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交通への認識の低さを笑う

何時だったか日経コラムの春秋にもみじマークへの悪態が載っていた。内容は「対向2車線でもみじマークのクルマがゆっくり走っていたら後ろの車はどう思うのか」みたいな結語で締められていた。ゆっくり走るもみじマークとそれを耐える急ぐ後続車と言う構図をその筆者は咀嚼できていないのであろう。もう脱力というかそれが社会認識なのであろう。

対向2車線だろうがどんな道(高速道路は最低速度が50km/hと規定されている)でも自分が安全だという速度で走る事は許されている、というか安全に通行するのが義務だ。しかしゆっくり走って他人に迷惑をかけるのが許されているかと言うとそうではないと思う。4車線以上の道では通常は左車線側が走行車線で、右側が追い越し車線であろう。ゆっくりと追い越し車線を走るのは一般道はともかく高速道路では犯罪となる。

急いでいる人には、簡単に言えば後ろの車に譲ればいいのだ、急いでいる人のために見通しの良いところで追い越しを促せば良い話であって、もみじマークが邪魔をする可能性を容認する必要は全く無い。かの筆者は他の車に道を譲ったことがないのであろう。社会システムのソフト面で交通をスムーズに動かすという視点が無い事を公言している。

このような矛盾は多数あって、私はその原因の多くは法律、または小学校での教育に原因があると思っている。法律面では「人は右、クルマは左」というやつで、交通システムの基幹となる「日本では左側通行」という一番根っこの概念が崩壊していることに尽きる。エスカレーターは左側通行で、道路では右側通行で、ここは何通行?という状況なのだ。ということは交通原則である通行方向が国民に意識されていない。なので自転車と正面衝突を回避しようとして歩行者が右に避け、自転車が左に避ければ交通事故となる。

また施設ごとのローカルルールがあるためそのルールを意識する人が少ないので混雑する。酷い場合には1つの施設に左側通行と右側通行が混在するので歩行者の交差点が存在する場合もある。馬鹿だろ、施設管理者。

小学校での交通犯罪者養成行為として「腕を振って歩く」というのがある、なので特に私の世代(おっさん)は馬鹿丸出しで腕を振り回しながら歩く。小学校で「歩く際には腕を振って歩きなさい」という教育が染み込んでいるので、犯罪行為を自覚していないので、振り回した腕が他人を攻撃しても謝る事は絶無。馬鹿だろ。

さらに単なる腕ならいいが傘を持ってもその信念は揺るがない。教育に忠実な善人は傘を振り回して歩いている、他人に当たってもそれを犯罪と意識することが無い。ダメだろ。

小学校の教育にしろ、交通システムの原理教育にしろ、とにかくダメだ。関東人は人口密集地帯に住んでいるのでそれなりにマナーを構築できている。それでもダメな奴は一定以上居てそのダメな奴は「ダメ」である事を理解できない。まぁ田舎者は傘をぶん回して歩いていても問題ないからね*。しかし数十年前の元田舎者でもその程度なのは問題だ*

先の小学校で「腕を振って歩きなさい」というのはもちろん交通の教育ではなく軍隊的な行進の教育でしょう。そんな教育をするよりは交通システムの教育をした方がずっと有益だと思う。少なくとも「進行方向の原理原則は決める」、「歩く際、腕を振り回さない」、「遅い人は左、速い人は右から追い越す」というのを教育して欲しい。別に歩きながら携帯をイジル人を非難しない代わりに一番左側を歩き、右から抜けばストレスが溜まらないと思うのだ。

 

あと、椅子に座る際には股を広げないというのもマナーに入れていただけたらと思う。人口密度の低いところ*で育った人には分からないと思うけど。

*人口密度の低いところの出身者は、熊が出るようなところの出身者か、自宅が数千平米の坊ちゃまか、どっちも電車に乗るトレーニングをしてから乗れよ。前者は田舎者だし、後者は斜陽族。どっちにしてもたいしたこと無い。自覚が大事。

追記;kuri さんの指摘で少し助詞などを整理しました、ご指摘ありがとうございました。

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マグレブ社会とギルドと倫理と性善説と

ど素人の戯言ですが。

ここんとこ倫理・宗教の影響と言う物を考えていた。まぁエントリーもそのように反映されている。倫理観を基にした主張と言うのは倫理観が広く共有されたときに効果を発揮する物であり、同質性を必須とする。逆に言えば社会全体が同質性を帯びれば倫理の共有を前提とした性善説が生きることとなる。

性善説では「溺れている子供を助けるのは自然な心象」ということであるが、論理的に考えればそれは異常である。溺れている子供を助けることによって自分が死んではもともこうもないからである。「溺れている子」が共有の財産であるという倫理観が無ければ有り得ない論理だ。(または「助けなかった」ことを非難され、評判に傷が付く場合か)

孟子の挙げた四端の心と呼ばれる4つの説もギルド的な制約があるからこれを守るインセンティブが働くと考えると、論理的に説明できる。相手がどこの馬かも分からなく、自分への評判が傷つかなければ四端の心を守る方がどうかしている。しかし狭い社会ではばれる心配があるのでとりあえず守った方が得だと言うことであろう。

馬車馬さん(グライフ氏)が言うところのマグレブ商人=ギルドというのは倫理=性善説と親和性が高いのではないかと言う仮説だ。ギルドは論理的には「約束を破ったら村八分」ということで強制力を持たせているのであろうが、いちいち論理的に考えるのは疲れるので倫理的な教育の方が簡単で有効だ。おまけにメンバーはギルドを形成できる程度の「倫理観」を端から共有していることであろう。

ギルド社会において論理的に説明できることも倫理で片付けた方が楽なのだ。なので単質的なギルド社会では説明を省くために倫理観を多用すると思われる。単質的な社会と言うと宗教会派、職業ギルド、単一民族が大多数の国家などで起こりうる。逆にマグレブ社会(相手を信用しない=法治社会)では倫理を基盤に社会運営を行う事は想定しずらい。

ここまで「論理で社会運営するのは大変」なので「社会運営は倫理で行ってきた」と述べた。中国や欧米のように多民族国家である歴史を有する国は法治国家になるか宗教が倫理の絶対権力を握っていた。前者は皇帝という絶対権力者とその下位になる法整備、後者では教皇に類するやはり絶対権力者が国家に対して倫理で干渉してきた。

近現代ではグローバル化が進み、他民族・国家とも相互に付き合うようになると「倫理」の効果が段々薄くなってくる、というか他民族にとって倫理は通用しない。異邦人は村八分にされても痒いくらいなので守るインセンティブが無く、法整備と強制力を整えることと成る。

話は脱線するが義務教育で道徳の時間を増やすと言う論が出てた。馬鹿馬鹿しい、論理的に説明できないから道徳と言う倫理に頼るのか。倫理に頼る教育は倫理観を共有していないと付き合うことすら難しいと言う事が分かっているのか。倫理を論理的に教えるのが道徳であれば反対はしないが。

こう考えていくと、政治や法整備に倫理を持ち出す意味の馬鹿馬鹿しさが理解できると思う。山村など小さな地域社会では昔ながらのしきたりを(それが最善なので)全員が守るので、明文化も罰則も必要ない。しかし現代に昔ながらのしきたりのイメージを持ち出し「美しい日本」とか言っても、時代も厳密な意味も共有されていない。各個人が勝手に勝手な時代を想定し「美しい」とかやらかすわけだ。こんなの上手く行くはずが無い。過去を賛美する結構だけれども具体的でなければ全く意味が無い。また日本においてつい20年前のバブル期までを除けば、現代は過去いかなる時代よりも幸せである。

食育で「従来の日本食」とか言ってもたんぱく質が足りず、塩分過多で平均寿命の短い従来の日本食のどこがいいのか。地産地消とは海無し県は魚を基本的に食べないと言うことか。つい100年前は列強にびくびくしながら戦争ばかりやっていたがそんなのが良い社会なのか。それとも鎖国をしていた200年前がすばらしいのか。

なので主義主張としての過去賛美や倫理を強調した非科学的な主張は結構だけれども説得力はまるで無い。説得された人にとってはすばらしい案であろうが、そうでない人にとっては「馬鹿」にしか見えないのだ。それを政策に反映するなど言語道断だと思うのだ。

そろそろ村社会とかギルド社会とかマグレブ社会を脱却して数十年経つ(村社会で共有する倫理など高度経済成長期に都市で核家族時代を迎えもうとっくに壊れているのだ)。「倫理」自体を否定する気は全くないが、他人に説明する際には使用しない方がいいと思う。もちろん社会慣習として残るのにも違和感は無い、しかしその代償は「差別」を引き起こすことと異分子を排出することだ。

 

ギルド社会ではギルドのルールに精通しないと受けられないサービスがある。例えば馬車馬さんが挙げた銭湯。外人を排除しがちだ。
また地域差別も残る、東北人が薩長を嫌うとか。また変わった文化は笑い者になる、たとえばTV番組のケンミンショーとか。

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Reach法の精神で食品を比べてみたら面白いだろうな件

食品添加物を嫌う風潮、例えばコンビニ弁当で「無添加」とかおかしいと思う。おまけに加工食品も嫌われてるらしく、なんか矛盾。大体レトルトとか冷食とかは菌の汚染から守る方法であり、保存料とか少ないはずだけど。

ここで標題の件、Reachとはなにかというと、「新規化学物質は安全性の調査を行わないと使ってはいけない」というのが今までのスタンスだったのに対し、「今まで使ってたものも安全性を証明してね」というEUの法律。

添加物嫌いの皆様の期待と信念に反し、現在使用されている人口化学物質のほとんどは安全な代物なのだが、旧来からの物質は麻薬や大麻など薬の兆候を示す物質や、ふぐ毒など毒を規制する程度であった。

現在使用されている医薬品・農薬・食品添加物の多くは安全性が確かめられている。ところがkのReachの精神を取り入れると、伝統的に使用してきた食品添加物や食品そのもの、調味料などの安全性を調査しなくてはならないのだ。

例えば塩が認可された農薬より危険率が高ければどうするのだろう。面白いだろうな。多分使用シーンを想像できないとか、安全性の意味がわからない人にとっては混乱するのであろうな。そのうち安全性自体を全否定し始めるのかしら。安全性を全否定する自己矛盾はどうやって解決するのかしら。

前回のエントリーでも述べたが、「食品添加物を忌避する」人はまず結論があって論理を構築したりして納得してると思われる。なのでまた新しい論理を作るのであろうが、どんな論理なんだろう。興味あるな。

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とんでもに命を賭ける人々

7/26日経で「アレルギー治療今なお偏見誤解」という記事が割りと大きく取り上げられていた。要旨は医者や専門家の指導で誤りが多く、別の問題を引き起こしたりする例が多いと言う。

日経の見識なのか「とんでも」を非難した論調ではない。症状の悪化は「専門の指導の不適切さ」と「(患者の)誤解偏見」であると述べている。しかしまぁ総じて「とんでも」を非難しているのであろう。無責任な情報を鵜呑みにしたり、思い込みでの対応を戒めている。

ところがgoogle先生に「アトピー ステロイド」で聞いてみると、民間療法のオンパレードだ。専門家の意見も聞いた上で「その人に合った治療法」かもしれないが、人に宣伝するような代物ではない。とんでも教に落っこちた人も多数。塗っても直らないから脱ステロイドらしいが、記事ではステロイドは対症療法の薬であると断言している、治療薬ではないのだ。

もうこうなると文字通り「とんでもに命を賭けている」。「とんでも」は商売のためだと思っていたが、命を賭ける程度の情熱が無ければはびこらないのであろう。

心理状態を予想するに、(1)ステロイドで直らなかった、ステロイドでは直らないと主張(当たり前だ)。→(2)ステロイドを排除に脳内変換。→(3)似たような経験者は多いので増殖。

ここで「とんでもに命を賭ける」理由は「ステロイドは悪だ」という金科玉条というか教義があって、それが目的化しているので、都合の悪い事実は目に入らないというところか。なので博士であろうが科学者でも加担者となる。科学者などは結果を論理的に扱うのに長けているので、理論とは関係ない論理構築を行い、安心するのであろう。ここに金が絡めばますます論理を強固にすることに努力すると言うところか、クラスターとかマイナスイオンとか造語も厭わない。

まただまされる人々は病気の内容を知るよりも先にこの「教義」に触れてしまった人であろう。一度その教義に触れてしまうと、間違いを認めるのは「合理的でない自分を認める」こととなるので、事実を認めたくないのであろう。なので益々教義を尊重することになる。

 

同じ頁の隣の記事では「買ってはいけない」の山中登思子氏の闘病記が載っている。脳腫瘍が原因の先端巨大症を患っているらしいのだ。記事では割とホルモンの働きで症状が起きたと丁寧に記されていた、山中氏が語ったのであろう。病気と格闘した際には科学的なホルモンのメカニズムも勉強しただろうに、、、。その結果が「買ってはいけない」ですか、そうですか。

日経はかくも香ばしく皮肉っぽい。

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官僚の効率化が高すぎる件

日本の高級官僚は少ないらしく、そもそもOECDの中で人口比公務員数は最低だとか(ソース探す気なし)。なんか分かる気がする。例えば「業界団体」を使い省令を決め、業界は金科玉条に省令を法律のごときあがめてるし。なので高級官僚は課長クラスでものすごい権限を有している。彼らが恣意的かといえばそのようなことは無く、世論や「お上の責任問題」に汲々としている印象。そう官僚は国民を守っているのだ、低コストで。その手法が競争入札ではなく随意契約に象徴される業界囲い込みだ。「官僚の夏」みたいな。

と言っても分かり辛いであろう、例を挙げる。官僚は国民に責任を負っている。馬鹿にされようが揶揄されようがその点では意識が高い。マスコミだって問題が起きれば国に責任を求める程度のアホさ加減なので官僚が全部決めないと動かないシステムとなっている。食品のガイドラインから自動車の安全性まで「国」が担保しているのだ。馬鹿な愚民の手下は公務員が何か悪さをいつも画策していると思っているみたいであるが、なにか問題が起きると国(行政)に責任を求める豹変ぶりには唖然とする。国に仕事をしてもらいたいのか、してもらいたくないのかぐらいのスタンスははっきりしてもらいたいものだ、ねっ「噂の東京マガジン by TBS」。

効率化が高い事は結構だと思う向きもあるかもしれないがそうでもない。それは表裏一体でギョーセーシドーとなどの権限が強すぎる事を意味する。官僚の権限が強くても安全・安心が担保できるのだかから良いという意見も当然ある。銀行の経営が放漫だとしても税金を投入して潰さないのは良いのかという議論があっても当然である。また極度に安全サイドに振れば薬品の認可は遅れるし、新しい殺菌システムによる食品は認められなくなる。ようは失敗を恐れイノベーションが起きないように心がけているわけだ。その責任は官僚・国民の「お上主義」に大部分の責任があるであろう。

社会システムに「お上」が関与しすぎであると思うのだがどうであろう。そして国民はそれを望んでいるのかという疑問がある。いや、それを国民が望んでいるのであればそれでいいのだけど、だとしたら多くの公務員批判(例えば行政の不作為)は批判にすら値しないと思うんだけど。そうでなく行政に手取り足取りして消費者の保護を求めるのであればもう少し評価しても良いのではないか。

結論としては、「日本の官僚は効率的だ」、それは業界異分子を認めない専制であるから。「お上」は常に責任を求められている、そのため保守的に成らざるを得ず、イノベーションを潰す。結果論として官僚は国民のニーズをきちんと拾っている気がするのだが間違ってるかなぁ。

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Web2.0になってきた

梅田さんがどう思おうがNETは広がりを見せ、つまんない意見もあるであろうが鋭い意見もあったりして、やはり情報革命の意義が有ったと思う。

だいたい「情報は質が大事だ」とかいうバカモノは昔から居た。そんなの当たり前であって情報量が増えても、質が良くなるわけは無く、どちらかと言うと質は悪くなり、その上で情報量の絶対量が増えれば良質な意見は出てくるというのは当たり前だと思うのであるが。件の馬鹿は「新聞だけ見てればいい」と思う。情報が増えたと思うから不快なのであって、増えた現実を知らなければ幸せだからだ。

情報の正しさと言うか、正当性も人気投票である程度の取捨選択が出来るようになってきた。面白いサイトは専門家が推したり、馬鹿なサイトは専門家が黙殺する。その情報の正しさを元に外野がこき下ろしたり持ち上げたりする。

従来は誰もが情報を発信でき、悪い情報も発信されてきた。ところが悪いと言うか明らかに間違っている情報はコテンパにこき下ろされているようである。なので常識的に考えればかなりまともだ。少なくとも井戸端会議でゲルマニウムのブレスレットを勧められるよりは真っ当だ。

究極的に言えば詐欺に引っかかる奴は有史以来少なくなく、べつにNETのせいではないと思う。犯罪に利用されると言う事は逆にイノベーションが進んでいるのであろう。そういえばスイカとか10年前には考えられなかったし。

ということは技術が進んだことを嘆くオヤジは放っておいて、技術の邁進をした方がいいと思う。多分現在は梅田氏の想定よりも技術が進み、さらに梅田氏の理想は現実的でなく、梅田氏の頭が付いて行っていないと言うことであろう。悪く言えばエリート管理主義ということか。そんなわけがあるはずも無く、お金を払う下々へのサービスがメインとなるのは常識ではないか。なにがWeb2.0だというところか。

でも技術は進んだ。Netを媒体とした情報のやり取りは驚くべきほど進んだ。現代の若者には家に電話をかけてデートに誘う辛さを理解できないんだろうな、そこが技術の本質だと思うんだけどどうであろう。別に転送速度とかかんけいない、生活に密着するイノベーションを問いたい。その意味では携帯電話・メールはコミュニケーションの技術革新だと思うのだ。

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現国の評論文とブログについての雑感

センター入試の現国の評論では「ロジックの切り替え」部分を探し、筆者に誘導されないようにするというのをテクニックとして学んだ。いきなり主題に入るとその背景が分からないので入試にはそのような文は不適当なのであろう。

論点が変わる部分の接続詞が「しかし」だったりするわけだ、逆も真。センター入試の評論は普段使わない難しい単語や細かい定義などが話題になるので筆者に共感することなく「読まれない(冷静に読める)」ので、まぁ得点源であった。一方小説は不自然さを脳内変換して「読んでしまう(引き込まれてしまう)」ので得点率はいまいちであった気がする。

新聞記事:・社説、ブログなどの意見表明も一種これに似ていて、論点をどう扱うかということにおいて筆者の色が出る。

例えば最初から筆者ワールド全開の記事があるとしよう。これにはその土台が共有されていれば「読んでしまう」危険性がある。批判が正しいとか、主張が正しいとかを冷静に判断できていない可能性があるというか高い。こういう記事は案外多いのではないか。この手の記事は入試問題に使われるほどの説得力は少ない。まぁシリーズ物であればそれも理解できるが。また新聞の記事や社説もこのような形態が多い。なので周波数が合ってしまうと「読ま(さ)せられる(=主張に乗っかってしまう)」危険がある。別に乗っかってもいいのだけど、それでも論理の脆弱な部分を見逃す危険はある事は理解した方がよい。

また、客観的な事実を論理的に紐解き、論点が変わり筆者の主張の濃度が高くなる記事もある。これなどは上記に記した論点の変極点が分かり易いと「あれっ」と再度「読まれない」ように身構えることも出来る。その移行がスムーズだとコロッと騙されると言うか「読ま(さ)せられる」。上手い記事はこの体裁をとっているのであろう。

何が言いたいかというと客観的な説明は多くの場合論理的で事実ベースだ。ところが主張と言うのは論理的であったとしても客観的ではなく、強引な構成の跡が必ずと言っていいほどある。この部分を明確に理解しないと「読ま(さ)せられる」し、論理の脆弱な部分を見逃す。論理展開が強引過ぎる記事はその点に気付ける、しかし上手い文章にはころっと騙されるんだよね。

また徹頭徹尾客観的な事実をもとに論じる文章もある。社会科学や自然科学など証明された事実を解説するような場合だ。こういうのは安心して読める、騙されようがないからだ。しかしそれでも反論を意識的に省くなどの誘導はあるかもしれない。

 

ちょいと話が変わるが自分の主義主張が「正しい」と理解している人は、客観をベースにした論理的な展開までも正規隋反射する。内容を吟味することなく「批判できる点」を探そうとするのだ。代表的なのはハテブみたいなのであろう、ハテブが集まれば内容を吟味することなく堂々と批判するのだ。

私自身は新聞でも雑誌でもコラムを読むのが好きだ。その筆者の文体や思考方法に共感するのであろう、それでも「読まれない」ことは律してきたと思う。ちなみに私の読解力はとても酷いもので速読など理解が付いてこないのは分かっているので速読できる人を尊敬する。ゆっくり読んでも騙される事は多い、というより騙されたことに気付かないことも多いであろう。

ここまで読んだ方には敬服する。意味の無く、とりとめも無く、論点が整理しきれていないのに。まぁ結論は無い。文章を読むときの戒めというところか。

 

最後に入試関係でこの文章を読んでここまで辿り着いた方へ。

申し訳ない。

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千円以下でブイヤベースもどきを食す

舌平目のアラが1匹分と鯛の頭(アラ)が半匹分が両方とも100円だったので、念願のブイヤベースをと。今回からレシピには値段()を入れることにした。

結論を言うと余り美味くなかった、処理と香辛料の使い方が悪いのであろうが魚臭い。おまけにアサリが多すぎてバランスが悪かった。アサリは半分でいいであろう。またレストランで本物を食したことが無い上、レシピでの生トマトとトマトピューレをトマトジュースで代用した上、具の魚介も大幅にケチっている(そもそもアラを使用とは書いてない)。出汁用のアラが思った以上に大量でもともと2人前の予定が4人前に変更。それでももっと薄めても良かったかも。不味いのは材料の問題ではなくバランスの問題だと思う。なのでレシピを参照にアレンジしてください。

材料(2~4人分):舌平目[大]のアラ1匹分(99)、鯛[中]半匹分のアラ(99)、烏賊1杯ツボ抜き冷凍(99)、アサリ200g(198)、蝦8尾(冷凍庫に有った多分200くらい)、タマネギ大半個(50)、ニンニク1片(20)、葱の青いところ(?)、ローリエ(プランターに生えてるので0)、白ワイン200cc(120)、トマトジュース無塩200g(50) 計935円。

(1)具(今回はアサリだけどハマグリか牡蠣の方が美味しいと思う)の下準備。アラを水洗いし、エラや内臓を取り除いて水で洗いぶつ切りにする。蝦の殻は剥き、殻はアラと合流。蝦の背ワタを取る。烏賊も食べ易い様に皮を剥いて輪切りに。その他お好みで白身魚を具に。
(2)タマネギ・ニンニクをみじん切りにする。あればにんじんセロリも。
(3)タマネギ・ニンニクを熱したオリーブオイル(分量外)で弱火で炒める。
(4)タマネギがしんなりしてきたらアラを投入。
(5)一応に火が回ったらワインを投入。葱の青いところと、ローリエも投入。弱火で5分。灰汁は葱に引っ付ける、取れれば取る。あればブーケガルニを投入。
(6)トマトジュース200gと水100ccを投入。15分弱火、灰汁は葱に引っ付ける、取れれば取る。あまり神経質に成る必要なし、それよりスープを取り過ぎないように。
(7)出汁は完了、シノワで漉し、ボールに。なべ底の澱は捨てる。
(8)鍋に出汁を温め、沸騰寸前にアサリを投入、少し時間を置いてエビ、イカ等具をを鍋に投入。
(9)アサリの口が開いたら、エビなどに火が通ったら塩で調味。

ブイヤベースと言うとレストランで3千円以上の代物で食べたことありません。またまともにレシピ本を見て作っても恐ろしいほど高くつく(多分4人前で4千円は行くのでは、メバル・イトヨリ各2匹とか釣りか漁港で調達しなければ無理です)。ここは千円以下でのチャレンジの結果だ。味の方は食ったことがないので当てずっぽうなのですが、素人としてはまずまずなのではないでしょうか。問題は少し魚臭い(灰汁取りを葱やタマネギに依頼してましたので)のと、アサリの分量が多かったことでしょうか。あとブーケガルニやセロリをサボって葱の青いところとローリエにしたのですがここも拙かったかもしれません。また香辛料ももっと上手に使えばと思いました。最悪臭いがきつければカレー風味で調味してもいいかもしれません。

それでも「魚の出汁」のスープの旨さの一端は感じられました、所詮千円ですので後悔のしようもありません。とにかく濃厚でした。

魚の出汁という欧州料理(というか漁師料理らしいけどね)を食したことがないので感想なのですが、洗練さは日本の鍋料理の方が上な気がします。刺身を食べた後のアラ・殻を使った潮汁・味噌汁の旨さほど洗練されていないし、混沌とした旨さは寄せ鍋を初めとした鍋のスープの旨さの方が上だと思いました。しかし濃厚さではブイヤベースの方が上です。まったり美味いです。

多分それよりも漁師料理としての勝負なのでしょう。ナメロウのお茶漬け当たりと比べるのが筋なのでしょうか。それであれば「ブイヤベース」は気取りすぎです。

一度は本物を食べたいとは思いますがこの程度で満足するのが良いというものでしょうか。

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論理に倫理が入り込む危険

いや別に倫理を否定しているわけではないんだけど、どうも倫理という奴は扱いにくくて困る。倫理と言うのを宗教と置き換えても良いんだけど。感覚的に言えば行儀の良い人や、スマートな振る舞いをする人、紳士・淑女は倫理観が高そうに見え、好印象をもたらす。

しかし街で傍若無人な振る舞いを見ると「道徳」が足りてないと思う。この道徳は倫理で説明される場合が多いけど、道徳は人口密度の多い混雑した地域で皆が心地よく生活するためのルールである。道徳=倫理ではない。正確に言えば道徳=社会ルールであり、倫理が一切無くても成立可能である。

倫理が必要ないとは思わないが、倫理とは他人に強要する代物ではないということか。他人に強要できない性質の物であれば、法や政策に反映してはならないとも言える。

結局いいたいことはこの『倫理は法やルールに反映してはならない』ということなのだ。

一例を挙げると「食育」というのは厚労省が昔から推進している「バランスよく食べなさい」で説明できるし、それが正しいであろう。ところが余分な成分例えば「国産食品を食べよう」とか「有機無農薬野菜を摂ろう」「日本食を見直そう」というのが入り込んでくる。これが進むと女は家で食事を作れと言い出したり、加工食品は危険だとか。人権を蹂躙しだしたり、嘘を広めようとする。

多分このような、倫理の成分を含む主張は、それ自体が分かり易いために単純に主張しているのであろう、反論されても何を反論されているのか理解できていないのではないか。結局派生する思想と言うのは倫理をベースに派生しているので、その根本のおかしさを万人に受け入れられないという事実を理解できないのであろう。

ここで話は脱線するが公明党と言う存在を考えて見たい。実現したい世界に多少の宗教色・倫理色が入るのはどの政党でも有り得ると思う、なので宗教がベースだから除外という考え方は視野が狭い。先ほどから「倫理は法やルールに反映してはならない」と主張しているが、具体的な政策から倫理観を排除するのは可能であると言うこと。公明党は具体的な主張は弱者救済が多いと考えるが、これは宗教色が無くても議論できる。実際公明党には宗教色が感じられないのだが。母体が宗教だから「あいつらは日本人じゃねぇ」的な考え方はそれこそ宗教・倫理と論理・理論の世界との境界をあいまいにしか理解していないのではないか。だからこそ倫理に付込んだ主張は許容する一方で宗教色が見られるとその論理とは関係なく拒否。単なる宗教アレルギーだ。

話を元に戻す。この主張を受け入れがたい人には「憲法にも倫理観が示されている」という向きもあるであろう。でも倫理の成分がなくてもほとんど成立できると思う(今改めて読んでみたんだけど何気に偉いなぁ日本国憲法)。勤労の義務はいらんおせっかいである可能性もあるが国を成り立たせるためには勤労しなくてはならないという全体最適からは許容範囲か。閣僚の文民規定は要らないのかもしれない(歴史を鑑みて入れたのであろうが)。仮に倫理を排除するのは無理だと言うのもレアケースばかりを想定しているのではないか。

元首相の安倍氏が「美しい国」というのが総スカンであったのは政策の基盤を倫理に求めたからであろう。彼はいまだに「日本が美しくて何が悪い」と思っているのかもしれない。このように分かり易い例では『倫理は法やルールに反映してはならない』に国民は反応する。同様に「脳死」や「児童ポルノ」から始まり「男女別姓」「児童の携帯所持不可」が揉めるのも倫理・宗教が入ってくるから揉めるのであると思う。徹頭徹尾倫理・宗教を廃せば議論も紛糾しなかったのではと思うのだ。

しかも倫理と論理を分けて考えられない人は倫理観を否定されたと誤解してヒステリックになるので性質が悪い。多分倫理ベースで主張する議論は、提案者が結果がもう決まったとして議論に入っているのであろう。結果が決まった議論など無い、そう矛盾しているのだ。今一度この手の議論は倫理観は万人に受け入れられない事を前提で行った方がいいと思う。

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反戦・反核のどうしようもない軽さ

梅雨が明けると戦争に対する活動が活発になる。ところが新聞などでは反戦の主張のプロセスがごっそり抜けているのでどうもしっくり来ない。

「戦争」が悲惨で避けられれば避けた方が良いというのまでは多くの人がそう思っているであろう。これは政治家、軍人でも同じであろう。しかし戦争という現象は突如浮かび上がるわけではない、そこにいたる経緯というものもある、そこを無視した言論に意味が無いと思うのだ。ということは「とにかく反対」という主張に意味がないといえる。

具体的に言うと例えば湾岸戦争時、イラクがクェートに侵攻した。クェートにとっても西側諸国にとっても望まない戦争であったろう。では戦争に反対なので「なにもしない」という選択肢があったのであろうか。また西側諸国の圧力がイラクに戦端を開かせたと言えることも出来るかもしれない。しかしそういったぎりぎりの外交問題があった上での戦争だと言うことを理解できているのか。また1941年に日帝はアメリカに戦争を仕掛けたが、ワシントン条約・ハルノートなど外交の圧力が戦端を開かせた。アメリカは負け戦を自分から引き起こすという事を想像できずに圧力をかけたようであるが、事実は日帝が負け戦を仕掛けた。当時のイラクも同じかもしれない。またイラクは湾岸戦争で政権解体までの処置を受けなかったので、イラク戦争の発端である「核開発」をブラフに西側諸国にレイズした。

このように、戦争という事象だけを切り離した「反対論」はどこまで遡ったらいいのか分からん。戦端を開いた奴だけが悪いのかという疑問がある。イラク戦争は湾岸戦争の時点でフセイン氏を殺せば良かったのかと問いたい。あくまでもブッシュ氏が悪いと言うのか。

戦争が起こるプロセスを考えると戦争を反対するという意味がとたんに無くなる。麻薬やテロや武器を輸出する国は真っ当な国からすると我慢ならないが、話し合いで上手く行かない場合はどうするのか。経済封鎖などの外交で締め付けるとテロや戦争が起きるのは歴史が証明している。戦争反対のためには(日本から見て)犯罪国家には犯罪を犯させておけば良いと言うのか。

 

同様に核についても言える。核を反対するのであれば、核に変わるアイデアを提案しなくてはならない。必要悪と言うのはどこの世界でもあるものだ。米国の原潜、空母には核を積んでるという「常識」がある。その上で非核三原則のうち「持ち込ませない」というのは建前論以外のなにものでもないという薄々たる印象が事実に変わった。

米・ロで核削減の模索が行われている。両国で戦術核を大量に保有しているようだ、ただの一度も使ったことがないのに。例えば反核の議論で「戦術核には意味が無い」という主張を聞いたことが無い。なので私が簡単に論じよう。

戦術核は基地などの局地を攻撃する兵器であろう。国の存続を脅すための戦略核とは性格が異なる。とすれば、既核保有国が後発の核保有国に核の開発を辞めさせるには、戦術核の放棄をしなければ説得力が全く無い。抑止力としての戦略核の拡散は狂った元首が暴発したら困るので分かる気がする。しかし、局地攻撃に用いる戦術核を「持つ者と持たざる者」に色分けするのは説得力に欠ける。鉄砲を向けて「お前は鉄砲を持つな」と言うに等しいからだ。

ところが戦勝国(米・ロ等)は戦術核を手放さない。また戦略核と戦術核の違いが明確でないことも説得力が無い一因だ。どこからが戦略核で、どこからが戦術核なのか明確な差はないであろう。結局、核を向けておいて「お前は核を持つな」という論理にどんな正当性があるというのか。所詮戦勝国(米・英・仏・ロ・中)のエゴなのだ。

また戦術核がお荷物なので米・ロは戦術核の削減案を模索している。戦術核を使うというのは結構難しく、戦術核を使うことで戦略核のパイ投げにならないことが前提となる。民間人の無差別大量殺戮への批判も大きいので抜けない刀なのだ。なので使用実績は無い。抜けないんだから捨てればいいのであろうが軍事バランスが変わるのを避けるために結局膠着状態から抜け出せない。先にも述べたが相手に核が無い事が分かっていても撃てないの兵器でも削減できないのだ。反核家にとって戦術核を減らすと言うキャンペーンはありだと思うのだがどうであろう。

 

 

ほんの少し考えただけでもこの程度のロジックは生成できる。ところが多くの反戦主義者は「武器商人のロビィ活動により戦争を起こそうとしている」というSF小説でも馬鹿馬鹿しくて使わない陰謀論を主張するので馬鹿だと思われている。

戦争にしても核にしても、賛成/反対の二元論では何も解決しない。もう少し現実的な議論が出来ないのか。gooニュースとか見てるとロジックが未熟な右傾化が見て取れる。もっともNETで主張するのは暇人なので、暇人が右傾化しているだけなのかも知れないが。それでも反戦主義者の馬鹿さ加減の反動である事は間違いない。

反戦主義者の多くは戦争や核に対して技術と論理で主張しない。そんなのは軽い、軽すぎる。

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リアルなちきりんさん

上杉隆×ちきりん「ここまでしゃべっていいですか」~Business Media 誠

へぇーっ、ちきりんさんは女性だと思っていたのですが、やはりそうでしたか。この記事にはあまり興味がありませんが、本編のblogは期待してます。

Chikirinの日記

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自分の上司がダメな理由

自分の上司が使えなくて困っている人って多いであろう。サラリーマンは仕事をこなせてるうちは出世するので使えないと思われる地位まで上がるという説まであるくらいだ。であるが私の出会った上司、他部署のお偉いさんは魅力的な人が多かった。そこら辺をロジカルに説明と言うか分析してみよう。

1つの事例であるが、上司だって部下を使いこなすのが仕事なので唯我独尊と言う人は少ないであろう。その証拠にビジネス書では部下に受ける上司像を演じる連載が為されている。

部下に悩む上司のための心理学~DIAMOND online

上司の方が悩むことが多いのだ。では何故上司は使えないのであろう。

先ず客観的に出世するその瞬間はその人は「期待されてる」ということは間違いないと思う。誰が期待するかと言うとその直属の上司、更に上の上司だ。新任課長への推薦は後任を指定する所属長だったり、そのまた上司(部長とか)だったりする。はっきりさせなくてはならないのは「自然と昇任する事はない」ということ。誰かの推薦がないと昇任はしない。その時点で上には「認められている」わけだ。下がどう思っているかと言う点ではこの際、究極的には関係ない。とはいえ推薦されるほどの人なので仕事が出来るとか魅力はある。その評価に直属の部下は加われない。

では部下は魅力的な上司の下で何故悩むのであろうか。これは簡単に説明できる。「上司は自分の為に仕事をしている」ということ。部下の仕事の悩みをアドバイスしたりするのは結局自分のためだと言うこと。なので上司の優先度と部下の優先度が違ってもちっともおかしくは無く、部下が困っているときに助けてくれないのには理由があるのだ。他の仕事が忙しかったり、得意先の方が大事だったり。部下にとって大事なことが上司にとって大事とは限らないのだ。視野の狭い部下は文句を垂れることになる。

まだ理由はある。上司はその上司に引き上げられた、彼にとって彼を評価する人間と彼の部下とでは優先度が異なる。あなたが愚痴を言う対象が上司であり、それを後輩に言うのに似ている。上司は部下から尊敬を受けても直接的なメリットは無い。所詮評価を付けるのは上司であり、上司に評価をされないと昇給はおぼつかないのだ。なので部下の言う事が正論であっても、部下にその正論を実現できる実力が無いと判断すればその仕事に打ち込むのを阻害しても仕方がないのだ。理想論を言えば公正に判断すると言うところであろうが公正自体に意味があるとは思えない。部下にとって見れば部下を押さえつける上司にもそれなりの意味があると言うこと。

上司がボンクラなのは部下よりもさらなる上司の方が優先度が高いからなのだ。そう考えると頭に来ないのでは?

では部下である我々の対策であるが、その上の上司に認められることであろう。部長に「あいつをそろそろ上げないといかんなぁ」と言わせれば最高ということ、さらに競合優位をアピールできれば逆転も可能。部下の人気は大事だとは思うけど上司・その上の所属長から信頼を受けなければ出世も昇進もままならない。部下に人気と言うのは1つのセオリーであると思うが「幹部からの推薦」が必要なのでそれを忘れてはダメだ。

ということは所属長と直属上司から信頼を受けるのが出世・昇進の近道なのだ。ということは部下に構っている暇がないと言うのと同意であり、、、、。

という連鎖で使えない上司ばかりなのだ。分かった?

 

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北川景子はダメな娘が似合う件

期待を裏切り続けられた北川景子を論じる。

彼女を意識したのは多分グリコのアイス。アクエリアスの時はなんとも思わなかった。清潔感があるGALって感じか。その後オダユウジのドラマに出て演技も声もダメダメで、カネボウコフレドールも柴崎コウにもってかれてるし。ぱっと見、男子的にはかなり可愛い。CMみたいにキメのパターンではいい感じなのだが、、、、。

で、今回のドラマ(Link)は良い兆し、ダメ女が良い感じなのだ。脚(スタイル)が美しくない、声もダメ、(役は)ファッションもうざい。しかしこれが良いのだ。髪はきれいだし(嘘、多分素質はあるのだろうがヘアカラーで傷んでいる)、すっぴん(にちかいメイク)は唇を強調しすぎていなくて好印象。ダサい、ダメ女が似合う。似た感じだと水川あさみよりは清潔感が有る。

こんなこと言うとファンに怒られるかしら。いちおう褒めてるんだけどね。

あと気になるCMも今後は挙げようっと。(HTMLの勉強がまだまだなんだけど)

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ニュースが多い日でした

今日は朝からニュースが多い。時系列で言うとまずは

初の第1党、民主候補者名に次々と赤いバラ~gooニュース

都政と言うより国政の代理戦争みたいで正直キモイ感じを受けました。TVインタビューで国政の政権交代を言う人が多かったみたいですし、まぁマスコミが都合の良い編集をしたかもしれませんが結果は国政の代理戦争であったのでしょう。それで良いんですか都民?銀行とオリンピックはどうすんの?

あと9時のNHKのニュースの冒頭で新宿区の後藤麻衣候補が当選圏みたいな画像が出ていたのでかなり興味を引いていました。あとNHKでは幸福なんちゃら党は[幸]という扱いでしたが、日経の朝刊では諸派でした。外山さん並みに注目していましたがNHKのコメントは私の知る限るゼロでした。

 

キリンとサントリー、経営統合へ持ち株会社統合で交渉 - NIKKEI NET

他の記事でも出てたけど独占禁止法に抵触するかもしれない上、一部上場会社と非上場の会社の合併はいろいろとありそう。アサヒビールとサッポロビールで大日本麦酒に合併したりして。

キリンサントリーは麦酒事業、洋酒事業、飲料事業は必勝劣敗が明確でいいのかも、それでも足した以上の売上が期待できるとは思えないけど。あと健康食品事業、医薬品事業は競合しないのかしら。アサヒがサッポロを吸収するよりはましだけど。

 

「脳死は人の死」臓器移植法成立 A案、参院でも可決(朝日新聞) - goo ニュース

なんか拒否できるのに、今現在脳死状態の子を「死んでいる」と判断されるのは嫌だみたいな報道があるけど、脳死を拒否できるって分かって言ってるのが痛い。別に認めたくない人は認めないでいいのに何で反対するのだろう。だいたい医学的な見解が変わる事はないであろうに。

夫婦別姓や同姓婚も結構似てるかも。だれもそれを強要しないのに自分の倫理価値を否定されてるような気がするのだろう。脳死の子に保険適用が出来るかという点となるとちと難しいが、それでも保険適用されれば済む話であり、臓器移植を全否定する必要は無いと思う。少なくとも脳死を死と認めない立場は保護されてると思うんだけど。

それよりはてなで「移植を希望したがかなわず脳死したら臓器提供を認めなければならないか(移植を待つ親は、子が脳死になったら臓器を出すか~感じない男ブログ)」という主張は面白いと思った。

この文章を読んで最初に頭に浮かんだのが馬車馬さんの「日本企業で定時で帰れないのは相互扶助で評判を培うものである(和魂と洋才と残業したい人々(下)~マーケットの馬車馬)」という主張を思い出した。この馬車馬さんの主張では残業で手伝うと言うのは評判を高めるため(そして出世するため)であると看破している。なので移植を希望する親が臓器を提供しなかったら評判が崇高な意思に泥を塗る可能性があるのだと感じた。ということは脳死をある意味義務化したのは良いことであろう、悩む必要ないし。

共同通信で社民党の福島党首が「脳死は人の死だということが、一人歩きするのではと大きな危惧を感じる」と懸念を示したと伝えるが日経と同じく悪意ありすぎ、前後の部分も分からないし、危惧の具体的な意味も分からない。

なんか無駄なコメントが多いなぁ。でもまだまだ。

 

衆院選8月30日投開票、「解散」今月21日にも~gooニュース

衆議院を解散して1ヶ月も放っておいていいんだ、良い国だ日本は。昨秋に解散していればもっと違ったシナリオが当然あったろうに、党員全体の危機管理問題をきちんとした方がいいかも。都議選で「国政」や「政権交代」が題材にされるのは都知事も都庁も困るよね。勝っちゃった民主党も困るのかもしれないが、銀行とか築地とかオリンピックとかどうすんのかね。

でも国民も困るよね。ダメ自民にバカ民主、選択肢が無さ過ぎ。公明党が宗教色を脱し、連立のキャスティングボートを担えればいいんだけど無理か。自民党にはこの際嫌われるのは覚悟で政策で行こうよ、民主はマニフェストを出すだろうからそれを読んで決めればいいし。

今日は新聞も売れただろう、ニュースの視聴率も良かったのではないか。私はドラマを見てたけど。

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わいせつは刑法で裁けるのか?な件

観光バスで公然わいせつ容疑 「大人の遠足」4人逮捕(産経新聞) - goo ニュース

「わいせつ」の定義ってなんなのだろう。倫理の問題なのかしら。倫理の問題を刑事罰で決めるのは良いことなのであろうか。それでも未成年がポルノを含めた性的なメディアに触れるのを阻害するのは賛成だ。未熟な未成年が性的な快楽に陥るのは良くないと思う、根拠なし。

公然わいせつみたいに屋外で露出をした人を罰するのは分かる、またポルノを青少年が手に取ることを前提としたような販売システムが罰せられるのも少し分かる。見たくない(見せたくない)人の目に付かないようにするのは法律で規制されてもおかしくない。

しかし「わいせつ」がらみは被害者が少ないというか居ないという点で、刑法で罰することにかなり疑問がある。両親からの虐待から逃れるための売春を初めとした人身売買、児童ポルノは被害者が当人がどう思うかは別にして被害者が特定できる。被害者が居ない犯罪というのは存在価値があるのであろうか。Linkの犯罪が不特定多数の目に付き不快感を醸したのであればなんとなく納得できるが、同好の士の間でのおふざけを「犯罪」と見做すのにはかなりの違和感がある。

そう考えると被害者の存在しない「わいせつ」は罪になるのか。この事件は「わいせつ」が本当に刑事罰に値するかを問うていると思う。

この事件では逮捕されたが不起訴とか、無罪になるのかもしれない。しかし「逮捕」という事実は重い、その判断は裁判所を含めた司法界隈の決定による。穿った見方だが、「逮捕することにより民衆の倫理観を引き締める」が当人は無罪放免ということがあるのかもしれない、よく分からんが。

被害者の居ない犯罪をどう取り扱うかに注目してみたい。

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