時間(sec)のほうが効率的だとか意識する。御免、すごく分かりにくいですね。N(ニュートン:荷重)の説明は圧力(Pa:パスカル)の前段であって、圧力の説明は面倒で、、、、却下。

 

報道を見ていると単位の壊れっぷりにまぁそんなもんだろうなと思う。憤慨している人ですら単位に無頓着であればその程度。文系・理系に限らず単位を無視した「量」的な報道は無理だと思う。不安と安心は「量」という概念が無くても成立できる、もちろん有っても成立できない。不安と安心という主観的な選別での報道は「量」という概念からは反対の立ち位置にある。

 

 

単位は量であり、次元である。(ごめん、もうちょっと分かり易い表現はないのかしら)  安心・不安から安全・危険に変換する大本が単位なのである。量を意識させない論調は全てくずであるからこのエントリーを挙げたのであるが全く伝わらないであろう事は理解できる。馬鹿だろ→俺。

 

※単位と単元をごっちゃに扱ってしまった。単位は現象というか次元を表すもので、重さはkg、速度はkm/hという感じ。一方単元は接頭語にまつわる話で、1m(メートル)は1000mm(ミリメートル)、0.001km(キロメートル)である。接頭語~Wikipedia

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不謹慎という倫理のもたらす閉塞感

均質的な倫理観を共有する日本人は行列を上手く並ぶなどメリットが大きい。しかしデメリットもある。倫理で人を追い込むパターンだ。倫理は論理の積み重ねで生じていると理解しているがその論理の中味を説明するのは非常に困難なので小児の頃から刷り込みのように繰り返し教わってきた。

民主主義国家の政府と言うのは美人投票の結果であるという側面があるので、論理的に正しくても倫理観に反すればその政策は実行できない。企業や人も倫理に反しないことを気にしながら生きるし、倫理に反する企業を責めることがある。

今回の震災で同僚が「政府は企業に命令することができない。東電に原子炉への対応を命令できない、ガソリン・灯油を被災地に優先的に送るように命令できない」と憤慨していた。「いや自由な経済活動を保証するのが資本主義で、計画経済は社会主義なんですけど。」と突っ込んだ。彼はその場で意図を理解したがそう考える人は案外多いのではないかと感じた。日本では(日本に限らないかもしれないが)ヒトラーやスターリンが登場する余地は永遠になくならないのだ。

 

などということを考えていたら、プロ野球の開幕時期をめぐって機構と選手会がもめているようだ。そして開幕時期は延期になりそうだ。
不謹慎という倫理観に加え電力が足りないのにナイトゲームを行うのは言語道断であると政府も口を出し始めた。

これは「倫理観に反している」程度であれば政府も口を出さなかったであろう。ところが「電気が足りない」という大義名分があるから非難したという構図に見える。私が問題にしているのは倫理に反しているという前提がなければ政府はこの手の口は出さないと思われるからだ。
資本主義でエライのは売り上げと利益で、その業種に意味は無い。街の八百屋が偉くて、風俗業が低いということはないのだ。プロ野球に口を出すくらいなら一番電気を食うテレビ放送を一番電気が足りない時間に止めてラジオに集約すればいい。

 

今日本が直面している一番大きな問題は経済の問題である。被災地の復興・産業の復興・電力の復興、全て経済的な問題である。原発の問題は電力政策を考える上では重要かもしれないがある意味局地的な問題である。そして電源政策は極めて感情論が支配する業界である、経済的な観点が最優先されることを期待する。

 

プロ野球の開催時期に政府が口を出すのは言語道断である。プロ野球界隈は営利団体で、その職員の雇用を守るという側面もある。娯楽産業は全員首にしろという言い分なのか。不用意な発言で総非難の有名人も多い

またこの「不謹慎」という倫理観がもたらす重苦しさはTV番組を見ていて分かる。CMはほとんど全てがAC、重苦しい。バラエティなどの娯楽番組も不謹慎を恐れ、自然に重苦しい雰囲気で行っている。見ていて全然楽しくない。
このような時期こそ「笑い」が必要であり、そこに不謹慎を感じる人は見なければ良いだけであり、非難する根拠が分からない。ブラックな人がブラックな笑いをとって何が悪い。

この重苦しさは人を落ち込ませる。辛い環境に居る人に事実を突きつけるだけでなく、皆の精神的な逃げ場を奪っている。これっておかしい。

 

不謹慎の巣窟であるネット掲示板には優れたユーモアが見られる。例えば

被災者が調子のってるから電池大量に送りつけてやったぜwwwwww~まめ速

これはブラックではないがやはりTVでは放送できないレベルのユーモアだ。笑いと言うのは難しい、欧米のジョークは自虐的になったり誰かを馬鹿にするものが多い。ドリフですら「食べ物をそまつにして」とか非難が多かった。

だがそこに挑戦して欲しい。不謹慎のもたらす閉塞感は被災者に現実を突きつけ続け、経済の復興を妨げるだけだ。だからこそプロ野球は挑戦する意味がある。

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ジャーナリストという人種の考え方に触れられた件

昨日の午前中に需用電力量が供給電力量を逼迫し98%までいったという報道があった。そのため昨夕は停電してからの帰宅は安全でないので16時半に帰宅することになった。一昨日のように混まずに帰らてラッキーと思っていたら「どこの企業もそういう判断だから逆に混んでるよ」と同僚が言う、正解。あーあ。

飲んで時間をずらして帰ろうかとも思ったけど難民になったら明日言い訳がきかないので大人しく帰った。多分多くの人がそう思ったであろう、案の定混んでいた。
昨朝の電車は思った以上に空いていた。通常の1本前の電車に乗ったのだけど、上下1本が定常運行でたまたま空いていたのかもしれない。横浜線は運行率5割というのが公式アナウンス。新聞では大手企業は今週いっぱい自宅待機が多いという報道があったので来週はまた別の対応を求められるのであろう。

東電が心配した需給逼迫は余りにも民間の寄与が多いわけでそのまんまというわけに行かないという事実があると思う。

 

まぁこういう電力供給の結果が「停電するかもしれないよ→大丈夫だった」というだけであり綱渡りであることは変わらない。手元に無いけど来週から関東の火発が稼動して250kW/hを増産でき、近い将来400kW/hに引き上げられると日刊工業紙にあった、一方大手企業が月曜日から本格稼動する予定だと耳にしている。やってみないと分からないのは火曜日からまた電力テスト状態。

 

そんななかですごいびっくりジャーナリストが居た。

被災地への支援を止めないために、計画停電よりも「節電」で対応を~DIAMONDonline

あえて「マスコミ」とは言わない、内容がマジキチすぎるので媒体であるDIAMONDにも小言を言いたいけど上杉隆氏の署名記事なのであえてジャーナリストへの苦言。

彼の小沢氏を冷静に扱う記事には好印象であった(DIAMONDの過去記事を参照のこと)、論理的だし非常に説明も上手い。
いやだからこそなのであるが、、、。

この記事があまりにバカなのは2頁にいかに市民が節電をしているかを述べているにも関わらず、節電している市民がかわいそうだから節電で乗り切ろうという骨子である。えっ???????意味が分からない。さらに最後のパラグラフでは「むしろ、こうした事態だからこそ停電を強行することよりも、停電しないで明かりを送り続けること、それが政府と電力会社の責務ではないのだろうか。いや電気が足りないのは精神論や政治論ではなくて物理的な問題ですから。政治的な意味は供給配分という意味ではあると思います、その結果が計画停電です。

まぁ論理が徹頭徹尾完全に破綻しているのだ(ここまで言い切るのは私も勇気が要ると思うのですが、この記事への批判には躊躇ないですね、それほど酷い)、データがないのは言うまでもない。ここまで酷い記事は初めて見た。書く方も書く方だけど、載せる方も載せる方だ。

 

ここからが本題。

僕は理解できる得意分野を食い散らかしてブログにエントリーを興すことが多いのですが、それは無給だからでしょう、責任ないし。なので業界情報であれば自信があるし、僕の妄想した思考実験ネタは撤回が容易です。一方、ジャーナリストは「書くこと」が仕事なわけで、一方上梓した記事に責任を持たなくてはならず撤回はできない、またサラリーのために書く量を求められるはで。フリーのライターは得意分野の記事しか書かないと思ったんだけど、、と感じた。他所に手を出すときは友人に添削してもらえばいいのに。もうデマの片棒を担いでいるとしか思えない。

 

原発事故の東京への影響可能性を述べる報道は「不安」がベースになっていると思う。例えばなんだけど福島第1原発が4号機まで全部臨海暴走した際の放射線強度が都心に届く可能性を伝えることは無い。僕の推論で言えば200km離れているので、直接的には全く関係ない。もちろんだから問題ないという気は無いが少なくとも東京都民が原発崩壊で放射線を心配するのはジョークの類であろう。

ところが報道のニュアンスはとにかく「危険」である。マスコミはパニック推進派であろう、その影響で首都圏の経済価値は冷え切っている。

この根底は記者や報道デスクの「不安」であろう。以下標題エントリーとは全く関係ない雑記。

 

まず事実を間違えた件

危険と安全は事実が前提となる、自衛隊が出動できたり出来なかったりと。しかし不安と安心はその個人に由来する、事実は全く関係ない。例えばマイクロシーベルトとミリシーベルト、キロパスカルとメガパスカルという単位について。(機械科)単位厨としてはここは言っとか無くては。多分単位厨でないと意味わかんないと思うけど、一昨日の原子力専門家が壮大に間違えた。ミリ(m)を千分の1までは良かったがマイクロ(μ)を十万分の1と説明したのだ。笑うとこなんだけど分かる?

またその日、炉内の内圧を400kPaを40kPaと伝えたらしい、ありえない。炉内の圧力が下がるということは中身がもれてるということと同意なので、専門家では「えっまじ?」となったのである。

ちょっと例えるとあなたの体重を量ったら55t(トン)だという報道だ。体重は身近だからその異常性は理解できるであろう、それを気付かないということなのだ。世間はあなた体重が55tであることをとして、ビルに入ってくれるな的な扱いをうけるということ。

 

心理的な事象=不安

不安というのはたちが悪い。科学者が「50km離れていれば(ありえないけど)仮にチェルノブイリ級の事故が起こっても放射線の被害は無い」と断言したと仮定する(多分理論的事実だと思うけど)。しかし、東京都に居て(直線距離200km)対策を講じる報道がある。まぁ狼少年が「宇宙人が来たぞ」的なレベルなわけだ。
どうも人間は「量」という概念で考えることが弱いらしい。

東京に働いている人が「福島第1原発臨海暴走で放射線物質が飛散」したとして、その健康被害を心配するのは杞憂「氏」が心配するよりレベルが低い、というより知識の蓄積は既にあるので単にバカだ。バカだけど不安なんだから仕方が無いということなのであろう(否定しているわけではないのだよ)。
不安というのはその個人に根拠するものなのでいくら科学が安全だといっても受け入れられないのは理解できる。あくまで不安は論理で片付かない、その人に起因するからだ(責めているわけではありません)、まぁ「心配」の大きい奴であろう。それが「不安」の正体だ。あくまで報道は事実ベースというか危険・安全で報道すべきで安心不安は一切関係ない。

 

事実ベースで安全・危険が語られることが重要。なのに報道は事実ベースではなく、個人(デスクか記者)の信条ベースの「安心・不安」がベースになっている。不安を理論で武装すれば科学は確率だけでしか語れない、不安は確率がゼロでないと駄目なので科学の声は届かない。それを報道のベースに置くという論理も突っ込んで良いように思うんだけどだめだね。

とある神奈川ローカル企業のCMに「私たちは『絶対大丈夫』とは言いません」とのコピーがあった。拍手。
原発反対派が推進派に「絶対安全」ということで説得されたという記述を見たが、真性のバカだと思う。「絶対」というのが極めて狭い定義であり、その定義を現実的な事象に当てはめる幼稚さに。もっとも彼らも「絶対安全」に対して言質を得たと思って居ないと思うけど、わだかまりを共有する材料としては薄いのであろう。

 

標題に戻る。全てを万能に理解するのは無理だ。その報道はすごく難しい。現地の報道の方々も中央の判断に頭来た事もあったであろう。その一方で池上氏の説明が分かり易いという評価があった。

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便乗値上げを「不当」と思う気持ち

やっと横浜線が動いた。栃木県・群馬県・千葉県のローカル線と同等扱いであることもわかってしまった。とほほ。初めて2chっていうやつにアクセスした、中の人が居るかなと思って。

 

前エントリーで非常時の便乗値上げは悪くないのではないかと述べた。3/11夕方、コストを掛けてでも居酒屋を開けて帰宅難民にそのコスト分乗っける「便乗値上げ」を実施したほうが双方が喜ぶのではないかということだ。交通難民と化したシフト員・非シフト員にタクシー代を払ってでも出勤してもらう(非シフト員だけでなく従業員全員にニンジンが必要であろう)、寒さしのぎの顧客は回転率(注文数)が低いのでその分の値上げをしないと経営的に損である。非常時に店を開けるのは高コストだから、便乗値上げを認めないと従前の市価でのモノ・サービスの提供ではなく、「閉店」なのだというのが前エントリーの骨子。

そのエントリーにコメントを頂いたのだが、私は「便乗値上げ」でも非道い表現だと思っていたのである上、再三コストの話をしたのであるが、コメント氏は「不当に高い値段」という表現をなされていた。

 

そうか「不当」がキーワードなのであろう。辞書で確認すると該当部分は「正当・適当でないこと、道理に合わないこと。また、そのさま。」とある。

 

阪神淡路大震災でダイエーの中内氏が陣頭指揮をとって本店で「コスト度外視で」物資を供給したのは伝説であろう。企業はある意味社会公器で、うそ臭い企業理念を掲げる企業は発展できないとされている。米ウォルマートなどは「地域最安値で商品を提供する」というもの、値段は地域最低で利益は後から考えるそうだ。まぁどちらもある意味マジキチだ。そうでない薄っぺらい企業理念は直ぐに従業員に伝達し、顧客に伝達するのでマジキチでも企業理念の徹底は大事だということであろう。

このダイエーのエピソードは非常時に平価で商品を供給するのは非常に高コストだということだ。なので非常時にモノ・サービス(以下商品と記述)を適正な利益を乗せて提供するとどうしても値上げせざるを得ない。なのでその便乗度によるのであろうが、非常時の便乗値上げはとても不当には該当しないと思われる。

 

本来、その状況でモノ・サービスが必要かどうかで値段が決まるはずである、その業者が損をしているか得をしているかは究極的には関係ないはずである。しかし一般的な日本人消費者はその構造を気にするけどよく知らない、なので分かり易い値上げは受け入れるけど理解できない値上げは受け入れない、が大変さ(=コスト)はお金に反映しない。例えば富士山の山頂の飲料の値段は受け入れる、石油の値段が上がればガソリンの値上げは受け入れる、雪の日にタクシーに乗れば運転手を気遣う(けどチップを払うわけではない)という具合。一方で観光地価格や旅行の年末年始・GW価格は気持ちよく払う感じではない、不当だと思っているのだ、まだこれらは浸透しているので不当とまでは思っていないかもしれない。
富士山の山頂への輸送費や原料費の高騰など分かり易い値上げは受け入れる。そうでないまたは頭ではわかるけど同じ商品が時期が違うだけで値段が違うというのはなんか不当に近い感じを受けるらしい。
この意識は僕も認知している。例えばキーエンスは営業利益率が50%と聞くと「儲けすぎだろ」と忌避したくなる、本来はモノ・サービスの良さと値段で決めるべきはずが全く関係ない要素が頭をよぎる(=利益率が低い企業を応援したくなる)。一方で収益に困難な企業同士での価格競争も行う。

 

不当という概念に「他人が儲けたら不当」という感情が根底にあるのではないか。原材料が上がった分の価格転嫁は「原材料分だけ(そんなわけないのだが)」で、品薄による価格高騰は不当だと。アイデアや付加価値は関係ないので原材料比率が心配で、加工費等の付加価値は不当な利益だと。いや付加価値は利益ではないんですけど、、、というような論理は通用しないわけだ。

 

多分だけど、コスト構造が理解されやすい商品は受け入れるけれど、そうでない価格硬直性が高い加工食品や公共サービスの便乗値上げには、その値上げを「不当な利益」と感じるのではないかと思う。市場ということを考えたとき物価が状況によって変わらないのは異常である、がその価格弾力性を最低価格と最高価格の差を「不当な利益」感じるということだ。まぁコストは一定だと勘違いしたいのは理解できる。

では逆に何故ど素人なのに原価率を気にしてその変動分を「不当値上げ」と感じるか。日本人は教育レベルが高いのでそういった裏のことを推測して「自分が損をしたくない」という感覚が働くのかもしれない。知らないことはブラックボックスにする割には自分が損した(多く払った、仮に供給側から適価でも)という事実を受け入れられないのかも。

要は定価より高い価格で買うことが許せないという感情の問題であろう。その感覚を倫理に昇華してしまったということだ。そこに論理性は無い(僕は倫理は論理で説明できると考えているが感情を倫理といわれると、、)。かのコメントも論理的な指摘は無かった。あくまで感情の問題であろう。(そういえば冷凍食品のように(それこそ)不当に高い定価を設定して毎日50%引きみたいなビジネスホテルが多いなぁ。)

仮定なんだけど、日本人は損をしたくないあまり定価ビジネスが基本なのだと思う。居酒屋などは月火はサービスという名のダンピングが行われていて、金曜日は2時間で追い出されている。実質的な価格弾力性をしいているけど意識させないのは知恵ということか。EDLP店が仕入れ状況により最低価格を保証しても、定価を意識させそこから何%下げて売っていますという方が受け入れられるのは「自分が幾ら得した(損したは存在できない)」を計算できるということがキモなのではないか。実質価格弾力性をしいているけどそこを意識させないのが企業の営業上の知恵なのであろう。

 

とにもかくにも非常時の営業は高コストでその分の便乗値上げは到底不当だといえない。まぁ不当な値上げもあるかもしれないがそこは値段と釣り合わなければ利用しなければいい話で誰も損はしない。要は他人が儲けることを許容できないことを倫理に置き換えて吠えているだけだ。値段とモノ・サービスの提供価格に問題があるのではなくて価格弾力性の⊿を不当利益と誤解しているということなのだ。
別にそのことも不当だとは思わない、事業者は事実だと認識すればいい。そういう人種が大多数であれば高コスト営業をしないだけだし、定価を吊り上げておいて毎日コストや市価を勘案してダンピングすればいいだけで、実際にそのようなビジネスは多い。あくまで感情の問題だと認識すればいい。

 

この仮定が正しいとしたら前エントリーの結論と同様にやはり便乗値上げをすべきである。非常時は季節・曜日のような波形とは関係ない需給であろう、コストや利益の幅に押えられない。非常時価格を定価として冷凍食品のように毎日40%引きも理論的には考えられるけど現実的ではない。先のエントリーでは便乗値上げの反対は平価販売ではなく閉店だと述べた、非常時の営業は高コストだからである。非常時の高コスト営業を取りやめるとそれはやはり日本人全体が損をするのは明らかだからだ。非常時だからこそ便乗値上げを許容すべきだ。

 

結論:
(1)利益は不当

(2)日本人は定価は受け入れる。(例えば金曜日に盛り上がってホテル代とタクシー代の天秤に掛ける程度の理性は酔っていても存在する)

(3)何故か分からないが定価より高いのは受け入れられない、事情より感情の問題である。なので企業の知恵は高い値段を「定価」と設定して毎日定価の○○%引きをしている。実質価格弾力性はある。(便乗価格否定派にこの倫理上の問題点を教えて欲しい、揶揄してないです)

(4)非常時には設定した価格弾力性を超えてしまう。なので閉店がデフォ。

(5)これらは感情なので論理的でない、論理を信じて便乗値上げを個人的には薦める、その結果救われる人が少なからず居る。しかし恨みを買って長期的な信用が落ちる可能性が高い。閉店に悪化印象はないので何人困ろうが閉店が最善。

 

最後に利益(に見えるものは全部)不当。馬鹿ってことだね。まぁ感情の成分が支配していて、論理的でないのであればその対策を打つだけ、それが高定価、割引率商売なのだろう。それがそれこそ不当の温床でオープン価格を導入させられた家電メーカーからは納得いかないと思うけど仕方が無い。感情だから。

 

以下雑談。

(業界によって異なるが)食品などの消費財のざっくりとした原価構成は一般的な話として流通(小売・卸)4割、残りの6割のうち原材料費1割、加工費1割、包材費1割、メーカー固定費(家賃・人件費・研究開発費等)4割、販促費2割、メーカー粗利益1割である。このことから100円で買った食品の原材料原価率は6%ということになる。
よくあるネットでの議論は6~10%の原材料原価に「払う価値ねー」というのがあるが、話は馬鹿馬鹿しい。市価の生鮮品での調達価格と思いっきり異なるし。さらにいうと生鮮品の原材料原価率は恐ろしく低いであろう。

私は技術屋なのでコスト(製品原価・加工費・資材費等)に常に直面している。なので街の商品を見ると「よくこの値段でつくれるなぁ」とか感心する。知らず知らず原価計算をしてしまう習慣がある。規格化された多点数で構成される商品、例えばボールベアリングなど安すぎて可哀想になる。とても生産性が高いのであろう。会計にもちょっとだけ興味があるので、混んでいる店や客が少ない店の外食でも回転率と客単価でその店の売り上げを計算して勝手に心配してしまう。

原材料費にが最重要だという観点が分からない、同様に変動費である加工費・資材費まで限界利益扱いで(まぁ加工費は限界利益だ)。

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便乗値上げの善悪(思考実験)

暇なのでブログ更新。あっ自転車をメンテか買いに行かなきゃいけない。明日のエントリーに偽装するかもしれない。見栄えを良くする努力も必要ということで。

 

改めて原発問題はナイーブだなぁと感じます。技術的なことはあとからまとめを読むつもりでテレビは点けていますがあまり真面目に見ていません。なぜか圧倒的に原発問題に情報量が偏っています。
不思議なのは被災者の救助、公務中の殉職された方々、首都機能麻痺といった実際の被害よりも、ちょっと現実じみた危険の「可能性」ばかり注目されていることです。

最悪の事態は起こっていない~池田信夫blog

のコメント欄がキモイ。論理が無茶苦茶。「報道で何度も「想定を超えた」というフレーズが使われたが、原発はその想定を超えた領域で安全性を確保することが求められる。」は設計という行為のいろはが全くわかって居ないし、「それが「絶対安全」と言う言葉の責任です。」とかもう頭おかしい。

ようは人間はリスクというモノを「量」で考えられないということなのでしょう。感情がそれを許さないという事例だと理解しました。圧倒的な事実よりも大きな不安の方が重要なのでしょうか。僕にとれば首都圏の交通マヒや計画停電の建設的な議論の方が余程おおきな不安なのですが。

 

さて、標題の件ですがkozakaiさんという社長が便乗値上げで儲けるネタをエントリーに上げて(キャッシュ)、その腹黒さをフルボッコされたようです

僕も3/11横浜駅近辺を歩いていたとき、多くの居酒屋が開店できないでいるのを見て、「時給を10倍で人を掻き集め、メニューを10倍で提供したら儲かるだろうな」と感じた(さすがに10倍は非現実ですね、まぁ倍ですね)。私にはたまたま職場に戻るという選択肢があったけど「選択肢が無い人はそのサービスを買うことで寒さをしのげるのに」とも感じた。私は無意識に便乗値上げを肯定していたわけです。

ちなみに「便乗値上げにもコストがかかる」という前提を置いています。なので「便乗値上げ」の反対は「従来市価での提供」ではなく「財・サービスを提供しない」です。まぁこの前提を置いているのは「閉店している居酒屋を開ける」にはコストが当然かかるからだけどこれは私の頭のおかしさの証明なのかもしれない。

非常時にはただ営業するだけでも非常にコストがかかるわけですよ。早く家の状況をチェックしたいし、家族の安否確認したい。ぶっちゃけ帰れるものなら帰りたいわけですよ。例えば停電時、従来市場価格でモノ・サービスを提供するのはとても疲れる(*1)し、地域で根を張るコンビニなどは簡単に便乗値上げをできない風土が合って、無理して営業するかまたは営業しないかという選択肢しかない。それは地域へのノブレスオブリージュの類で、ビジネス的な観点では疲れるけど機会損失を嫌うか、疲れるから面倒な努力をしないかということになる。ニンジンをぶら下げて尻を叩く行為は許されないらしい。
ここでモノ・サービスを提供するのはきれいごとだけではなく、適正なコストを載せることが悪徳だという論理はモノ・サービスの提供をしない方がいいというインセンティブを与えるだけだと思うんだけど。

 

続けます。短期に利鞘を抜く商売は長期視点でないとか、非常時に財布に現金があるかないかでサービスを受ける資格を選別しているという批判がある。これには堂々と簡単に反論できる。
顧客との付き合いが一定で固定している関係(例えばホテルの優良顧客)では、カネを取っても優先的なサービスを提供できる方がお得なはずです。いつも利用しているのに「今日は満室です」と言われる方が余程頭にくる。ましてや短期であれば本当に必要としている人を選別することになる。2倍の価格で諦めるのであれば必要度はその程度ということだ。2倍の値段で買う人に譲るべきだ、モノやサービスは有限である。2倍の価格に憤慨するのはビジネスになんらかしらの倫理観があって、倫理的に値付け行為に憤慨しているのであって、財・サービスの必要度とは関係ないと思われるからだ。

 

ここが非常に重要で「倫理」に憤慨したとして、その論理背景を説明できなければクズだ、「あなたの倫理はあなた限定でしょ」と返されてしまうという点で。倫理重視の楽観派は「非常時も従来価格でモノ・サービスを提供しなくてはならない」理由を論理的に説明する必要がある。

重ねて言うが倫理は論理で説明される事象なのだ。(別記事で説明

 

例えばバス乗り場は大行列で、タクシーは正規運賃の2倍と仮定ししてみよう。白タク乗り場があってもいいかもしれない。カネを払っても帰りたい人、白タクでもいい人と分散される。2倍と聞いて駆けつける運転手も居るであろう。需要に対して供給が全然足りないから大行列を引き起こしているわけで、供給が増えるのだから全体の幸福度は上がる。ここで「キーッ」となるのは「不当に儲けている」という根拠の無い倫理観であると再度指摘しておく。現実にはタクシーは免許制だし、白タクは保証がないので難しい、あくまで思考実験。

その際現金は必要であろうか。それこそ信用を上げて長期的に顧客との関係を築きたかったら「ツケ払い」でいいと思う。このツケ払いこそがビジネスの奉仕の部分である。そのことを銀行は良く分かっている。

 

kozakai社長が例に挙げたホテルは値段を1.5倍にした。本当に困っていて追加の5千円払えない人って居るんですかね(前述のように信用を基盤に置く商売には現金が財布に無いとか関係ないですよ)。その5千円で「プギーっ」って怒っている本当に必要でない人を排除できるのであれば本当に困った人にとっては逆に正義なんじゃないの?

 

例えば震災地の瓦礫をどかす産廃業者が値段を吹っかけるのもありだと思います。従来の市価でしか商売をしなくてはならないのであれば他県から参入する業者は遠征費は持ち出しなので参加しないでしょう。また地元の業者も(効率重視で)無理して数を稼ぐ気も失せるでしょう、自分家を優先することも考えられます。まぁ供給を阻害するわけです。一方で地元のお得意さんの順番を優先することで顧客満足は維持できると思います。(金持ち優遇かいと人気を落とす部分もあるでしょうが)

というわけで私は便乗値上げ容認派らしいことが解った。

 

 

読んでないけど読んで勉強します。

これから正義の話をしよう(マイケル・サンデル)~早川書房サンプル

*1 とあるコンビニの金曜から土曜にかけて~G.A.W.

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政府に見通し(good idea)が無い件

今日も自宅待機です。明日も交通状況が変わらないようなら着替えを持ってスニーカーで出勤かな。往路は辿り着けそうなんだけど帰路がやばい。

 

枝野官房長官のスポークスマンっぷりに好印象が集まっている。情報の確度や分かりやすさよりはとにかく速報という姿勢。その内容はぐだぐだなんだけど東電が信用されていない以上、分かっている情報をぶちまけるしかない。情報操作を行っていないよというメッセージが好印象につながっているのであろう。

この類はニュースだから、現実とは距離がある事象なので、生活を直撃するわけでもなくぶっちゃけどうでも良い話である。(電気が足りないのは原発が止まっているから全くの無関係ではないけれど、放射線漏れ自体は実生活と全く関係ない。)

 

一方、実生活・経済に対する政府のスタンス、中長期的なスパンでの見解は出てこない。菅総理は被災地に行かなくていいから首都圏の経済損失を最低限に抑える見通しを出すべきであろうができていない。被災地には自衛隊派遣等の処置をした、あと菅総理が必要な場面は「お金」しか関係ない。


被災地に行く暇があったら首都圏経済の建て直しのビジョンを、ってまぁ言われなくても検討してるよね。発表を東電とJRに丸投げしているということはgood ideaが無いということか、とほほ。
仙石氏が馬鹿っプリを晒しているようなので民主党は何も考えてないという線も捨て切れないところが素敵)

自転車通勤か泊り込みだなこりゃ。

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